私とファンタジー その9

原初への旅・・ファンタジーにそって読む中沢新一


●なぜ中沢新一か
 2004年の12月29日の晩、寝る前に本を読んでいました。書名は『僕の叔父さん』。宗教学者・哲学者である中沢新一さんが、歴史学者の叔父である網野善彦さんについて書いた本です。
 夜中、夢のなかで私の頭のなかに、わあっとその本の文面が浮かびあがりました。「礫(つぶて)、トランセンデンタル、アジール……」とくり返し現れるその言葉に興奮し、「そうなんだ、そうなんだ」と何度もうなずいていました。目がさめると、またすぐに目をつむり、頭のなかに文章を書くと、それはスラスラと書きつづけられるのでした。そのことに興奮しながら、はっとでてきたのが「原初への旅」というこの表題でした。

・・この物語(『指輪物語』)を読み終わったとき、私の頭にこう言葉が浮かびました。「ファンタジーは、きわめて個人的な世界でありながら、原初に近い時代の人の思い(多くの人が共通に持っている思いや願いなど)につながる行為への道しるべを、探ることから生まれる物語」なのではないかと。この意味はまた後でじっくり考え直してみます。(私とファンタジーその1『指輪物語』より)

 3年前、「私とファンタジー」を書きはじめたときの言葉が、ピッとそこにむすびついたのです。「起きたらすぐに書こう!」と思って寝たのですが、年末のこと。大そうじにおせちづくり、お客さんと、先延ばしになっていきましたが、きっとこの気持ちは逃すことがないという確信がありました。今までとはなにかちがう閃きを、ひそかに思い出しては興奮していたからです。
 この興奮をどのように書いたら伝えられるかはちょっと難問ですが、とにかく書かずにはいられずに書きました。
 まず、なぜ「中沢新一」なのかという理由は、中沢さんの著作から、私がなぜファンタジーに惹かれるのか、私の考えるファンタジーとはなにか、ということのかなりの部分を解き明かせるからなのです。中沢さんの本を「ファンタジー」という視点で読みすすめると、それがおもしろいように浮かびあがってくることに気づいたとき、興奮しました。『僕の叔父さん』『世界最古の哲学』『熊から王へ』『精霊の王』の4冊の本を中心にそのことを示していきたいと思います。

●原始まで突き抜ける視点を持つ(「礫」と「トランセルデンタル」を足がかりに)

 『僕の叔父さん』のなかで、中沢さんの義理の叔父さんにあたる網野善彦さんが、研究をすすめるきっかけともなった「礫」とはなにかというと、簡単に言えば石を投げること、投石です。歴史をたどれば、子どもたちの間でも「印字打ち」または「菖蒲きり」というある種のイニシエーション的な行事としてありましたし、悪党(権力に組織されていない者たち)が戦うときにも、権力や強い者に向かって投石がされました。

・・「ぼく自身、自分がなぜ悪党なんかに惹かれ続けてきたのか、その意味が今ようやくわかってきたような気がします。飛礫が菖蒲切りのような民間の習俗と、同じ根源から出ているとすると、悪党という存在そのものが、中世とか古代とかいうことよりももっと根源的な、人類の原始に根ざしていることになっていきます。鎌倉時代の、あの歴史の転換点に浮上してきたのが、まさにそういう原始をになった人々だった。そう考えると、なぜあの時代だけにかぎって、日本人の宗教思想が飛躍的に深まったのかまで、わかってくるような気がします」(網野善彦の言葉・・*1 p5)
 
 この網野さんの言葉の興奮は胸に迫ってきました。長年、研究をつづけてきた課題にどうして惹かれ続けてきたのかを、原始までつきぬける視点と共につかんだのです。
 網野さんのこの言葉の前には、中沢新一さんの父である中沢厚さん(『つぶて』の著者)が、こう語っています。

・・学生たちの投石を見ていて、ぼくはなぜわれわれが反権力の闘争を続けなければならないのかという理由が、わかったような気がしたんだよ。あそこで機動隊に向かって石を投げていたのは、ただの政治かぶれの学生なんかじゃなくて、もっと大きな意思に動かされているものではないのか。その意思というのは、マルクス主義とかレーニン主義とか毛沢東主義とかいう近代の政治思想なんかにとどまるものじゃなくて、もっと根源的な、人類の原始から立ち上がってくるなにかじゃないかと思った。われわれの反権力の闘争の根源は、そういう場所から立ち上がってくるものなんだから、党なんてたいした問題じゃない。そう思うと、自分が政治活動で挫折したことなんか、たいして重要なことじゃないんじゃないかって、思えるようになったのだよ」(中沢厚の言葉・・*1 p50〜51)

 今起きていること、人の言動、事件、世の中の動向。そこになにを見るのか、それがなににつながるのか、どうしてそうなったのかを思考はしても、原始にまでさかのぼることはなかなかしませんし、できません。それになぜ、目の前で起こっていることを、原始にまで結びつける必要があるのでしょうか。でも私には、その原始にまでさかのぼる視点こそが、ファンタジーの視点と重なると思えたのです。
 原始まで突き抜ける視点とは、今起こっていることの背後に原始をかぎつける臭覚、柔軟な創造力でもって今と原始をつなげられる思考の跳躍とでもいうのでしょうか。その想像力と思考の跳躍力は、ファンタジーを読むこと、書くことにつながっていると感じたのです。

・・飛礫はアジア的生産様式を突き抜けて、さらに人類の原始(具体的には新石器から上部旧石器の時代のことが考えられていた)にまで深く根を下ろした、根源的な人間的行為であることを知らねばならない。(56〜57p *1)

 飛礫という行為が、原始まで深く根を下ろした根源的な行為だと知ることに、どういう意味があるのでしょうか。それは行為の本質を知ることであり、行為の本質を知ることは、人間を理解することにつながります。歴史をつらぬいて浮かびあがってくるひとつの行為。ブレイクは「一粒の砂の中に世界を見る」と詩に詠みましたが、ひとつの行為のなかに原始までつながる人間の根源的な世界が見えてくるのです。
 では、原始まで貫ける視点を持つのには、どういった要素が必要なのでしょうか。
 この話の前に、中沢さんは自分の一族を「『トランセンデンタル』に憑かれた人々」という言葉で説明しています。トランセンデンタルとは、「先験的」と訳されていた言葉で、「経験に先んじている」つまり「経験が触れることのできない」というような意味合いです。この言葉は、人間の心の中に現実の世界において五感で感じる経験が及ばない、完全に自由な領域があって、この自由な領域こそが人間の本質をつくっているのだという考えのもとになっているのだそうです。

・・この言葉が指示する世界に心惹かれた人たちは、宗教や哲学に深い関心を寄せるようになる。心の奥のその領域でおこっていることに、魅了されつくしてしまうと、そこからは「宗教の人」が生まれる。しかし、人間的自由の根拠地であるトランセンデンタルの領域に考えられることと、経験まみれの現実世界でおきていることとを結び合わせて、現実世界のほうをなんとか「理想」のほうに合わせてつくりかえていこうとする思考が発生するとき、極左と極右をひとつに抱え込む、ラジカルな政治思想の持ち主たちが出現することになる。(33〜34p *1)

 ファンタジーを書くこと、読むことの両方に、このトランセンデンタル的な領域を持っているかいないかが大きく作用していると私には思えました。トランセンデンタルは、現実の五感から自由になっている領域ですから、ファンタジー世界への旅というのは、この分野が大きく関わっています。このことは、ル・グインの言葉を思いださせます。
「ファンタジーは旅です。精神分析学とまったく同様の、識域下の世界への旅。精神分析学と同じように、ファンタジーもまた危険をはらんでいます。ファンタジーはあなたを変えてしまうかもしれないのです」(『夜の言葉』より)
 トランセルデンタルの領域に魅了されつくしてしまうと、「宗教の人」が生まれるというように、深く入り込んでしまえば、人生観が変わってしまうかもしれません。けれど、ファンタジーを書く人も読む人も、そうなってしまうわけではないのです。ファンタジーを創造する人は、トランセルデンタルの領域を旅し、心の奥底、人間的自由の根拠地を訪れることによって、創造と空想を自分のほうにたぐりよせ、現実に押しつぶされるのでもなく、空想にとらわれるのでもなく、現実とはちがうもうひとつの世界を描きだしていくのです。
 中沢家で理想の社会についての論争が闘わせられたとき、マルクスがザスーリッチへ書いた手紙をひいて、網野さんはこう言ったそうです。

・・マルクスはここで、ミール(ロシアの古い農村共同体ですばらしい要素をもった社会)を破壊してその先へ進んでいくという考えを否定しています。じゃあ、彼はミール共同体へ帰れと言っているのかといえば、そうではないでしょう。ミール共同体の中には、原始・未開以来の人類の体験と知恵が生き残っている。それを破壊してはいけない、と言っているんじゃないでしょうか。ミールという農村共同体の中に保存されている、原始・未開の要素を取り出してきて、それを新しい社会を構築していく原理にすえることが必要だ、と言おうとしているんだと思います。(中略)問題は、どうやってそういうものを取り出してくるかということになります。(42p *1)

 ここもファンタジーの創造世界に関する重要なことが語られていると思います。私は、この箇所を読んでいて『指輪物語』に描かれたホビット庄を思い浮かべました。なぜトールキンがハイファンタジーという形であの物語を書いたのかも、このときわかるような気がしました。私たちは指輪の旅をホビット庄から出発します。ホビット庄では、冒険の旅や新しいことにはなるべく目をそむけ、心地よい穴の家と美味しい食べ物とワインをたのしみ、足ることを知っているホビットたちが暮らしています。でも彼らの中には、危機のときに発揮する思いもかけない底力と人間の善良さが宿っています。ホビット庄は、長いことひっそりと世界の片隅に隠れていました。しかし、指輪は世界のあまねく箇所を例外とせずに、ひとつの力の元にひきずりこんでいこうとします。これは、現代の管理社会を彷彿とさせます。
 指輪消滅後、ホビット庄はサルマンによって破壊されかけますが、サムが中心になって再建されます。ガラドリエルからもらった土で木を育て、再建する過程で、きっとホビット庄の人たちにはなにが大切なのかということを意識せざるを得なかったと思います。そこには意味があります。指輪はやはり、彼らをも無意識から意識の世界へと連れ出したのです。ホビット庄は、原始・未開の地ではなく、新しく構築された場所となります。時代は確かに移行したのです。
 また、この物語がハイファンタジーとして書かれたのは、私たちの足がかり(出発点)が現実の社会ではなく、ホビット庄であるという構成に非常に意味があると思えます。
 ファンタジーは空想の世界ですが、およそ、現実の社会とかかわりのないファンタジーはあり得ないと思います。反対に、どんなに現実が覆いかぶさってきても、トランセンデンタルの領域に立つことで、心の奥底の世界を活性化できるのです。トールキンがホビット庄を描くときもそうだったのではないでしょうか。この関係性については、あとで「ファンタジーと神話」でもくわしく述べます。

●ファンタジーの展開する空間(「アジール」を足がかりに)
 人類学や宗教学ではよく知られた「アジール」という空間について、話をすすめます。この「アジール」という空間は、ファンタジーに深くかかわっていると思います。
 アジールとは、簡単に言えば世俗の権力やしがらみによる拘束が及ばない空間のことで、大概が由緒ある寺院や先祖のある墓を中心に、さまざまな形で存在していました。いやな結婚から逃げたいと思う女性のかけこむ寺とか、精神に病をかかえた人たちが避難した場所であり、あるときはていのよい隔離所としても機能しています。このような空間の存在は、「権力」というものが生活のすみずみにまで影響力を及ぼすことができなかったということを示しています。けれど、現代社会では、高度に情報化、組織化された警察力を背景にして、法律があるので、そこからまったく自由である場所は存在しないでしょう。ですから歴史に存在していた「アジール」という空間を、私たちは非常にとらえにくくなっています。
 「権力」という力の様式に支配された現代人の思考をとおして、その時代のことが解読されたり、解釈されたりするのはすでにフィルターがかかっているので、現代人を拘束している見えない権力の働きから自由になるための道を開いていくために、アジールのことを考える必要があると、網野善彦さんは語っていたそうです。

・・今はもう存在することがなく、過去においても理想的な状態は長く持続することができず、またこれからのちもけっして実現することはないだろうが、そのことについて思いをめぐらし、その理想を実現するために心を傾けて努力することによって、世界は変わっていくかもしれない。アジールとは、そういう概念なのである。(*1 71p)
 
 ファンタジーとは、そういう概念なのである、と最後のフレーズを言い換えたくなりました。
 アジールの存在していた社会では、人間は自分たちの生きている世界を、社会的な規則がつくりあげている領域と「自然」の領域とに分けて、ものごとの意味を思考していたそうです。この「自然」につながる領域には、トランセンデンタルな力が充満していて、「神のみそなわすところ」として、社会的な規則や法の支配権の外に置かれていました。
 この領域に踏みこんでいける人は、たいがいトランスの能力をもっていました。それがシャーマンと呼ばれる人たちの原型です。この領域には、動物や植物の世界である深い森があり、そこに棲む熊のような動物が自然の根源にひそむ威力を代表していました。国家が形成され、支配が広がると、この領域は次第に侵食されていきます。

・・トランセンデンタルな力こそが、世界の根源にあるもので、人間が「文化」の原理をもってつくりあげる社会の中には力(権力)の源泉は存在しない、という思考がそこには、厳然たる威厳をもって作用し続けていた。アジールの思想はそこから発生してくる。(*1 84p)

 なるほど、アジールの消滅していった近代では、ある人たちは自由を求める心、秩序や常識から飛び出そうとするエネルギーを大人よりずっと蓄えている子どものなかに発見しようとしたのかもしれません。そう考えれば、子どものそばにファンタジーが存在するひとつの理由がわかります。しかし現代では、近世以前とは違う意味で、子どもと大人の世界の明確な線引きはできなくなりました。子どももまた、権力や社会の常識の及ばない空間で、自由に飛び回ることが困難になりました。

・・根源的な自由を求める心というのが、人間の本質をつくっている。だから人類はそれぞれの社会の条件に合わせながら、さまざまな形態のアジールをつくり出すんだ。未開社会には未開社会の自由の空間というのがあったし、古代社会には古代社会の自由を表現するための、都市というアジールができた。中世は沸騰する宗教の時代だから、アジールは寺社の権威を借りて、自分を実現しようとした。そういうものをつくり出そうとしているのは、人民の中にひそんでいる自由への根源的な希求なんだよ。(網野善彦の言葉・・89p*1)

 国家を立ち上げる権力というのは、人びとのアジールへの欲求と対立します。アジールとしての本質をもつ場所や空間や社会組織、そして子ども特有の時間は、近代においてつぎつぎに破壊されていきました。それは人間の本質である根源的自由を求める心を抑圧してきたのです。
 ファンタジーもまた、人間の本質である根源的自由を求める心を携えているのではないでしょうか。失われたアジールを求め、再現して表現してみようとしているのではないでしょうか。その手がかりとして、時には子どもの思考や空想によりそい、アジールに心を傾ける作業をしてきたように思えます。アジールへの憧れは、ファンタジーへの憧れに似ています。
 では、なぜ今多くあるファンタジーが国や王権を描き、空想の国をつくりあげていくのか。そのことと人間の本質である根源的自由を求める心とは、いったいどういう関係になっているのか。そのことも後で考察したいと思います。

●神話とファンタジー
 時代をもっとさかのぼって考えてみたいと思います。
 オーストラリアの先住民アボリジニーの神話は、「ドリームタイム」に起こったことだととらえられています。このドリームタイムの質を中沢さんの本を読んで、新たに認識しました。
 ドリームタイムとは精霊たちの活躍する聖なる時間の物語で、聖なるものは時間や歴史から脱出しているという考えが、大昔からあったそうです。神も時間から脱出した存在です。人間を時間の呪縛から解き放つものとしてあったというのが神の一面かもしれません。すると、ファンタジーの冒険も近いものがあります。ナルニア国で大人になるまで過ごした子どもたちが現実の世界に帰ってくると、さっきからほんの一瞬しかたっていなかった、ように、ファンタジー世界には現実とは違う時間が流れています。このことはちょっと意外性を持ちながらも、私たちは案外すんなりと納得できるのではないでしょうか。これはファンタジーが神話の世界に近いからだと思うのです。
 では、神話とはなんでしょうか。ここで、中沢さんの『世界最古の哲学』を参考に、神話とファンタジーについて考えてみたいと思います。

・・とりわけ国家や一神教が発生する以前の人類は(旧石器時代の後期から)、この神話という様式を用いて、宇宙の中における自分たちの位置や、自然の秩序や人生の意味などについて、深い哲学的思考をおこなってきたのである。神話はのちの宗教とはちがって、どんなに幻想的なシチュエーションを思い描いているときにも、現実世界への強烈な感心とその世界を知的に理解したいという欲求を、失うことがない。(4p *2)

 上の文の「神話」を「ファンタジー」におきかえて読んでみてください。時代は保留しておきましょう。
 神話は特有の論理をもって展開するので、人間と動物が変身によってたがいの位置を交換したり、機能を逆転したり、ダイナミックやねじれやひっくり返しもおこります。しかも、神話は見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、皮膚感覚を具体的な素材にして展開する論理をもっていて、それらを組み合わせて、世界の意味や人間の実存について考えぬこうとします。神話はファンタジーの作用に似ています。多くのファンタジーが神話を下敷きにしてきたことの秘密が、ここにある気がします。ファンタジーは、現代になにをよみがえらせようとして神話を使うのでしょう。

・・神話が好んで語りだすのは、内側と外側がすんなりひとつにつながってしまう場所だとか、動物と人間のようにいまは別々の存在になってしまっているものたちが同じ生きものであったときのことだとか、いまいる場所がとてつもなく遠いところの異界にくっついてしまう奇妙な特異点だとか、人間がいまのようにまわりの生き物たちから優越した存在ではなく、動物たちと同じことばをしゃべって対等なつきあいをしていた頃のことなどです。(23p *2)

 ここを読むと、『ナルニア国物語』の「ものをいうけもの」たちのことが浮かんできました。なぜナルニア国の動物たちは人間の言葉をしゃべるのでしょう。なぜ指輪物語の黒い森が動くのでしょう。どちらもしゃべらなくなる、動かなくなる、という危機(転換点)を示唆していました。この2作品は、20Cにイギリスで書かれたファンタジー文学と呼ばれる作品です。ファンタジー文学は19C半ばにイギリスで発生したと言われ、キリスト教と深く関わっていました。キリスト教の教えと神話との関係性は私にはよくわからないとことですが、キリスト教の要請もさることながら、神話との関係も深くあったことは事実です。トールキンとルイスは、北欧神話、ギリシャ神話、サーガに深い興味をもっていました。
 そう考えると、神話の思考と現代とを接点を持たせる手段として、ファンタジーが現実の子どもの世界と異空間を設定し、現実も異空間もリアリズムの手法で描きだしたとも考えられます。

・・あらゆる神話には、ひとつのめざしていることがあります。それは空間や時間の中に拡がって(散逸して、とでも言いましょうか)、おおもとのつながりを失ってしまっているように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうとすることです。(25p *2)

 ファンタジーが現実逃避の文学であるという批判に対して、ファンタジーの研究者の何人もが、ファンタジーにおいては現実と異空間との往復に意味があり、現実ではない場所へ行くことによって、現実を照射しなおすことができる、というように答えています。まさに神話の「空間と時間とが自由に行き来する世界で、失われたつながりを回復する、共生の可能性を探る」という作用に合致してきます。
 たとえば、空から飛んできたメアリー・ポピンズは、不思議世界をうちに秘め、子どもの現実世界へ登場します。そうして、不思議世界をまずは子どもたちが体験し、あるときは公園にいた人たちと、あるときは町全体と共通体験し、バンクス家のつながりを回復したり、その時々に必要な人物同士をつなげたり、町全体にエネルギーを吹きこんだりします。なによりも、読者が海のそこへいったり、動物園で動物の王の蛇にあったり、太陽や月にあったりすることで不思議体験し、バンクス家の日常への見方(つまりは自分たちの日常への見方)を変えていくのです。
 メアリ−・ポピンズは太陽や星、海の生き物、地上の動物たちとの間もつなげている存在として描かれていて、その存在はワイズウーマン、グレートマザーに近く、神話・伝承的な世界をひっぱってきます。彼女は、自然の息吹をひきつれて、産業革命後の子どもの部屋のあるイギリスにやってきて、生活に調和をとりもどそうとしているのではないでしょうか。
 もっと直接的に神話と関わってファンタジーをつくった例として、アラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』があげられます。ウェールズの神話・伝承を下じきにして、現代の若者3人の関係を描きます。神話・伝承を現代の若者がとらえ直すことによって、現実で失われつつある人間関係を回復します。神話の伝えようとしている哲学をとらえ直すことによって、現実の問題に突破口を開いたのです。
 ファンタジーが神話を下敷きにしているのは、産業革命後のイギリスにおいて、近代の危うさを作家が直感していたからではないでしょうか。そのために神話的な世界を呼びもどそうとしたのではないでしょうか。ファンタジーは神話を必要としていたのです。
 ナルニア国では、動物が言葉を話しますが、となりのアーケン国や巨人の国ではしゃべりません。その対比を考えても、作者は意識的にナルニアを神話の世界と近づけて創造しているのではないでしょうか。ナルニアでは、フォーンやケンタウロス、巨人や小人、あらゆる種族が共生しています。
 『指輪物語』の世界でも、人間が自然を征服することを良しとは描いていません。自然と暮らす種族の衰えを描きながら(エントなど)、自然との共生を妖精たちが暮らせる世界と重ねあわせ、その衰えを悲しんでいます。また、(権力)欲の象徴である指輪を手放すことができたのに、妖精や魔法使い、指輪にかかわる種族たちは船で別世界へと旅立っていきます。神話の世界はこの地にはもどってこない、世界は後戻りはしないのです。しかし、この物語は、物を手にいれ、消費する欲望の増大する現実世界に警笛を鳴らし、手放すことがどれほど難しいかということ、手放す選択を身をもって示しています。
 中沢さんは、神話は、宗教のように現実の世界のなかで始原の状態が実現できるとは考えていないのであって、始原の状態を思考し空想することが、現在の状態をよく判断するために必要であるということを願ってつむぎだされたものである、と解説しています。
 つまり、神話は人間の始原の社会、世界の本質をとらえるために思考されたものと考えれば、イギリスやその他ヨーロッパのファンタジーが、神話から題材をとって発生したというのはごく自然な流れです。神話の思考が必要であると感じた作家たちが、その時代に呼び起こした手法がファンタジーとして結晶したとも言えます。となると、それはひとりの作家だけではなく、とくにイギリスで大きな流れになり、世界へ広がっていったわけですから、なぜその時代に、そして今なぜファンタジーなのか、ということも考えていく手がかりになります。 

●なぜ魔法が必要か
 アジールのところで述べましたが、アジールは社会的な規則がつくりあげている「文化」の領域ではない「自然」の領域とつながっていました。この領域には、トランセンデンタルな力が充満していて、「神のみそなわすところ」として、社会的な規則や法の支配権の外に置かれています。そしてここへ踏みこんでいける人は、たいがいトランスの能力をもっていて、シャーマンと呼ばれる人たちの原型と考えられます。
 この領域は、基本的には動物や植物の世界である深い森の中にあり、そこに棲む熊のような動物が自然の根源にひそむ威力を代表しています。
 アジールには、ファンタジーの異空間の原型が感じられます。なぜ森なのか、動物なのか、自然なのか、そして、魔法使いなのか。この領域に入るために必要な力と、そしてこの領域に満ちている力が、アジールの原型と重なります。
 たとえば中沢新一さんは、世界に広がっている「シンデレラ」の話に神話的思考が残っているとし、シンデレラについて思考していきます。
 シンデレラの果たす役割を考えていくと、貧しいものと身分の高いものをつなぐという仲介者の役割がでてきます。そして、世界各地に伝わる数々のシンデレラの変形版の話をさぐっていくと、靴を片方なくして歩くシンデレラは、片足をひきずって歩くオイディプスと同様であり、生の世界と死の世界の両方に足をつっこんでいる、生と死の仲介者ではないかととらえます。中国版シンデレラでは、魚の骨を供養し、骨に恩恵をもらうわけですが、この姿は生と死を仲介し、死者と交信できるシャーマンと同じです。
 社会組織や権力に組み込まれていない人、欧米では魔法使いや錬金術師、日本で言えば巫者やシャーマンと呼ばれる人びとが、神話やファンタジーで大きな位置を占めるのは、この人たちの持っている力によるでしょう。魔法とはつまるところ、自然と人間とを仲介をする力であり、死者と生者を仲介し、そして空と地を行き来できる力のことです。その力を持つ人たちはどちらかの世界に属するのではなく、両方に足をつっこみ、両方の世界をひきよせるのです。
 なぜファンタジーに魔法が必要なのか。それは、ファンタジーのつくる空間が魔法に満ちているからであり、現実とファンタジー空間をつなぐ仲介として魔法の力、それを使う仲介者(魔法使い)が必要だからなのです。さらに、物語自身が仲介の機能を発揮するために、魔法の力をいろいろな面で必要とするので、時に“不思議”に姿を変えても、魔法がさまざまな形で現われるのでしょう。

●現実と異空間との関係

 基本的にはファンタジーには現実世界と異世界という2つの世界があり、異空間のあり方にはさまざまなスタイルがありますが、この現実世界と異世界を行き来する(または不思議世界を体験する)ことによって現実を逆照射するという効能が、ファンタジーの特性としてあげられます。では、ファンタジーにおいて現実と異世界とは、どのような関係にあるのでしょうか。
 神話の場合からちょっとさぐってみましょう。神話は現実と幻想(異世界)との間にあって、二つの世界を仲介しているといいます。

・・神話は現実と幻想のあいだにたって、二つを仲介しようとします。その上で、幻想の世界に埋没することの危険を知っています。神話はこのように、現実との対応を絶対に失わないようにしています。ところが私たちは、(中略)現実を失ってでも、バーチャルな世界へ入ってしまおうとする可能性を、常に持っている生き物なのです。私たちの心は、現実の世界の豊かさや複雑さを、五感を通して受け入れようとしていますが、同時に、心の中の完全に自由なバーチャルな領域に呑み込まれたいとも思っています。(中略)
 その危険性に向かって、神話は警告を発してきました。人間が自分の心の内部のバーチャルな領域にあまりに深く踏み込んでいくとき、人間は宇宙の中でもバランスを失います。(*2 206〜207p)

 神話と同じく、異世界(バーチャルな領域)を描きながら、現実を見据えているのがファンタジーです。ファンタジーは「行きて帰りし物語」なのです。「行ったままでは危ない!」という警告をファンタジーも持っています。ファンタジーは神話と同じように哲学をもち、時代への警告が含まれています。ですから、異世界を旅することによって、普段は見過ごしていた(見えなかった)ものが見えてきます。
 また、ファンタジーは、心と体のバランス感覚をとりもどす作用をする文学でもあります。異世界(異空間)はしばし、人間の内面、心の宇宙にたとえられます。人間の内面と外面である現実社会での生活とは、微妙なバランスを保っています。ですので、ほんとうは注意してバランスをとっていく必要があるのです。近年、メンタルヘルスや心の病気が大きな話題になるのは、このバランスが崩れているせいではないでしょうか。心と体のバランスをとりにくい社会に私たちは生きていると言えます。
 そんなところからも、現代では、本来のファンタジーが必要とされているはずです。しかし、似て非なるものであろうゲーム的なファンタジーは、神話や『指輪物語』に代表される古典的なファンタジーの様式だけを残し、無防備に異空間(バーチャルな領域)を出現させています。そこでは、現実と異世界との関係性はほとんど問われていません。ル・グインの言っている自分を変えてしまうかもしれない「識域下の旅」にでるには、あまりに無防備ですし、心のバランスをとりもどしたり、現実への逆照射の力は期待できないでしょう。
 ファンタジーは、見えないものを見えるように言葉で表現します。ゲームや映画、アニメで、それを目で見えるものとして描いた場合、なにを失って、なにを得るのでしょうか? このことはあまり問題にされていませんが、大きな問題なのだと思います。
 ファンタジーの異世界がどこに存在しているのか、私たちは地図上で示すことはできません。それは、示さなくても確かにここにある、と一人ひとりが確信するものなのです。この異世界はきわめて個人的な世界であり、個人の心の作用で変わる世界なのです。つまり、まったく同じ異世界というのは、ひとつとして存在しないはずなのです。
 ゲームや映画では、多くの人が共有できるような形で、神話の形式やファンタジーの様式が使われています。でも、たとえばRPGゲームで、主人公にゲーマーの名をつけることができたり、旅の仲間や道すじやアイテムを選ばせたりするのは、じつは本来の個々人のもつファンタジーの世界へ近づけようとする工夫なのかもしれません。しかし、やはりだれかのつくったゲームをたどっていくなら、選ばされている、歩かされている不自由感をすべてぬぐいさることはできないでしょう。根源的な自由をゲームに求めるのは無理があります。それが、目に見えるものとしたゆえの制約だと思われますし、この制約は、神話やファンタジーの本来持っている力を剥ぎとっていると思えます。このことは、現実と異空間との関係を考えればよくわかると思うのです。
 異空間(自然の脅威を含む世界)と現実を行き来する魔法の力とは、異なるものを仲介する力でした。しかし、その仲介する力は、映像やゲームでは必要とされません。日常と異空間の橋渡しをする魔法が必要でなくなったとき、魔法は「楽をする」「富を得る」「なんでもできる」ための欲望の道具になりさがります。『ゲド戦記』は、このことにシリーズを通して警告を鳴らしています。魔法をめったに使わない魔法使いガンダルフも同じです。物語の最後に、ガンダルフは別世界へと旅だっていき、世界は魔法の存在しない人間の世界として残されます。それはつまり、近代の社会の象徴でもあるわけです。本来のファンタジーでは、魔法はとても注意深く、世界とのかかわりのなかで慎重に描かれていました。
 また中沢新一さんは、人間だけの論理ですべてを支配するという危険を逃れるために、先住民の社会では儀式として、生活している社会と脅威ある自然の世界との間を「行ったり来たり」することを紹介しています。つまりこちら側で動物を殺す人間は、あちら側では自然の力に殺される(呑み込まれる)体験をしてもどってくるのです。この関係を描いたファンタジー作品としては、福永令三さんの『クレヨン王国の花うさぎ』を思い出します。遠足に行って行方不明になった校長先生はヒキガエル、子どもたちはそれぞれバッタ、テントウムシ、カワセミ、フナとなって、別の命を生きる体験をします。その体験から得た感覚をもって、現実の生活へ帰ってくるのです。このような重みを持つ(真面目とか堅苦しいという意味ではありません)ものとしての異世界こそが、識域下の旅の場であり、自分を変えてしまう危険性をも含んでいる世界なのです。

・・神話論を、バーチャルな領域の問題としてだけ語ることもできます。しかしそれは、結局神話を「様式だけ」からとらえることになってしまうでしょう。神話や民話の中から、論理や構造をとりだすだけでは、原初の哲学としての「内容」がすっかりなくなってしまいます。(中略)神話の「内容」とは、その具体性の世界との関わりの中にみいだされます。(中略)バーチャルな領域で神話を自由自在に、まるでおもちゃのように扱っていると、このことは見えてきません。神話はまぎれもない哲学です。それが、宇宙の中で拘束を受けながら生きている人間の条件について思考しているからです。この拘束についての理解がないところで繰り広げられる神話ごっこは、どうやっても哲学となることができずに、ただの「様式」だけで終わることになります。そうなるとどんなにすぐれたアニメ作品であっても、それは快感原則のためにささげられるただの消費物です。(*2184p〜185p)

 王がいて、国があって、姫や騎士がいて、ドラゴンと宝物があり、魔法が充満しているというわかりやすい背景に、アイテムを使うキャラクターがいて、なにかを手に入れ、だれかを倒していく末に得られる成功、というお決まりのストーリーにのって展開するファンタジー。この様式の上にのっとって手をかえ、品をかえ、あふれてくるのは神話ごっこならぬ、ファンタジーごっこではないでしょうか。私たちは、このようなファンタジーごっこのゲームや物語や映画に、本当に満足しているのでしょうか?
ファンタジーの描く異世界のあり方は、時代によって変化します。ファンタジーは幻想文学とリアリズムを両親として生まれてきたものと言われます。その意味において、ファンタジーは時代に受け入れられるように、異世界をリアルに描かなくてはならないのです。そこに制約も発生し、舞台設定も定められてきます。なぜ、小人の話がある時期に集中して生まれてきたのか、その理由もここから探れます。
 現代社会で私たちが異空間を求めるとき、そこにはどんな制約が生まれるでしょう。現代の状況を見ると、まるで制約はどこかへ吹っ飛んでしまったかのように見えます。たとえばハリーポッターは優秀な魔法使いの血筋で、人間の世界にまぎれて住んでいますが、「そんなこと現実にはありえないよ〜」と真面目に意義を唱える人はいません。それは作り物の話である、と最初からみんなが納得しているからです。現代社会には、バーチャルな空間があちこちに存在しています。つくりものでないものを見つけるほうが大変です。ゲームもなんでもありの世界ですし、たとえば『遊戯王』というマンガのなかには、世界各国の神話の神々や怪物や住民、宝などの物がキャラクターカードになって、いっしょくたに登場します。息子が収集したカードを眺めながら、多くのキャラクターがだれであるか説明できる私を「お母さん、なんでそんなこと知っているの?」と不思議そうな顔をして息子が見ていました。
 なぜここにいるの? どうしてあなたがいるの? そういう理由は求められないのです。「つくられた(選ばれた)からそこにある(いる)」のです。神話や本来のファンタジーで思考されてきた、現実と異世界との関係はぐずぐずになっています。このことから思い浮かぶことは、私たちは、つくりもののあふれた社会に生きているゆえに、それはつくりものだとあえて異議を唱える体質がなくなっていき、一見本当のことに見えるテレビ放送や週刊誌の記事等が、じつはだれかがつくったものである、ということを見抜く力も失いつつあるのかもしれません。

・・一万年ほど前から都市が発生しますが、この都市化が合理化(*過剰に豊かな現実から情報量の排除をおこなって、人間の思考と行動でコントロールできる領域を囲い込むこと)をよりいっそう推し進めました。予測とコントロール可能な領域を空間の中に確かに成立させ、その内部でおこなわれることだけに高い価値を認めようとする運動に、現実性を与えようとしたわけです。今日ではそれがヒトの神経組織や大脳の内部過程や肉体の使用法にまで「内部化」して、そこを合理化し開発すべき新しい領野に変貌しつつあるために、私たちはいままであった「人間」の概念までが、大きく動揺しはじめているのを感じているのです。IT化がそれを促進しています。それに対応して、資本主義の本質が変わりはじめています。こうして形成されつつある世界の中で、私たちは「自由」であることの意味を考え直さなくてはならなくなっています。神話の研究などが今日に意味を持つとしたら、そういう問題を根源から考えるための、大きなヒントをはらんでいるからです。(*2 183p)

 現代の状況についてはまた考察するとして、ファンタジーが原初の世界を描こうとするのは、人間が生きることを原初まで立ちかえって考えようとするからです。なぜなら、それは、自分のなかの根源的な自由を求める心をエンパワメントさせるきっかけになるからです。たとえ現実の世界が大きく変化したとしても、自分のなかに根源的自由を求める心を確認するために、私たちはファンタジーの世界へと旅だつのではないでしょうか。
 この欲求は、形式や様式だけ残したファンタジー世界では、多分満たされないはずですが、もし、多くの人が十分に満たされていると感じているのだとしたら、危機的な状況とも言えます。なぜなら、多くの人が根源的な自由を求める欲求を捨ててしまった、あるいは見失ってしまったということだからです。そうなれば、もはや現実と異世界との関係性などを問うのはめんどうくさいということになるでしょう。
 『指輪物語』で語られた指輪を捨てるという行為は、まさに現代の私たちの問題としてここにあります。『ナルニア国物語』で描かれた異民族との共生、動物たちとの関係もまさに現代の課題です。メアリー・ポピンズのように、不思議をひきつれている大人が子どものそばにいる、子どもに現実ではなくその向こうの世界を見せてくれる大人がいるということも、現代社会のなかでとても大切な要素です。
 では、氾濫しているファンタジーと呼ばれているものは、このような課題を抱いているえしょうか? 消費物以外の可能性は、ほんとうにないのでしょうか。それについて考えてみたいと思います。

●なぜ王なのか、国なのか
 世界には、国をつくろうとしなかった人たちがいることをご存知でしょうか。王をもたなかった人たちがいることを知っていますか? 翻って、なぜ多くのファンタジーは、国を創造し、王をおき、権力争いを好んで描くのでしょうか。
 国をつくろうとしなかった人たち、王をおしいだこうとしなかった人たちのことを、中沢さんの『熊から王へ』でさぐると同時に、なぜファンタジーが王や国を求めるのかを考えてみたいと思います。
 そもそも、国とはなんでしょうか? 王とはなんでしょうか? 王のない国はありえるのでしょうか? 国はなければならないのでしょうか? そこまで帰って考えることが、原初の視点へとつながります。
 
・・人間の社会の内部に持ち込まれた権力を体現するもの、それが王と呼ばれる存在にほかなりません。王は、ほんらい「自然」のものであった力の源泉を、人間である自分のもとに取り込んで、そこに社会があるかぎり君臨し続ける者であることをめざすものです。(*3 185p)

・・王が生まれれば国が発生します。しかし、豊富な備蓄経済を実現し、階層性が発達させ、国家がいつ生まれてもおかしくない条件を備えていながら、けっしてつくりださなかった民族もいるわけです。対象性社会では、人間は理性の表現である「文化」を生きる動物なのであり、権力は理性を超越するものとして、「自然」の領域にあるものでなければならなかったのです。そこでは、王も国家も、発生できない仕組みになっています。(*193p)

 人間が神話的思考を捨てたとき、そこに大きな力を持つ王が登場し、国が発生します。神話的思考は、「力の源泉」を人間のつくる社会の外へ置きます。大きな権力は理性を超越します。ですから、理性的で文化的な生活をする人間は、権力を社会のなかに呼びこまないブレーキの機構を維持しています。残念ながら、そのような人たちは世界では数少ない人たちで、権力を社会に入れこんだ圧倒的な人たちのつくった巨大な国家によって、片隅に追いやられています。それでもアメリカのイロコイ連邦のように、6つの部族からなる独立自治領として認められているスタイルもあります。
 人間は、もともと自然の中にあった力を、特別な季節に、ある儀式や秘密結社の存在をとおして体験していました。しかし、この力が、特別な人間(王)に属するものとして、王の体に宿り、いつも社会の中にいることになったのです。王は国を治める政治家であり、戦士であり、シャーマンでもあるわけです。
 多くのRPGで、キャラとして魔法使い(シャーマン)、騎士(戦士)、賢者(首長)がいて、力と役割が分担されていることは、王出現以前のスタイルに近いものです。
 このスタイルは、もともとのファンタジーの様式として残されています。『ナルニア国物語』を書いたルイスは、指輪物語の登場人物についてこう書いています。

・・リアリズムの作品であれば、性格描写によってなされる多くのことが、ここではただ人物をエルフ、ドワーフ、ホビットに分けることによって行われているのである。想像上の生き物たちは、その内面を外面に表している。彼らは目に見える魂なのだ。そして、世界を相手に戦う人間を全体として見る場合、おとぎ話のヒーローとして人間を見立てるまで、そもそも人間の実体を理解することがあっただろうか?」(*5)

 キャラクターが「目に見える魂」であるとは、まさに目からウロコです。ヒーローは、人間の実体をとらえなおすためにいて、それらの目に見える魂たちは、自分たちの社会になぜ王が出現したのか、その王がどんな国をつくることになったのかを、シミュレーションするために旅にでるのです。自分の存在を理解するため、人間とその国の存在を問い直すため。このような逆照射をするのがファンタジーであり、その機能のためにキャラクターやヒーローはいたはずなのです。
 社会の仕組みが見えにくくなったとき、自分の力をどうやってそこへ関わらせてよいのかわからないとき、原初のスタイルに帰って、それぞれの力と分担を決め、ひとつの世界をつくっていく作業をしてみるのには意味があります。このことは、階級性を呼びもどしたり、力や血筋がものをいう世界で人を見下してみたいという、かたよった欲望のせいではないと、私には思えます。ただ、ゲームをつくる側はそんな考えでつくっていないため、二重三重にゆがめられてしまうのでしょう。
 『指輪物語』の世界で、長いこと王不在であったことは、このことと関係していると思えます。指輪の欲望により世界を危機に陥れた王は、すでに世界から追いやられています。荒地をさまよう馳夫として生きてきた王の血筋をひくアラゴルンは、指輪を捨てるという選択のもとに、王となります。王の存在する世界をとりもどしたとき、魔法使いやエルフたちに代表される魔法の力は世界を去っていきます。世界をすみずみまで統べる力を象徴する指輪を持とうとするサウロンは、常に世界の脅威としてよみがえるであろうことが示唆され、そこに指輪を捨てさることのできる王を抱く世界を打ち立てます。しかし、指輪を捨て去っても、世界は原初のように輝きに満ちた空間にもどるわけではありません。指輪に象徴されていた大きな力には、魔法や妖精たち、自然の力も含まれていました。人間たちは、それら魅力ある力を自分たちの世界に残すことができず、海のかたなへ追いやることしかできなかったのです。しかし、これは正しい選択とも言えます。
 王とはなにか、国とはなにか、という問いは、私たちの社会を問うことです。権力とはどういう力なのか、私たちの社会にどう存在するべきか、そのことを問うとき、私たちは魔法とも呼ばれる仲介する力と関わりあいを持ちます。

●天皇制とファンタジー
 以前、「日本にファンタジー文学が生まれにくいのは、天皇がいるためである」と誰かが書いていました(出所探索中)。「え?」と思って、それはすごいことを聞いたと思ったのですが、しばらくして「待てよ」と疑問をもちました。たしかに天皇制について考えてみることは、日本に住む者としてファンタジーを考えるうえで必要ですが、天皇制があることとファンタジーとの関係はよくよく整理してみないとな、と思っていました。一気に結論をだすわけにはいきませんが、ここで少しこの問題にアプローチしてみたいと思います。
 なぜ天皇がいるからファンタジーが生まれにくいかという理由としては、ファンタジーはリアルな現実と空想の世界をくっきり分けて描くのに、日本では神話という世界を背負った天皇が現実にいるので、空想の世界との線引きがあやふやになる。だから、日本人は天皇神話以外の自由な空想世界をつくりづらい、というようなことだと私は理解しました。
 たしかに日本は欧米にくらべると、神話的世界が日常生活のすぐそばに感じられます。大きな祭りでなくても、桃の節句や節分やお盆など、季節ごとの行事のたびにお雛様や鬼やご先祖の存在が生活のなかにもどってきます。私たちは、リアルな現実世界と空想の世界とを分かちがたく生きているのです。
 また、古事記、日本書紀は時の権力を肯定するために編纂しなおされたものですから、都合のいいように改変された神話と言えます。

・・神話的思考は、人々がまわりの世界にいつも対象性を回復しようと試みている社会の中でなければ、本来の能力を発揮することはできません。そうでない社会の中で、神話の形式が利用されますと、いまある社会の秩序を正当化したり、権力者にとって都合のいい話がつくられることになりがちですが、それでは神話の本来の能力はひどく歪められてしまいます。(*3 36p)

 『記紀』は、このことを意識して読んでいかないとなりませんし、逆にこのために、何度読んでもスリリングな謎を見つけるおもしろさもあるのですが、どこに手をいれ、どこまで本当なのか、なにを、だれを暗喩したものなのかは、はっきりとはわかりません。
 明治になる近代への転換期において、神話は再度権力に利用されることになります。戦後、天皇の人間宣言があったわけですが、私たちのなかには『記紀』で伝えられた神話に対して、屈折した思いがあり、欧米のファンタジーのように神話をそのままファンタジーの下じきに使ったりすることには、抵抗があります。日本人には、神話とのよい関係が築かれていないのです。また、私たちが帰る原初は、『記紀』とイコールではないと言えます。
 天皇と神話のそもそもの関係はどうなのでしょうか?

・・天皇制という王権の特徴は、秩序をつくりだす政治的機能とは別に、王権と国家というものが生み出されることになった過程の本質を表現しているひとつの「構造」を、いつまでも宗教的な領域に保存し続けたというところにある。この「構造」は、自然のものであった「超越的主」を社会の内部に取り込むトリックによって国家が発生した、その過程の本質を表現しようとしたものだが、天皇制はこの「構造」を自分の内部に保存しつづけようとすることで、むしろ国家というものの本質を隠し立てすることなく、ナイーブに表現してきたのだとも言える。しかもその表現は法律的・制度的なことばではできない。矛盾を論理の中に呑み込んでいける神話の思考によらなければ、この過程の全体性を表現するのは、難しい。そのために、この部分が残存し続けるかぎり、王権を全面的に近代化することなどできない仕組みになっている。天皇制が神話的思考を必要としたのは、そのためである。(*4 210〜211p)

 同じ王権でも、欧米の王権と日本の天皇制には上記のような違いがあります。
 また、一神教と多神教の違いとして、ファンタジーに関係あることとして思い浮かぶのは、偶像崇拝の禁止です。キリスト教とイスラムでは偶像崇拝を禁止しています。ですが、多神教は神の像をどんどんつくっていきます。私たちの神はまるで増殖するように、生活空間のあらゆるところ、台所にも便所にも廊下にも納戸にも、道ばたにも池にも木にも曲がり角にも存在します。神は一枚の葉にも一寸の虫にも宿るのです。それが日本的な多神教の宇宙です。
 天皇制は、多神教の社会であるからこそ違和感がなく存在できるのでしょう。なぜなら、自然の力を自分のなかに取り入れた天皇は、現人神という扱われ方をしました。人間が生きて神になるということは、一神教の世界ではありません。まして、一枚の葉や一本の木にも神が宿る世界なのです。数え切れない神をまとめる神として、神を具現した存在として天皇は位置したのでしょう。私たちは氏神様のいる神社を拝みますが、それら全国の氏神様を拝むことが、天皇を拝むことにつながるような仕組みをつくったのです。天皇が新嘗祭をしたり、いまだ神事を屋敷の奥深くで秘密に行っているのがなによりの証拠です。私たちはなぜこのことに抗いきれないのでしょうか?
このように王権のスタイルが違うのですから、イギリスで生まれたファンタジーが日本ではぐくまれることになった場合、独自のスタイルがでてくると思われます。それは結果的にはファンタジーとは呼べるものではないかもしれません。「ファンタジーとは見えないものを言葉の力で見えるようにする」、とトールキンは書きましたが、多神教を生きている私たちは、偶像をつくることに抵抗がありません。ですから、言葉の力だけで見えないものを見えるようにする一種、修業的な態度はどうもなじまないのかもしれません。見えるものにしてしまってもいいわけですから。それゆえに、アニメでキャラクターがおもしろいようにつくれるのではないでしょうか。アメリカのキャラクターが、いまだにスパイダーマンやバットマンやミッキーマウスであることを考えると、日本のポケモンは一気に151のキャラクターをつくりだしたうえに、まだまだかぎりなく生み出しそうです。このことは、一神教と多神教の違いではないかと、私はひそかに思っていました。多神教の国こそ、キャラクターの宝庫になる可能性をもっているはずです。
 話が飛びました。ここで言いたいことは、私たちの帰るべき原初はイコール『記紀』ではないこと、天皇制ではないということです。ただ、天皇というスタイルをもつ王を強力におしいだいたことのあるこの国の構造、人びとの生活のありかた、考え方、宗教心、アンデンティティの持ち方等々をさぐりながら、くり返し帰るべき原初へ立ちもどり、シュミレーションしてみる必要があるのです。そのための様式として、精神として、ファンタジーは有効ではないかと思っています。
 天皇制と神話とファンタジーについて、鈴木武樹さんが語っているのを知りました。『日本児童文学』(1973年1月号)の「ファンタジーとは何か?」という座談会の記録です。(出席者 神宮輝夫、横谷輝、鈴木武樹、安藤美紀夫〔司会〕)

・・じゃあいまぼくが自分の身のまわりを見て、ぼくがもしファンタジーを使う部分があるとすればなにかといったら、ぼくの場合は天皇制の問題だと思うんです。(中略)
 片方では自然を愛する人間がもう片方では「南京虐殺事件」を起こしたら、それをなんとも思わなかったり、あるいは「バターン死の行進」についても同じです。そこの二つの日本人の姿を結びつけるのは、天皇制ですが、そこのところをいまはっきりと子供たちにわかるように書くにはファンタジーを用いるしかないような気が、いましている。

 また、神話についてはこう語っています。

・・ああいった擬似神話(記紀のこと)のさきに自然発生的な神話がなにかあるはずですが、それは、『古事記』『日本書紀』をそのまま信じていたらでてこない。どんな優秀な作家が、たとえば福永武彦とか、石川淳も最近『古事記』を訳しても、出てきたものは天皇制イデオロギーに荷担する皇国史観的なものばかりです。だからやはり日本神話をもし出すなら、『古事記』『日本書紀』の意図から解放された形の神話を出さなければいけない。(中略)
 意識がどんなに民衆の側に立つ意識をもっていたとしても、『古事記』『日本書紀』を利用するという形において、すでに天皇制の中に組み込まれてしまっているというのが日本神話の恐ろしさだとぼくは思いますね。

●原初への旅についてのヒント
 「原初への旅」も終り近くになってきました。最後に、私たちが旅をする原初とはなにかのヒントが、どういうところにあるかを探ってみたいと思います。
 まず、私は『クレヨン王国』(講談社青い鳥文庫)シリーズを思い浮かべます。このシリーズには、多神教的な宇宙が表現されています。欧米と日本の融合的な文化や、日本の伝統的な文化や生活、宗教心、そしてなにより自然と人間のかかわり方、人間と動物の関係について思考を促すように書かれています。この一見なんでもありの作品群は、今までありそうでなかったスタイルです。近いのは小川未明の世界かもしれません。このようなスタイルは子ども向けの本だからこそ成し得たように思えます。キャラは「目に見える魂である」とでてきましたが、クレヨン王国では、魚も虫も人もクレヨンも同等にキャラクターとして登場します。目に見える魂であふれかえった世界なのです。多くの大人がつまずくのは、まずはこの魂であふれかえった世界なのでしょう。しかし、虫もクレヨンもすべての登場人物が「どう生きるのか」に多様にアプローチします。欠点を克服したら人気までなくなった王女や、ネコの顔に犬の体をもつネコ犬や、ドングリのドングリポッチ、監獄の看守のセミや、インチキ不動産屋の雉、クーデターをもくろむイタチや、平和主義で無能の白鳥や、豚と鶏のコンビ、人の三分の一しか年をとらない王子、百人一首から飛びだした清少納言、こちらの世界から迷い込んだ女の子……。まるで子どもの頭のなかのように多種多様な、バラエティに富んだ世界で、そして深い世界です。クレヨン王国は作者の哲学から生まれた世界です。このシリーズを読むうちに、私は見たことのない鳥や草花の名前をたくさん覚えていました。また、けっして現実では会うことのないだろう登場人物がまるで生きているように思い浮かぶのです。
 
・・これは宮沢賢治も問題にしていたことですが、人間は動物を殺して、肉や毛皮をとったりしなければなりません。この条件は実際には現代でも変化していないのですが、現代社会はその殺害がおこなわれている現場を、なるべく人目につかないところに隠しておこうとしているために、技術を手にした人間と自然のままの動物との間に発生する、この非対称の状況が、心を痛める大きな問題として浮上してくることはありません。
 ところが、どんな時代にもこのことに気づいてしまう人たちが必ずいるものです。そういう人たちの代表がすぐれた童話作家や詩人たちで、この人たちは世界の舞台裏ではひどく残酷なことがおこなわれていることに気づいて、傷つくのです。(*3 37p)

 宮沢賢治と同じく、クレヨン王国シリーズを書いた福永令三さんもこのことに気づいた作家のひとりだと思われます。私の読んだかぎられた本のなかでは、同じようなセンスを感じる作家に梨木香歩さんがいます。神沢利子さんの『銀のほのおの国』もまさに命を食べて生きることについて書かれていました。
 このような作家の作品や思考を読みとることもヒントになりますが、中沢さんの『精霊の王』には大きな大きなヒントが隠されています。ここには『記紀』よりずっと以前、新石器、縄文時代からの古層の神々についての探求があります。日本に王権ができ、国家が出現したとき、日本各地にいた神々は王権のもとに召集され、分類されました。王権にとりこまれないで消えていったり、姿を変えた神々はとてもたくさんいると思われます。けれど、その後も脈々と受け継がれてきた古層の神のなかに宿神がいます。この本は、宿神を中心に描かれています。古層の神々は、けっして歴史の表舞台には登場しません。つねに大きな権力の後戸に潜んでいるのです。

・・正統なる「主権者」を、現実の権力者たちの間を廻って探し求めるのは無駄なことだ。そうした「主権者」たちは、国家が出現して以来、地上を支配し続けてきたが、彼らのすべてが偽物なのだ。世界をなりたたせている「力の源泉」の秘密を知っている者は、そこにはいない。歴史のゴミ捨て場、記憶の埋葬場にこそ、それはいまもいる。
 「世界の王」は、人間がまだ偽の主権者に支配される以前の、地上に国家が出現する以前の記憶をはっきりと保持している。新石器文化をつくりあげていた人間たちの「野生の思考」が生み出した、粗末だけれど豊かな心の産物を、この精霊はなによりも美しいものとして大切に守っている。(*4 319〜320p)

 歴史のゴミ捨て場、記憶の埋葬場を、中沢さんは掘り起こしていきます。それは網野さんが「飛礫」から原始に貫く視点を発見したように、中沢さんは古層の神(精霊の王)へと焦点をあてます。まがりくねって、見えにくい私たちの原初への旅の道すじに、古層の神々は光をあててくれます。その古層の神々は、私たちのすぐそばにある物や習慣のなかに潜んでいるのです。姿をかえ、あり方さえも変えられながら、古層の神々は原初への道のヒントを発しています。どこで、だれから、なにから、この旅のヒントをつかむかは個々人に任せるしかありません。でも、ヒントはどこか遠いところにあるわけではありません。手をのばせば、耳をすませば、感覚と研ぎすませて見れば、私たちのすぐそばにあるのです。

・・この王(精霊の王)は、未来の人間の世界に出現しなければならない「主権」の形についての、明瞭なビジョンを抱いており、それをなにかの機会には、心ある人間たちに伝えようとしているように、私には見えるのである。(中略)
 すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞していくのか。(*4 320p)

 ファンタジーに興味のある人たちは、きっとこの精霊の王の語りかけるひそやかな声に耳をかたむける資質があると思います。未知や不思議が充満する原初の旅への道のりが、そのささやきの向こうに広がっていたなら、いたずらに恐れるのでなく、識域下の探索の場として足を踏み入れるでしょう。それは恐ろしいほど心を刺激し、どきどきわくわく、スリリングで魅惑的、大いなる危険に満ちた旅かもしれません。しかし、ファタジーを自分の人生で大事にしている人ならきっと、耳を閉ざして、淀んだ現実の世界で閉塞してはいないでしょう。
 なぜ、こんなにもファンタジーに惹かれるのしょう。C.S.ルイスは『指輪物語』についてこう語っています。

・・神話の価値とは、私たちの知っていることをすべて取り上げ、「習慣という蔽い」に隠れていた豊かな意義を取り戻してやることである。子供は、弓矢で仕止めたばかりのバッファローのつもりで、(そうでなければ退屈極まりない)冷肉を楽しむ。子供というのは賢いのだ。物語のソースに浸すことによって、現実の肉はより味わい深いものになる。そうすることによってのみ、それは現実の肉になると言ってもよいかもしれない。もし現実の風景に飽きてしまったら、それを鏡に映して見ればよい。パン、金、馬、りんご、そして街道そのものを神話の中に置くことによって、私たちは現実から隠遁するのではない。むしろ現実を再発見するのである。物語が私たちの心に残っている限り、現実の事物は一層それらしいものになる。この本はそうした処置を、パンのみならず、善と悪、私たちの終りのない危難や苦悩喜びにまで施してくれている。神話に浸すことによって、私たちにはそれらがよりはっきりと見えるようになる。それは他の方法では不可能であっただろうと私は思う。(「トールキンの『指輪物語』C・S・ルイス 高岸冬詩訳 *5)

 私たちが選んだ原初への旅の方法がファンタジーだからです。(「私とファンタジーその10」に続く)
 
*1『僕の叔父さん』中沢新一、集英社新書
*2カイエ・ソバージュ1『人類最古の哲学』中沢新一、講談社メチエ
*3カイエ・ソバージュ2『熊から王へ』中沢新一、講談社メチエ
*4『精霊の王』中沢新一、講談社
*5『ユリイカ・指輪物語の世界・ファンタジーの可能性』2002年4月増刊号、青土社
*6『日本児童文学 1973年1月号』特集 ファンタジーとは何か

Copyright(C) Riel Horikiri 2003
ホームへ