ももたろうリレー童話・テーマ「桃」第一作

兆しの木」五(最終回)


水科 舞        


 黒いものは、ホースぐらいの太さで、兆し坊の足首にぎりぎりと巻きついていた。どくどくと呼吸をするように動いて、兆し坊の身体を下へ、下へと引っぱっている。
「これが、兆し坊を雲の中に引きずりこんでるんだ。よーし」
 桃子は、兆し坊のからだを雲の上でしっかりと支えたまま、兆し坊の足へとけんめいに手を伸ばした。でも、届かない。
「きゃ!」
 逆にバランスをくずして、桃子まで雲のうずの中に落ちてしまった。気がつくと桃子は、兆し坊のからだから手を離して、雲の中に逆さにめりこんでいた。
 だけど、そのおかげで、今桃子の目の前には、兆し坊の細い足と、からみついた黒いひもがある。
 チャーンス!
 桃子は黒いひもをつかむと、力いっぱいそれにかみついた。
 ガブッ!
「痛ーいっ!」
 悲鳴が上がって、黒いひもはシルシルシル……と、兆し坊の足を離れて、どこかへ引っこんでいった。
「やった!」
 雲にめりこんだみっともない体勢のままだったけど、桃子はガッツポーズをとった。
 まもなく、小さな二人組が狛犬と力を合わせて、
「うんしょ、どーっこいしょ」
と桃子を雲の上に引きあげてくれた。
「うう……うええーん……」
 泣き声がする方を見ると、黒くて頭に角の生えた小さな男の子が、手をさすりながら泣いている。
「ひどいよ、こんなにひどくかむことないじゃんかー」
 鬼のような姿をしたその子が、どうやら悪さをしていた魔の子らしい。
 その子の手首には、くっきりと桃子の歯形が残って、血がにじんでいた。
(あの手が、ひもみたいに伸びて、兆し坊をつかまえていたの?)
 桃子はまじまじと見ていたが、魔の子がべそをかいているので、なんだかかわいそうな気がしてきた。
「ごめん。だけど、あんたが兆し坊をいじめるからいけないんだよ」
「いじめるだとぉ!」
 魔の子は憤慨して言った。
「おいらたちがいなかったら、いい兆しも、わるい兆しも、何もかもが人間のところへいっちゃうんだぞ。だから、おいらたちがやってることだって、大事な役目なんだ」
 悪いやつだとばかり思っていた魔の子の意外な言葉に、桃子はぽかんとした。
 桃色と緑色の小さな二人組の顔をみると、ふたりは少し困ったような顔をしている。
「人間たちは、今日一日のことで手いっぱいなんだ。なのにそこに、いろんな未来の兆しがどっとやってきたら、どうなる? どうしていいか、わからなくなっちまうだろ。先のことがわからないからこそ、今日がんばれるんだ。おいらに言わせりゃ、兆し坊なんておせっかいの先走り野郎だよ!」
 兆しが人間に届くのを邪魔するのがいいことなの?
 桃子にはわからなくなってきた。
「ちがう!」
 兆し坊が目をきらきらさせながら立ち上がった。
「受けとった兆しを、いい未来にするか、悪い未来にするかは、その人次第なんだ。兆しは、自分から未来を迎えるチャンスなんだ。だからぼくたちは、どんな兆しもちゃんと人間のところに届ける。邪魔はさせないぞ!」
「へん!」
 魔の子は顔をゆがめてせせら笑った。
「おまえとは何千年たとうが、意見が合わねーよなぁ。いいさ、やれるもんならやってみろよ!」
「何を言う。さっきは油断して不意打ちをくらったけど、足の速さならぼくの方が上だ!」
「あーっ、ちょっと待ったーっ!」
 じりじりとにらみあう兆し坊と魔の子を前に、桃子は声を上げた。
「ねえ兆し坊、何か兆しを持ってきてくれたんでしょ? それ、あたしにちょうだい!」
「ああ、そうだったね」
 兆し坊はふところに手を入れると、何かを出して、ぽーんと桃子のほうに投げた。
 おや? このふたりは、これを奪いあっていたわけじゃなかったんだろうか?
「よし、行くぞ。追いつけるもんなら追いついてみろ!」
「負けねぇぞ!」
 兆し坊と魔の子は、空気のうずを残して、しゅるんと姿を消してしまった。
 とたんに魔の子がしかけた雲のうずまきも消えうせた。
 桃子はからだがふわっと宙に浮くのを感じた。
「え? うそ!……きゃあーあーあ!」
 今まで乗った中で一番おそろしいジェットコースターのような感覚がして、小さい二人組と狛犬のあっけにとられた顔が、みるみる遠ざかって消えた。
「落……ち……る……っ!」
 ごうごうと耳元を吹く風の中で、桃子は兆し坊からもらった「兆し」を落とさないよう、懸命に握りしめた。
 それは小さくて丸くてざらざらした感触で、強く握るとつぶれてしまいそうだった。
 ……これって、桃?
 はるか上のほうで、きらっと金色の光が光ったような気がした。


「桃子、桃子!」
「うーん……」
 ゆすぶられて桃子が気がつくと、そこはおじいちゃんの床の間の掛け軸の前だった。
 不安そうな声で桃子を呼んでいたおばあちゃんは、桃子が目を開くと、ほっとしたような顔をした。
「いつからここにいたの? 何かあったかと心配したんだよ」
 何があったんだっけ?
 そもそも、この掛け軸から桃色と緑色の着物を着た、ふたりの子どもが走り出て……。
 はっと目をやると、掛け軸の中には、小さな子どもがふたり、2週間前に見たときと同じように遊んでいた。
 さっきまで一緒にいた、あの子たちに違いない。
(あ……)
 桃子はまじまじと掛け軸を見つめた。
 花も葉もない木の枝に、桃色の小さな花がひとつ、咲いていた。


 結局、兆し坊が持ってきた「兆し」を、ちゃんと桃子は受け取ったらしい。
 だけど、それは何の「兆し」なんだろう? 何を意味してるんだろう?
 桃子にはさっぱりわからなかった。
 おばあちゃんの話だと、前にこの掛け軸の木に桃がなったときは、桃子がおかあさんのおなかにいたときだ、と言ったけれど……。
 考えながら桃子が家で待っていると、外に車が止まる音がした。
 2階の窓からそっと外をのぞくと、おかあさんが車から降りてくる。
 おや? 送ってくれたのは、桃子も何度か会ったことがある、おかあさんの職場の橘さんというおじさんだ。
 おかあさんは「すみません」というように、軽く頭を下げている。橘さんが何か答えたのだろう。車の中で手を上げたのが見えた。
 以前会ったときの、橘さんのちょっと照れ屋な笑顔を、桃子は思い出した。
 その瞬間、桃子は突然、降ってきたかのような甘い花の香りにつつまれた。香りとともに、あたまの中でぴかぴかと光るものがあった。
 おとうさんが死んでから、ずっとひとりで桃子を育ててくれたおかあさん。
 亡くなったおじいちゃんに、「もし、いいお話があったら……」と言われても、笑って首を横にふっていたおかあさん。
 そんなおかあさんにも、新しい未来の兆しがきたのかもしれない。
 はっと気がつくと、花の香りはもうしなくなっていた。
(受けとった兆しを、いい未来にするか、悪い未来にするかは、その人次第なんだ)
 そう言った兆し坊の言葉を、桃子は思い出した。
(兆しは、自分から未来を迎えるチャンスなんだ……)
「ほーんと。おせっかいなヤツ!」
 桃子は、おかあさんを迎えるために、とんとんと足音を立てて、階段を下りていった。


《The End》