『クレメンタインの卵』
鬼ヶ島通信17号(1991年)・入選作
作・水科 舞


 三丁目のノラ猫、クレメンタインが、普通より三週間も早いお産で、子猫ではなく、大きな一つの卵を生み落とした、という話は、たちまち町中の猫に広まりました。
 猫たちは、塀の上で、縁の下で、ノラ猫となく飼い猫となく、顔を合わせるとその話で持ちきりでした。うわさは猫以外の犬やねずみ、鳥を含めた動物たち全体にまで広がり、「卵を生んだ猫」の話を知らない生き物はもはや人間だけ、というありさまでした。
 クレメンタインは、日本猫にペルシャの血がちょっぴり混じったと思われる長めの柔らかい毛が特徴の、白い身体に褐色のぶちのあるとびきりの美猫(びじん)でした。それだけでも近隣の注目を集めていたのですが、つい一か月ほど前に、急遽引越しの決まった飼い主一家に置いてけぼりにされるという運命に見舞われ、猫という猫、ことにオス猫の、同情と興味の視線の集中砲火を浴びることになったという次第でした。
 苦労を知らない薄幸のお嬢さんの面倒を見たがるオス猫は引きもきらず、二丁目のボス猫が彼女を口説いたとか、角のキザなヒマラヤンがあっさりふられたとか、屋台のシマがものにしたとか、様々なうわさが猫たちの毎日を刺激的なものにしてくれました。当のクレメンタインはというと、身なりこそ多少薄汚れたものの、おっとりとした品の良さは相変わらずで、超然と何も語らないので、一体本命が誰なのか、これからどうしていくつもりなのか、皆死ぬほど知りたがっていました。
 そんな時、クレメンタインが身ごもったのです。
「クレメンタインに赤ちゃんができたって!」
「おとなしそうな顔をしてねえ。」
「父親は、ねえ父親は誰なの?」
 かしましいメス猫たちは手を打って喜び、オス猫たちは、夢破れてうなだれる者と、ひそかににんまりする者の二つに分かれました。
 にんまりしたオス猫たちは、それぞれ密かにクレメンタインを訪れ、皆一様に言いました。オレの子供なんだろう? こうなった上は否も応もない。子供ごと面倒を見てやるから一緒に来い、と。
 しかし、重たげな身体を縁の下に横たえたクレメンタインはゆっくり首を横に振って、答えました。
「さあ、どうかしら……? わたしにもよくわからないのよ。この赤ちゃんがどこから来たのか。」
 そうした最中の出来事でした。皆が注目するなか、生まれたのは、誰にも似ない、誰も見たことも聞いたこともない、白い大きな卵、だったのです。

「赤ちゃんが出来たとわかったときでも、わたし、自分が母親になるなんて想像がつかなかったわ。子供がかわいいとも思えなかった。まして、生まれたのがこんなものではね。マリ、これをわたしは一体どうすればいいの?」
 自分の頭ほどもある白い丸い卵を伸ばした身体の脇にながめながら、クレメンタインは途方に暮れていました。
 彼女が話しかけたのは、「マリおばさん」と皆に呼ばれているトラ毛の飼い猫でした。クレメンタインが飼われていたときの隣の家の猫で、この事件の中でもクレメンタインの変わらぬ友人であり、相談相手でした。
「しっかりしなさい、クレメンタイン。おまえが生んだもの、おまえの生命よ。育ててやらなくちゃ。その子が自分で歩き出すまでね。」
 もう三回もお産をして一ダース半もの子猫を世に送り出している肝っ玉母さんであるマリおばさんは、力強く言いました。
 クレメンタインは首をかしげました。丸い瞳が、何も知らない子供のようでした。
 まったく、事態はますますややこしいことになっていました。クレメンタインが正体不明の卵を生み落としたという事実を知るなり、これまで彼女を追いかけ回していたオス猫たちは、一斉に掌を返したように彼女との関係を否定したのです。
「冗談じゃないよ。オレぁ立派な猫だよ。これまで他のメス猫(おんな)に生ませたのだって五体満足非の打ちどころのない、正真正銘の猫さ。あんな妙ちきりんなものがオレの子供であってたまるかってんだ。」
 そんなわけで、クレメンタインは奇妙な卵をかかえて、世間のいじわるな興味と不審と排斥の視線を浴びながら、もうマリおばさんしか頼る者はいなくなってしまいました。
 クレメンタインは、卵を見やってため息をつきました。もう何もかもが嫌になっていました。このグロテスクな卵! この中から何が生まれてくるというのでしょう。それは猫なのでしょうか。それともくちばしやけづめの生えたものが生まれてくるのかもしれません。一体どうして自分はこんなものを生んでしまったのでしょう。
 この卵の父親については、クレメンタインにも本当にわかりませんでした。だって、クレメンタインがつきあったりデートしたことがあるのは、普通の猫ばかりでしたから、誰が父親にしろ、どうしたってこんなものが生まれるわけがないのです。
 鳥たちの話を聞いてきたマリおばさんに勧められて、縁の下で毎日柔らかい横腹に卵を抱いて暖めながら、クレメンタインはいろいろな不安な考えが浮かぶのをとめられませんでした。
 ある日、とうとうクレメンタインは卵を放り出して、外へ出かけました。久しぶりの外の空気は、とても気持ちのいいものでした。一時は、もう二度とこんなふうに外を歩くことはできないものと思っていたのが、嘘のようでした。卵さえなければ、いつだってこんなふうに町を歩けるし、他人の目だって気にすることはないのではありませんか。
(もう、あんな卵、どうなったって知らないわ。)
 すっかり気分が軽くなって、卵なんかドブにでも捨ててしまうつもりになって帰ってきて、クレメンタインははっとしました。縁の下の彼女のうちは、空っぽでした。卵はどこにもありません。
 なぜか、厄介払いをしたという気はしませんでした。自分の留守に何が起こったのかわからないままに、なぜか(バチが当たったんだわ)という気がしました。手足を冷たくして、彼女は立ちつくしました。
「クレメンタイン、戻ったのね。大丈夫、卵は無事だよ。」
 マリおばさんの声をきいて、クレメンタインは全身の力が抜けそうになりました。
 マリおばさんの後ろに、無愛想なキジ毛の猫がいました。その猫が、そっと鼻先で彼女の卵をこちらに押しやりました。
「ドブねずみどもが悪さをして、卵を盗みにきたんだよ。このロクが気づいて、卵を救ってくれたのさ。」
「あ……ありがとう。」
 初めて見る、あまりぱっとしないオス猫に、クレメンタインはひどく後ろめたさを感じました。自分が拾てたかもしれない卵を、この見も知らぬ猫が救ってくれたのでした。
「いや、だって、大事なものだと思ったからさ。……暖かいねえ、その卵。」
 ロクは、どぎまぎと小さい声で言いました。
 クレメンタインは、どきんとしました、
 暖かい、ですって?……
 そんなふうに卵のことを考えてみたことはありませんでした。クレメンタインは卵をながめました。白く冷たい卵の姿に変わりはありませんが、それは前に思っていたほど気味悪いものではないようにも思えました。
 クレメンタインは目を閉じて、ヒゲの先でそっと卵に触れてみました。耳を寄せると、硬い殻を通して、小さな心臓の鼓動が伝わってきました。
 トクン トクン トクン トクン……
 なぜだかはわかりません。胸の中にあった、かたくななものが、ゆっくりと溶けていくような気がしました。
 ごめんね。ごめんね。
 誰が知らなくとも、わたしが考えたことはわたしが知っているわ。ごめんね。許してね。クレメンタインは心の中で繰り返していました。

「もうすぐだ、クレメンタインの卵が孵る。赤ちゃんが生まれるよ。」
 スズメたちが町中にふれ回ったために、動物たちは皆そのニュースを聞いて、三丁目に集まってきました。
「やっぱり、猫かね。くちばしの生えた猫。」
「毛の生えた鳥が生まれるんだよ。」
 鳥たちは、いじわるな興味に満ちたさえずりをひっきりなしに繰り返します。その下で、猫たちはひそひそと言葉をかわしていました。
「猫の仲間に入れられるかい? 卵から生まれて猫だなんて言えるかい?」
「大体卵を生むなんて……猫のコケンに関わる。」
「少し黙れよ!」
 ロクが、イライラして言いました。
「少しは思いやりってものがないのかよ。恥ってものを知らないのか。」
「おやおや、すっかり亭主きどりだよ。見てられないね。」
「ロクは、以前からクレメンタインのことが好きだったのさ。」
 猫たちは冷たく彼をながめました。クレメンタインとロクが最近仲が良いのは、誰でも知っていたからです。
 そのときでした。
「誰か……!」
 突然の悲鳴に、一同はシンとなりました。
 クレメンタインが、縁の下から、転がるように走り出てきました。
「誰か助けて。赤ちゃんが卵を割れないの。さっきから音がするのに、出てくる様子がないんです。だんだん音が弱くなるの。誰か、誰か助けてください!」
 誰も、何も言いませんでした。
 マリおばさんが卵を押して出てきました。猫たちは、最初は横目で視線をかわしながら遠慮がちに、やがて我先に、卵の周りに駆け寄りました。
 カリカリ……カリカリ……、殻を爪でひっかく音が、確かにしていました。けれどその音は絶え絶えで、今にも消えてしまいそうです。
「お願いします……お願いします……」
 クレメンタインはもう泣きそうになっていました。こんな彼女を見るのは、誰もが初めてでした。いじわるな興味でしか見ていなかった猫たちも、一瞬シュンとしました。
「おまいさん、何してるのさ、何とかしておやりよ!」
 どんっとおかみさんにどつかれた四丁目の亭主猫は、目を白黒させました。
「何とかって……。」
「卵を壊しちまえ!」
「ばかやろう! 中の子供も死んじまうぞ。」
「けど、このままでも死ぬんだぞ!」
 猫たちが右往左往し、怒号が高まるなか。
「カカカカカカカカカカカ!」
 かん高いカラスの声が、辺りに響きわたりました。向かいの屋根にとまっていたカラスが、笑ったのでした。
「何がおかしい!」
 猫たちがくいつきそうな目でにらむのを、カラスは悠然と見おろしました。
「そりゃあ、おかしいよ。あんたたち、鳥が何のためにくちばしを持ってると思ってるんだね。小さな小さなひよっこどもも、最初は皆自分のくちばしで、卵を突き破って生まれてくるんだよ。爪しか持たない猫の子が、なんで卵の殻を自分で破れるものかね!」
 沈黙する猫たちの間を、クレメンタインが進み出ました。
「お願い、お願いです。あの子を助けてやってください。あなた方なら何とかできるのでしょう。お願いします。助けてください!」
 哀願する猫をながめて、カラスは楽しそうに笑いました。
「バーカ、あんたのお仲間も言ってたろう。外から壊せば中の子供も傷つけるんだよ。…痛ッ!!」
 頭にケリをくらって、カラスはつんのめりました。怒りに目をキラキラさせた彼の奥さんが、真黒な太いくちばしを振り回しました。
「何がカカカ、よ。あんたも随分だね。卵から生まれるっていうことは、ひょっとしたらあたしたちの親類かもしれないんだよ。ちょっとは協力してやんなさいよ!」
 あいにく旦那のカラスの方には、妻ほどには卵に村する母性本能が働かなかったようで、猫から鳥が生まれるもんか、とかブツブツ言ってはいましたが、やがて猫たちを半径十メートルの円の彼方に下がらせて、地上に降りてきました。
「卵に妙なことしやがったら、タダじゃすませないからな。」
「そっちこそ、そこから動くなよ!」
 猫たちとカラスがののしりあう傍らで、クレメンタインはカラスの奥さんに頭を下げました。
「ありがとうございます。この恩は忘れません。信じてもらえないかもしれないけれど、わたしも子供も、生涯鳥には手を出さないわ。」
「お互い様よ。子供を思う気持ちは誰も同じ。卵の形をしてると、他人とは思えなくてね。」
 猫と鳥と他の動物たちが息をつめて見守るなか、カラスは卵にくちばしをふるい始めました。カツッ、カツッ、と鋭い音が何度もしましたが、卵にはひびの入る様子もありません。
「ちくしょう、やけに頑丈にできてやがる……。」
 カラスは次第にあせってきたようでした。何度目かに振り下ろしたくちばしが、鋭い音をたてて卵の表面をすべったとき、その反動で卵はぐらりと揺れました。
「あっ……。」
「ああッ!」
 皆が一斉に声をあげるなか、卵は、傾いた、と思うとゆるやかな斜面をころころと転がり始めたのです。
 カラスがあわてて飛び立つのと同時に、猫たちが卵めがけて殺到しました。けれど、どの爪も卵をつかまえることはできませんでした。
 卵は次第に速度を増しながら、繁みにつっこみ、石につまずいて高々とはね上がり、空中に放り出されました。
 クレメンタインは悲鳴をあげました。皆は彼女が卒倒するかと思いました。しかし倒れるかわりに、彼女は段差を跳び越え、矢のように飛んでいきました。そのすぐ後をロクが、少し遅れて他の動物たちが後を追いました。
 クレメンタインとロクは、息をはずませ頭を揃えて地面をのぞきこみました。柔らかな緑の草の上に、幾つもの破片に砕けた卵の白い殻が敬らばり、その間に、小さな毛のかたまりが落ちていて、弱々しく呼吸していました。
 二匹の猫は、どちらからともなく顔を見合わせて、ほうっとため息をつきました。
「なめてあげて。お母さんの役目だよ。」
 ロクの声にうながされて、クレメンタインはおそるおそる近づき、そっとピンクの舌で赤ちゃんをなめました。濡れた白い毛が震えて金色の目がのぞき、「ミイ」というか細い声が聞く者の耳をくすぐりました。
 その様子をながめていた、猫と鳥とその他の動物たちの間から、わっと歓声があがりました。
「クレメンタインの卵が孵ったよ!」
「おヘソはないけれど、銀色の毛と金色の目を持つかわいい子猫だよ。」
 スズメたちのさえずりが、青空の下、町内に新しいニュースを伝えていきました。

Copyright(C) Mai Mizushina 1991

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