『まり子さんのゆびわ』
鬼ヶ島通信20号(1993年)・入選作
作・河原潤子

 まり子さんは、由利子のお父さんのおばさんで、由利子には、大おばさんにあたる人だった。
 年に一度か二度、たずねてくるだけの人だったけれど、いつも、明るい色の服をきて、きれいにお化粧をしていて、由利子の知っている、ほかのおばさんたちとは、ずいぶんちがった。
 だから、四年まえ、まり子さんが、となり町にある老人ホームにはいったとき、由利子は、とても変な気がしたものだった。
 それは、由利子が小学校の二年生のときで、それきり、由利子は、まり子さんと会わなかった。
 その、まり子さんが死んだ。
 老人ホームから知らせがはいったのは、六年の三学期がはじまったばかりの日だった。
 最初に電話にでたのは由利子だった。由利子は、ホームの名前をきいても、わからなかった。
 それぐらいだから、電話をかわったお父さんから、まり子さんが死んだときかされても、とくべつな気持ちにはならなかった。
 翌日、老人ホームでおこなわれたお葬式には、お父さんがひとりででかけた。
 その日、お父さんは、ゆびわをもって帰ってきた。
「これ、由利子にやってほしいって、言うてはったそうや。」
 赤い、さんごのゆびわだった。
「大きいなあ。」
 思わず言ったお母さんに、お父さんがたずねた。
「高いんか?」
「これだけ大きかったら、そら高いわ。色もええし。」
「由利子には、もったいないか?」
 お母さんは、こまった顔になった。
「そうかて、由利子にて、言うてはったんやったらなあ。」
 くもゆきがあやしくなってきて、由利子はあわてて、ゆびわを手にとった。そして、左手の中ゆびにはめてみた。ゆびわは、くるくるとまわった。
 お母さんが言った。
「どっちにしても、おとなになるまで、とっとかなあかんな。」
 すなおにうなずくと、由利子は言った。
「このゆびわ、おぼえてるわ。いつも、はめてはった。」
 お母さんは、まゆをひそめた。
「あんた、まり子さんにねだってたんか?」
「そんなこと、してへん。」
 くちびるをとがらせて、由利子はゆびわをはずした。
 手のなかのゆびわをながめながら、由利子は、ゆっくりと思いだしていった。
 まり子さんの、左手の薬ゆびに、いつもあったゆびわ。深い、赤い色の─。
─でも、なんで、左手の薬ゆびなんだろう?
 小学校にあがったばかりのころだったけれど、左手の薬ゆびにはめられたゆびわに、とくべつな意味があることを、由利子は知っていた。
「それ、結婚ゆびわ?」
 由利子の質問に、まり子さんは笑いだした。
「わたしは結婚してへん。オールド・ミスや。」
 からりと言って、それから、声をおとすと、まり子さんは言った。
「お父さんやお母さんから、きかされてるやろ?」
 思わず、由利子は首をすくめた。ひどく、ばつが悪かった。それから、おそるおそる、由利子は、まり子さんを見た。
 しかし、まり子さんの目は笑っていた。
「これは、結婚ゆびわのようなもの、や。」
 まり子さんは、それを、恋人からもらったのだと言った。
 それは、まり子さんが、まだ女学生だったころのことで、そのころ、日本は戦争をしていた。
 たくさんの若い人たちが、戦争にいき、そのまま帰ってこなかった。まり子さんの恋人も、そのひとりだった。
 戦争がおわったとき、まり子さんの手には、ゆびわだけがのこった。
「あとできいた話やけど、その人は、乗っていた船にばくだんを落とされて死んだんや。そこは、南の海で、海のそこは、さんごでいっぱいやったそうや。」
 そして、まり子さんは、ゆびわが、さんごでできていることを教えてくれた。
 まり子さんは、ゆびわを耳にあてた。
「こうすると、なんや、南の海の、波の音がするんや。」
 それから、まり子さんは笑った。
「ええ年したおばあちゃんが、こんな話してたら、おかしいな。」
 由利子は、むちゅうで、かぶりをふった。胸がくるしかった。熱いかたまりで、ふたをされたような、そんな感じだった。
 由利子は、ごくんと、大きく、つばをのみこんだ。
「それで、まり子さん、結婚せえへんかったんか?」
 それにはこたえず、まり子さんは言った。
「わたしが死んだら、このゆびわ、由利子ちゃんにもろてもらおかな。」
 由利子はうなずいた。
「わたし、きっと、だいじにする。」
─そうや、あのとき、わたし、やくそくしたんや。
 気がつくと、由利子は、ゆびわをにぎりしめていた。
「そんなせんでも、だれもとらへん。」
 あきれたように、お母さんが言った。
「そやけど、ゆびわなんか、そんなにほしいもんかな?」
 首をかしげて言うお父さんに、由利子はこたえた。
「そうかて、これ、まり子さんの恋人のかたみやもん。」
「なんや、それ?」
 不思議そうに、お父さんとお母さんは顔を見あわせた。由利子は、まり子さんからきいた話を、ふたりに話した。
 ふたりは、笑いだした。
「そら、由利子、かつがれたんや。」
 お母さんが言った。
「恋人が戦争で死んだいうのは、ほんまかもしれんけど、ゆびわは、もっとあとやで。わたしが、そのゆびわを見たのは、由利子が生まれてからやもの。たしかに、左手の薬ゆびにはめてはったけど、そんなん自由やもん。」
「ようするに、見栄や。」
 きめつけるようなお父さんのことばに、由利子の心はこわばっていった。
      ※
 バスに乗っているあいだじゅう、由利子の心臓は、ドキドキと鳴りつづけていた。
 電話帳から、まり子さんの老人ホームをさがしだしたのは、金曜日の夕方だった。
 どうしても、家からはかけられなくて、由利子は、近くの電話ボックスまで走った。電話ボックスのなかでも、呼び出し音をききながら、由利子は、何度も、このまま受話器をおこうかと思った。
 腹だたしさにまかせて動いたけれど、何をどうしたいのか、由利子は、自分でもよくわからなかった。
 しかし、電話のむこうの声は、思いがけずやさしかった。
 そして、土曜日の午後、由利子は、となり町にむかうバスに乗ることになった。
 もちろん、お父さんやお母さんにはないしょだった。ないしょで、はじめての町に行き、はじめての人に会う。
─寮母の白井さん。
 由利子は、その人の名まえを、口のなかでくりかえした。そうすると、電話できいた、やわらかな声が、由利子の耳によみがえってきた。
─こっちへ、いらっしゃいな。まり子さんのこと、わたしも、お話したいし。
 停留所まで迎えに出ていると、白井さんは言った。
 バスが停留所に近づくと、由利子の心臓は、ますます強く打ちはじめた。
 そのとき、バス待ちの列から、女の人がひとり、はなれるのが見えた。その人は、のぞきこむようにして、バスを見ている。
 由利子は、ホッと息をついた。
 白井さんのほうでも、ひとりでバスをおりてきた由利子に、すぐ気がついたようだった。笑顔でかけよると、言った。
「由利子ちゃんでしょ? よう来たね。だいじょうぶやった?」
 電話のときとおなじ、まるい、やわらかい声だった。由利子は、肩の力がいっぺんにぬけて、肩からななめにかけたポシェットが、ずりおちそうになった。
 ふたりは、停留所の近くの喫茶店にはいった。
「さて、」テーブルにつくと、白井さんは言った。「まり子さんの、なにがききたいの?」
 由利子は、ポシェットから、ゆびわをとりだした。
「あら、魔法のゆびわ。」
 白井さんのことばに、由利子は、びっくりして白井さんを見た。
「どういうことですか?」
 白井さんは、くすりと笑った。目じりに、しわがひろがった。
「まり子さんが、そう呼んではったのよ。このゆびわ、びっくりするぐらい大きいでしょう。このゆびわして、公園のベンチにすわってると、そばまでよってきたヨチヨチ歩きの子どもらが、びっくりするんやって。びっくりして、さわって、仲よしになる。それから、その子らのお母さんやらともね。家族の話とか、いっぱいして。」
「けど、まり子さんには、家族なんかいないじゃないですか。結婚かてしてないし。」
 きつい口調で、由利子は言った。
 白井さんは、おどろいた顔で由利子を見た。そして、言った。
「べつに、うその話でもええやん。だれにめいわくかけるわけでもない。ちょっとのま、それで楽しめたら。」
「そんなん、見栄や。魔法のゆびわちごて、見栄のゆびわや。」
 言ってしまって、由利子は、自分が怒っていることの理由が、わかった気がした。
 由利子は、見栄のゆびわなんかほしくない。由利子がほしかったのは、まり子さんと恋人の、思い出のこもったゆびわだ。
 由利子は、ゆびわを、白井さんのほうにおしやった。
「わたし、このゆびわ、もらえません。」
 そして、まり子さんからきいた話、お父さんやお母さんが言ったこと、なにもかも、白井さんに話した。
 白井さんは、言った。
「なんで、見栄やと思うの? まり子さんが、家族をもってはらへんかったことを、はずかしがってはったとでも言うの?」
 白井さんは、ため息をついた。
「はずかしがっているやろうとか、さびしがってるやろうとか、それは、人が勝手に思いやるんや。思いやれるほどに、その人のことを思ったこともないくせに。」
 由利子の胸が、ズキリとうずいた。
 白井さんは、ゆびわを手にとった。
「まり子さんは、わたしに、このゆびわは魔法のゆびわやと言わはった。けど、わたしは、このゆびわは、まり子さんのときの声やと思てた。」
「ときの声?」
「エイエイオーって、戦闘開始の合図や。」
 白井さんは、ほほえんだ。
「こんな大きなゆびわやから、まり子さんは、いつも、寝るまえにはゆびわをはずしてはった。そして、朝のみじたくの、いちばん最後に、ゆびわをはめはった。からだが弱って、起きられんようになってからも、それはいっしょやった。朝になったら、ベッドのなかでも、ゆびわはめてはった。わたし、それを見ながら、ああ、まり子さん、ときの声をあげてはると思た。今日も生きるぞって、ときの声や。それから、こうも思た。まり子さん、ずっと、こうして生きてきはったんや、て。」
 ふいに、白井さんはことばをきった。それから、しみじみと言った。
「しんどいことも、多かったはずや。」
 由利子は、白井さんの目が、赤くなっていることに気がついた。
 白井さんは真剣だった。そう思ったとたん、熱いかたまりが、胸のそこからつきあがってくるのを、由利子は感じた。
 それは、むかし、まり子さんの話をきいたときの、あの感じだった。
 白さんが言った。
「見栄もあったかもしれん。けど、わたしの知ってるまり子さんは、そんなんぜんぶ卒業して、ゆびわの魔法を楽しんではった。」
 うなずいて、由利子は、ゆびわのほうに手をのばした。白井さんが、その手を、上からおさえた。
「由利子ちゃんがいらんのやったら、わたしがあずかっとく。こう見えても、ときの声、いっぱいあげてるんやから。」
 由利子は、むちゅうで言った。
「わたしかて、そうや。」
 由利子は、老人ホームに電話をしようと決めたときの、息のつまるような緊張を思い出した。それから、呼び出し音をきいていたときの─。それでも、受話器はおかなかった。あのとき、由利子は、たしかに、ときの声をあげていた。いや、ひょっとしたら、ゆびわの魔法がはじまっていたのかもしれない。
「わたし、」
 何度かくちびるをかんで、やっと、由利子は言った。
「あんまり、友だち、いいひんね。」
 どうして、とつぜん、そんなことを白井さんに言ったのか、由利子には、よくわからなかった。それでも、言ってしまって、由利子の胸は、はればれとすみわたった。
 ずっと、そのことが、とてもはずかしかったんだと、由利子は思った。
 白井さんが、にっこりとほほえんだ。
「いま、由利子ちゃんの、ときの声がきこえた。」
 そして、ゆびわを、由利子の手のなかにつつんでくれた。
 由利子は、ゆびわを耳もとにやった。
 白井さんがたずねた。
「まり子さんの、ときの声がきこえるか?」
 由利子は、はずかしそうに、首を横にふった。白井さんはうなずいた。
「正直で、よろしい。」
 そして、立ちあがると、言った。
「ひとりで帰れるね? わたし、仕事にもどるけど。」
 うなずきかけて、由利子は、白井さんにたずねた。
「南の海で死なはった、恋人の話は、ほんまやったんやろか?」
「さあ、それも、魔法かもしれんね。」
      ※
 白井さんが出ていったあとで、由利子は、もう一度、ゆびわを耳によせた。
 やっぱり、ときの声はきこえなかった。
 そのかわり、南の海の、潮のにおいがした。
  


Copyright(C) Jnunko kawahara 1993
ホームへ