『毛はえ薬は、いかが?』
鬼ヶ島通信22号(1993年)・入選作
作・清野志津子

妹のまり子が、泣きながら帰ってくる。
 ぼくと父さんは、うら庭で、つりのえさにするミミズをとっていた。
「どうした。まり子」
 父さんが声をかけたのに、まり子は、走って、げんかんから家に入った。
 中から、母さんと話す声が、きこえてくる。
「泣かないで、ちゃんと話してごらん」
「だって、タケちゃんったら、父さんのこと、おじいちゃんみたいって、いうんだもん」
 ぼくは、はっとして、父さんの顔を見た。
 父さんは、にが笑いをしながら、頭をつるりとなでた。ひたいが長くて、頭の後ろまでつづいている。
「父さんは、まだ若いのよ。それに、頭はああだけど、顔はハンサムだし、体だってがっちりしているでしょ」「うん。そうだけど……」
 ほっとしたぼくは、父さんの顔を見て、にこっとした。父さんはちょっとてれて、にゃっとした。
 だけど、タケのやつ、こんど会ったら、ぶんなぐってやる。

 つりの帰り、ぼくと父さんは、少しまわり道をして、市場によった。つりの調子がよくなかった日は、ここで、魚を買って帰るのだ。
 この市場は、祭りの縁日のように、小さな店が、道ばたにならんで、いろんな物を売っている。
「だんなさん、だんなさん」
 白い手ぬぐいをかぶったおばさんが、声をかけた。
「ぼっちゃんに、一つ新しいのを、どうですか」
 見ると、台の上に、野球帽がずらりとならんでいる。「おう、明男、買うか」
 父さんが言ってくれたが、ぼくはことわった。今かぶっている野球帽、けっこう気に入っているんだ。古くなって、やっとかんろくが出てきたところだし。
「父さん、かぶってみたら」
 ぼくはせのびして、父さんの頭に、青い帽子をのせた。「あらお似合いだねえ。十も二十も若返りますよ。」
 おばさんは、鏡を、父さんの方に向けた。ぼくも、鏡をのぞきこむ。ほんとうだ。びっくりするほど若い顔が、そこにあった。
 だれかに似ている。テレビで見たスタ−の顔かな。
「そうしてならんでいると、兄弟みたいだねえ。よく似ていなさる」
 そうか、ぼくに似てたのか、どうりでいい顔だと思った。
 ところが、おばさんは次に、不吉なことを言ったのだ。「ぼっちゃんも、大きくなったら、お父さんみたいになりなさるねえ。楽しみだねえ」
 そして、ヒヒヒヒと笑った……ように、ぼくには思えた。
 ということは、ぼくも、やがて父さんみたいな頭になる……。
 そういえば、ひたいが広くて、かしこそうって言われたことが何度かあるけど、あれは……。
 父さんのことは大好きだから、父さんのようになりたいとは思うけど、頭だけはごえんりょしたい。
 こんなに似合うのに、父さんは、帽子を買わなかった。「帽子をぬいだ時、びっくりさせたら悪いからねえ」
 父さんが言うと、おばさんは、体をまげて笑った。

「だんなさん、だんなさん」
 しばらく歩くと、また、声をかけられた。
 こんどは、なまずひげの、おじいさんだ。化粧水のびんのようなものを手にしている。緑色の液が入っている。「だんなさん。この毛はえ薬は、よくきくよ」
 父さんは、にやにやしている。
「ほら、わしはもう七十だが、ふさふさしているだろ。この薬のおかげだよ」
 なるほど、白髪まじりだが、たわしのような毛が、いっぱいはえている。
「いいよ、これでふさふさだったら、女の子が、ぞろぞろついて来て困る」
 笑いながら手をふって、父さんはさっさと歩きだした。 ぼくも行きかけたが、もどって、おじいさんにたずねた。
「それ、高いの」
「安いよ。三千円」
 わあ高い、と思ったが、父さんに追いつくまでに、考えが変わった。
「父さん、三千円だって。安いよ。ふさふさなるんだったら、安いと思うよ」
 父さんは、ふり向きもしない。
「人間、みかけじゃない。中みがかんじんだ」
 後ろ姿が、つっぱっている。

 家に帰ったら、まり子が、居間で、あみ物をしていた。小さいくせに、あみ物ができるのだ。母さんに手伝ってもらってだけど、ざぶとんカバ−を、四つも作った時には、根性のあるやつだと思ったねえ。
「何作っているの」
「帽子、父さんに、プレゼントするの」
「あっ、タケの言ったこと、気にしているな。人間、見かけじゃない。中みが、かんじんなんだよ」
「父さんは、見かけも、中みも、かんじんなの」
「なに言ってるんだ。ねえ、父さん」
 父さんは、ソファのまり子の横に、でんとすわった。「まり子は、器用だねえ。いい母さんになれるぞ」
 まり子の髪をなでている。まったく……。父さんはまり子に甘いんだから。
 台所からエプロン姿の母さんが、顔を出した。
「お二人さん、今夜のおかずをいただけますか」
「おう、明男、渡してやれ、きょうは、とびきり上等がつれたぞ」
 ぼくは袋から出して、母さんに渡した。
「まあ、まあ、きょうは、ずいぶん遠くの海まで行ったのねえ」
 夕飯は、ごちそうだった。
 まぐろのトロは、たしかにうまい。

 次の、次の日だった。
 ヘヤ−ム−スを少しもらおうと、洗面所にある父さんの棚を開けた。ヘヤ−トニック、ロ−ション、ム−ス、髪の量のわりには、たくさんのびんがならんでいる。
 おや、見なれない、いや、どこかで見たびんがある。緑色の液の入った、そうだ、市場で売っていた毛はえ薬だ。
 いつの間に買ったのだろう。ぼくが、ひよこを見ていた時だろうか。それとも、きのう、会社の帰りに、買いに行ったのかな。
 父さん、ほしかったのか。
 なんだか、父さんが小さな弟になったような感じがした。
 それから、わくわくしてきた。父さんの頭も、たわしのようになるのだろうか。

「父さん、肩をもんであげる」
 テレビを見ている父さんの後ろにまわった。
 肩をもみながら、ぼくは、父さんの頭を、観察した。一本や二本は、ふえているのかもしれないけど、ほとんど変わりないように見える。あれから、もうずいぶん日がたつのに。
 父さんは、ちゃんとやっているはずだ。ふろ上がりに、しんけんな顔をしてつけているところを、何回も、目げきしている。
「明男、ありがとう。もうねるよ」
 父さんは、二階へ上がっていった。お酒を飲んだ日は、早くねむくなるらしい。
 父さんの後頭部を見おくりながら、ぼくは考えた。
(もしかしたら、つける量が、少ないんじゃないか)
 念のため、洗面所にたしかめに行った。上から四分の一ぐらいなくなっている。
 ぼくはびんを持って、二階へ上がっていった。母さんとまり子は、テレビを見て、げらげらわらっている。
 父さんは、もういびきをかいていた。白いまくらカバ−に、黒い毛が、二、三本落ちている。
(もったいない)
 ひろって、父さんの頭におしつけたが、すぐにすべり落ちた。
 びんのふたに、緑の液を少しずつ移して、父さんの頭にふりかけた。父さんは、一度ぶるっとしたが、あいかわらず眠っている。
「お兄ちゃん、何やってるの」
 いつの間に上がってきたのか、まり子が、へやの入口に立っている。
「いいよ。下に行ってろよ」
 そう言ったのに、まり子は、へやに入ってきた。ぼくは、びんを持ち上げて、小さな声で教えた。
「毛はえ薬だよ」
「へえ、そんなのきくの」
 まり子の目が、きらっと光った。
「ききませんよ」
 母さんまで、上がってきた。
「毛がぬけはじめたころ、いろんな薬をためしてみたけど、だめだったのよ」
 父さんが、う−っと、一声うなってねがえりをうった。まくらカバ−に、また、毛が一本落ちた。まり子が、それを、つまみ上げた。
「もったいないわ」
「毛がぬけはじめたころは、こんなもんじゃなかったのよ、朝、目がさめると、まくらの上がまっ黒で、こわいくらいだったわ」
 母さんは、ささやくような声で話した。
 ぼくも、まり子も、ため息をついた。
「父さん、かわいそう。いたかったんじゃないの」
 まり子は、涙ぐんでいる。
「ううん、いたくはないのよ。病院にも行ってみたけど、病気じゃないんで安心したわ」
 母さんは、そっと父さんのふとんを、かけなおした。
 それから、十日ほど後のことだ。わが家で、ちょっとしたそうどうが、あったのは。
 その日は、父さんが出張から帰る日だった。
 夜、チャイムの音がなった。
 まり子が、げんかんにとんでいく。ぼくも、パジャマのボタンをかけながら、行こうとしていると、まり子は、すぐにしょぼんとしてもどってきた。
「母さん、お客さんだった」
 母さんが、げんかんに出ていった。そして、すぐに母さんの、けたたましい笑い声が、きこえてきた。
 ぼくとまり子は、げんかんに走っていった。
 母さんが、黒いコ−トを着た男の人の背中をたたきながら、笑いころげている。だれだ。この人は。
 ふり向いたその人の顔を見て、ぼくはあっと思った。「父さん、父さんでしょう」
 頭の上に、まっ黒い毛が、つやつやと光っている。ひたいにも、ぱらりとたれている。
 しかし、この顔は、たしかに父さんだ。
「毛はえ薬が、きいたんだ」
 ぼくはこうふんしてさけんだ。何ということだ。父さんが出張している、たった三日の間に、とつぜん、薬がきいたんだ。そんな薬だったのか。
 それにしても、髪の毛で、こんなに変わるとは。新しいコ−トを着ているし、まり子が見まちがえたのもむりはない。
「どうだ。まり子、父さん、若くなっただろう」
 父さんは、まり子の方に、両手をのばした。まり子は、大きく目を開いて、後ずさりした。
「いやだ。そんなの、父さんじゃない」
 走って、居間に入った。後を追っていくと、まり子は、ソファにつっぷしてないている。
「いやだ。前の父さんがいい。わたしの父さんがいい」 父さんが、入ってきた。困った顔をしてる。なるほど、何だか、よその人みたいだ。
 母さんも入ってきた。母さんはまだ笑いがとまらない。「今さらいやだといわれても、困るよねえ。毛が、はえちゃったんだから」
 ぼくが言うと、母さんが、笑いと笑いのあい間に言った。
「ちがうわよ、かつらよ。かつら」
 父さんの話はこうだ。
 出張さきで、急に寒くなったので、コ−トを買いにデパ−トに行った。すると、かつら売り場で呼びとめられて、ためしにつけてみると、コ−トとかつらの感じが、あんまり似合ってたので、そのまま買って帰ってきた。ぼくたちを、おどかしてやろうと思ったというのだ。
「本格的につける場合は、めだたないように、少しずつ、毛をふやしていくらしい」
 笑いのおさまった母さんは、父さんを、しみじみとながめている。
「昔を思い出しちゃうわ。高いのを買ったんだし、たまには、つけることにする?」
「たまにも、いやだ」
 まり子が、さけんだ。
 次の朝、回覧ばんを持ってきた、となりのおばあさんが、
「研さん、ずいぶんりっぱになられましたねえ。ゆうべ、門のところで、お見かけしましたよ」
と言った。
 研さんというのは、父さんの弟で、去年、大学を卒業したばかり。ぼくの家にしばらく下宿していたのだ。ゆうべの父さんを、研さんだと思ったらしい。
「ずいぶん年上のおくさんだと思われちゃうから、やっぱりかつらはやめてね。自然のままが、一番いいわ」
 母さんは、かつらを高い棚にしまった。
「おれは、もともと自然主義だ」
 父さんは、棚をちらっと見上げて言った。

 次の日、ぼくは、洗面所のくずかごに、毛はえ薬のびんが、すてられているのを見つけた。まだ、半分近く入っている。
「このインチキ、なまずひげ」
 ぼくは、びんをひろうと、ふたをとって、緑の液を窓から、うら庭にばらまいた。

 次の日曜日、つりに行くため、うら庭にミミズをとりにいって、ぼくは、おどろいた。
 いつも、ミミズがいる場所には、細長い毛虫が、うじゃうじゃいたのだ。
 そこは、ちょうど洗面所の窓の外側で、毛はえ薬の残りをすてた場所なのだ。

 まり子と父さんが、手をつないで、朝の散歩から帰ってくる。

                                        


Copyright(C) Sizuko Seino 1993
ホームへ