『百円ばあさん』
鬼ヶ島通信25号(1995年)・入選作
作・河原 潤子
学校で、百円ばあさんの話がでるたびに、ユキコはひやりとする。
百円ばあさんというのは、駅で、きっぷを買っている人のそばに、いつのまにか、すりより、「百円、おくれ」と手をだす、おばあさんのことだ。
ユキコのクラスでも、何人か、百円ばあさんのおねだりにあっていて、そんな日の翌日は、百円ばあさんの話でもちきりになる。
みんな、おもしろがって話す。
ユキコは、そのなかで、ひとり、おちつかなかった。
ユキコは、まだ、駅で百円ばあさんにあったことはなかったが、百円ばあさんがだれか、知っていた。
百円ばあさんは、ユキコのおとうさんのアパートに住んでいる、おばあざんだ。
そこは、古い木造二階だてのアパートで、ひと間きりのへやが、ぜんぶで八つあった。しかし、住んでいるのは、百円ばあさんだけだ。
おとうさんは、もう何年もまえから、そのアパートをとりこわすつもりでいた。けれど、最後にのこったおばあさんが、どうしても、アパートからでていってくれない。
おとうさんが、もらいにいくのをやめた家賃をもって、おばあさんが、ユキコの家をたずねてきたのは、今年の春だった。
おとうさんは、うけとるのをことわった。
ロぎたなく、おばあさんは言った。
「アパートを追いだして、この年寄りに、のたれ死にせえ言うんか。」
「そやから、立ちのき料ははらうて言うてるやろ。」
「はした金もろたかて、どないもならへん。この年寄りに、いまさら、だれがへやをかしてくれる?」
「そんなこと、わしの知ったことか。」
とうとう、おとうさんも怒りだした。
「年とるのんは、だれでもいっしょや。うかうかしとった自分が悪いんや。」
玄関さきで、ののしりあうふたりを、ユキコは、家のなかでふるえながらきいていた。
「近所じゅうに、まるきこえや。」
ため息まじりに、おかあさんが言った。
「知らん人がきいたら、おとうさんが、弱いものいじめしてるみたいや。」
それでは、おとうさんがかわいそうだと、ユキコは思った。
おとうさんは、ずっとまえから、おばあさんのことを心配していた。それは、夕食のテーブルでも、よく話題にのぼった。
--福祉事務所に相談して、施設の世話でもしてもらおか。
そんなふうに言ったこともある。
親戚でもないのにと、おかあさんは、顔をしかめた。
--けど、親父の代からの住人やからな。
人の好い笑顔で、おとうさんはこたえた。
そのおとうさんが、まるで悪人のように言われている。
ユキコは、おばあさんがにくらしかった
やがて、おとうさんが、おばあさんをおしだすようにして、ぴしゃりと玄関の戸をしめた。
「どこでもおことわりの人間を、なんで、わしとこがひきうけなあかんのや。」
へやにもどってきたおとうさんは、はきすてるように、そう言った。
ユキコは、そっと家をでると、おばあさんのあとを追った。
どうしても、ひとこと言ってやりたかった。
--おとうさんを、悪者にせんといて。
うばぐるまを押すおばあさんの、かがまった背中に、手をのばせばとどくところまで、ユキコは追いついていた。
ここで言えば、ぜったい、きこえる。
しかし、ことばは、ユキコの胸でからまわりした。心臓が、はげしく音をたてて、なりはじめた。
そのとき、角をまがりかけていた、おばあさんが、ユキコに気がついた。
おばあさんと目があって、ユキコは立ちすくんだ。
おばあさんの顔に、けげんそうな表情がうかんだ。
「わたし、」
ユキコは、けんめいにことばをさがした。しかし、なにもでてこない。
しかたなく、ユキコは言った。
「わたし、久保田ユキコです。」
一瞬、おばあさんの顔が、けわしくなった。
ユキコは、身をすくめた。おばあさんが、わめきかかってくるような気がしたのだ。
それでも平気だと、ユキコは思った。
ちぢこまったような、おばあさんのからだは、五年生のユキコと、いくらもかわらない。負けるものかと、ユキコは思った。
ふんばるようにして、ユキコは、おばあさんのまえに立った。
おばあさんは、うばぐるまから手をはなすと、ユキコのほうにむきなおった。そして、ユキコが思いもかけなかったことをした。
おばあさんは、笑ったのだ。
目をほそめて、おばあさんは言った。
「久保田はんのじょうちゃんか。ええ子に、お育ちやなあ。」
かがまった腰を、せいいっぱいのばして、おばあさんは言った。
「わては、三井サカエどす。」
そして、おばあさんは、さっていった。
それきり、おばあさんは、ユキコの家に来なくなった。
アパートの立ちのきは、裁判になるかもしれないと、おとうさんは言った。
「けど、裁判いうのんは、長いことかかるもんらしいしな。」
うんざりしたように、おとうさんは言った。
「そうかて、あのおばあさんが死ぬまでまつ、いうわけにもいかんしな。」
ユキコはギクリとした。
なんだか、おとうさんが、ほんとうの悪者みたいに見えた。
おとうさんが言った。
「なんや、あのばあさん、このごろ、駅で、ものごいみたいなこと、しとるらしいで。」
ユキコはびっくりした。
「百円ばあさんのことか。」
*
その日、ユキコは、はしめて、駅でおばあさんを見た。
おばあさんは、やはり、百円ばあさんだった。
百円ばあさんは、いまでは、すっかり有名になっていて、みんな、あからさまに、おばあさんをさけていた。おばあさんは、まるでおもしろがっているみたいに、そういう人たちを追いかけている。
ユキコは、にげるように、駅をでた。
家に帰って、ユキコは、おとうさんにたずねた。
「三井さんて、そんなにこまってはるんやろうか。」
「三井さん?」
おとうさんは、首をかしげた。
「アパートのおばあさんや。」
「ああ、あのばあさんか。名まえで言われても、ぴんとこんわ。」
それから、おとうさんは、不思議そうにきいた。
「なんで、ユキコが、そんなことを気にするんや?」
ユキコはあわてた。
「そうかて、駅で、ものごいみたいなことをしてはるていうし、」
「ユキコが、心配せんかてええ。」
お母さんが、横から言った。
「年金とか、生活保護とか、そういう制度があるんやさかい。」
ユキコはうなずいた。
それでも、その夜、ユキコは、なかなか寝つけなかった。
そして、次の日、ユキコは、こぶたの貯金箱をもって、駅に立ちよった。
おばあさんは、自動券売機のまえに、立っていた。
ユキコは、深呼吸をすると、おばあさんにむかって歩きだした。
そのとき、駅の人が、どこかの女の人といっしょにやってきて、おばあさんのまえに立った。
おばあさんを指さして、女の人が言った。
「このおばあさんですよ。百円だせ、百円だせって、しつこく、つきまとったのは。」
駅の人は、なだめるように、女の人にむかって言った。
「まえから、苦情はきいているんですが、なかなか現場をおさえられなくて。」
それから、おばあさんにむかって言った。
「ばあさん、ちょっと来てんか。」
そして、おばあさんの手を、ぐいとつかんだ。
そのとたん、ユキコはとびだしていた。
「わたしのおばあちゃんです。」
自分でも、びっくりするぐらいの、大きな声だった。
駅の人も、女の人も、びっくりして、ユキコを見た。それから、おばあさんも。
ユキコは泣きだした。
まわりに、人があつまってきた。
女の人が、ばつが悪そうに言った。
「わたし、べつに、百円がおしいて言うたんとちがうんよ。ただ、あんまり、しつこいもんやから。」
そして、ため息をつくと、駅の人にむかって言った。
「もう、ええですわ。」
駅の人も、こまったように、ユキコにむかって言った。
「家の人、ちゃんとおるんやろ?」
ユキコは、こくりとうなずいた。
「そしたら、おばあちゃん、勝手にそとにださんようにて、よう言うとき。今日のところは、かんにんしてあげるけどな。」
ユキコは、しゃくりあげながら、もう一度、うなずいた。
人がさったあとで、おばあさんが、 ユキコに言った。
「かんにんえ。えらい、めいわくかけてしもた。あんた、久保田はんのじょうちゃんやったな?」
それにはこたえず、 ユキコは、かばんのなかから、こぶたの貯金箱をだした。
「なんや、これ?」
「百円が、いっぱい、はいってる。」
おばあさんは、びっくりした顔になった。それから、言った。
「こんなん、いらん。」
つっぱねるような言いかただった。しかし、おばあさんの目は、とても悲しそうで、ユキコは、おばあさんを傷つけたことに気がついた。
「わたし、」
しかし、言いわけのことばは、でてこなかった。
そんなユキコのようすを見て、ふと、おばあさんの目がなごんだ。
「ユキコちゃん、わてな、こう見えても、お金はもってるんや。」
そして、あたりをうかがうと、うばぐるまにくくりつけた布袋を、そっと、あけて見せた。
なかには、ぎっしりと、千円札がはいっていた。それから、貯金通帳と、印鑑もあった。
「キャッシュ・カード、いうんか?あれはあかんのや。機械がうまいこと使えへんし、ぐずぐずしてたら、じゃまにされる。窓口かって、なじみの人はええけど、若い子は、へんな顔しよる。まあ、このかっこうやさかいな。」
言いながら、おばあさんは、自分のすがたを見まわした。ユキコは、あわててかぶりをふった。
おばあさんは笑顔になった。
「あんたは、やさしいな。」
それから、思いついたように言った。
「なあ、これから、おいしいもんでも食べにいこか。」
そして、おばあさんは、ユキコの貯金箱をもちあげた。
「ええもん、もうたしな。」
ユキコは、いやだとは言えなかった。
ふたりが、でかけていったのは、ホテルの最上階にある、レストランだった。
ホテルの入り口で、ボーイさんが、「いらっしゃいませ」と言った。しかし、そう言いながら、おばあさんのうばぐるまに、ちらりと顔をしかめたのに、ユキコは気がついていた。
おばあさんは、平気な顔で、うばぐるまを押したまま、エレベーターに乗る。ユキコもあとにつづきながら、はずかしくてしかたがなかった。
エレベーターをおりると、 ユキコは、さっさとレストランのまえにいった。
レストランのまえには、案内の人が立っていた。
案内の人は、こまった顔で、ユキコを見た。
「おじょうちゃん、ひとり?」
ユキコはかぶりをぶった。
案内の人は、ほっとした顔になった。
ユキコは、ふりかえって、おばあさんを見た。
おばあさんが、レストランのまえに来て、言った。
「おとなもいっしょや。」
そして、ふたりは、店にはいった。
あわててあとを追ってきた、案内の人がふたりを窓ぎわのテーブルに案内した。
メニューを見て、おばあさんは言った。
「いちばん上等のコースを二人まえ。」
すましこんで、ふたりのテーブルをはなれていく、案内の人の背中を見ながら、おばあさんは、いたずらっぽく笑った。
「さすがに、こういう店は、思ったことを顔にださんようにする訓練ができてるわ。」
「なに?思ったことて。」
「きたないババやなあ。」
ユキコはふきだした。
おばあさんは、しみじみと言った。
「わて、このホテルの下、とおるたんびに、いっぺん、ここのいちばんてっぺんの店で、もの食べてみたいて、思うてたんや。」
「ここ、はじめてなんか?」
「ひとりでは、どきょうがなかった。」
ユキコはおかしくなった。なんだか、おばあさんは、ユキコと似ている。
「そやけど、あの案内の人、失礼やわ。子どもひとりやったら、あかんみたいな言いかたやった。」
「そら、子どもは半人まえやもん。」
おばあさんのことばに、くちびるをとがらせたユキコに、おばあさんは言った。
「そやけど、年寄りも半人まえや。」
その言いかたが、なげやりな気がして、ユキコは、びっくりして、おばあさんを見た。おばあさんは、明るくかぶりをふった。
「ええやん。半人まえと半人まえで、一人まえになって、こういう店にもはいれたんやから。それに、子どもは、そのうち一人まえになる。」
「そしたら、年寄りは?」
「年寄りは、そのうち、死んでゼロ人まえになるんや。」
「そんなん、」
ユキコは、くちびるをかんだ。
「かんにんえ。 ヘんなこと言うてしもた。」
おばあさんは、あわてて言った。
「そやけど、だいじょうぶや。ユキコちゃんは、きれいな年寄りになったらええんや。きれいな年寄りは、いつまででも一人まえや。」
「おばあさんも、きれいにしたら?」
おずおずと言うユキコに、おばあさんは笑った。
「そやな、わては、努力がたりんな。」
そして、おばあさんは、うばぐるまにくくりつけた袋をあけて、古ぼけた写真を一まいとりだした。
「わての、だんなや。」
それから、もう一まい--。そこには、日本髪をゆって、きものを着た、若い娘さんがほほえんでいた。
「わての、見合い写真や。」
「おばあさん、べっぴんさんやなあ。」
ユキコのことばに、おばあさんは、写真のなかの娘さんそっくりの笑顔で、ほほえんだ。
窓から、町を見おろしながら、おばあさんが言った。
「こんなふうに見おろして、いっぺん、くらしてみたいなあ。」
「ここに泊まるか。」
おばあさんは、苦笑した。
「そやな、こんなとこに泊まって、毎日、おいしいもの食べて、お金がなくなるまで、好きにくらすのも悪ないな。それで、いよいよお金がのうなったら、ゼロ人まえになろか。」
「あかん。」
ユキコは、思わず、声をあげていた。
「半人まえでも、ゼロ人まえよりはええ。」
おばあさんは、だまって、うなずいた。
*
おばあさんが、アパートをでていったのは、それからまもなくだった。
駅から、百円ばあさんも消えた。
おばあさんがどこへいったのか、ユキコの家では、ひとしきり話題になった。
福祉施設に空きができたのだと、おとうさんは言い、おかあさんは、どこかに身寄りでもいたのだろうと、言った。
--立ちのき料もうけとらんかった。
おとうさんは、そう言った。
こぶたの貯金箱では、立ちのき料には安すぎると、ユキコは思った。
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