――いやな予感がしてたんだ。
「天気予報じゃ、くもりだったのに、どしゃぶりじゃんかよ」
これじゃチャリには乗れっこない。しかもねぼう、完全ちこくだよ。
げんかん先でかさを広げ、水けむりで白くかすんだ、たんぼの間のアスファルト道を進んでゆく。
(ついてないなあ……)
カエルはガアガアうるさいし、雨にぬれた体そう服のふくろが、やけに重い。
「家がこんなたんぼの中じゃなく、駅方面にあればよかったのにな。言ってもしょうがないけどさあ」
だいぶ歩いてやっととなりの家の前を通りがかった。
これでもかってくらいこしの曲がった、ちっちゃな小山のばあちゃんが、はち植えを庭に出して、雨にあててるところだった。
こっちに気づいて、しわくちゃの顔でニカカッとされた。おれは、ペコンと頭を下げて通りすぎる。
――問題は、この先だ。
トタンのへいと山積みのはい材が見えてきた。そこにうもれるように家が建っている。
いったい何の仕事をしてるかわからないけど、スキンヘッドのおじさんが一人で住んでいる。
あだ名は、ゴッツだ。ゴツイから。
(よし、行くぞ)
ここを通るときはきんちょうする。
おれは、そうとはわからないほど、ちょっとだけ足を早めた。
前を通りがかったとたん、
「ギャウッ、ギャウギャウッ!!」
はい材と見分けつかない犬小屋から、くさりをジャラジャラッと鳴らし、シロがとび出てきた。
(黄色くうすよごれてるくせに、何が“白”だ)
平気なふりして、静かにその場を過ぎる。
シロは、短いくさりをじくに、円をえがくように走って、ほえまくっている。あのくさり、古くなってきてるのか、最近よく切れる……。
「ギャウッ、ギャウッ!!」
シロの声が、せなかで小さくなってゆく。
あの角を曲がったら、国道に出る。小学校までは、もうあとちょっとだ。……と、また何とな〜くいやな予感がした。
おそるおそる後ろをふり返る。
そのしゅん間だ。シロがくさりをちぎって道路におどり出てきたのが目に入った。舌をふり回し、まっしぐらにこっちへやってくる!
――ドオオッ、かみなりのスターター。
かさをほうり投げて、おれの、校門までの、百メートル全力ダッシュが始まった。
(あーもー、おれが何したって言うんだ!)
――犬は、大・大・大っきらいなんだようっ!!
雨つぶをかきわけて、学校のフェンスぞいを走ってゆく。地面をけるたび、道路を流れる水が、全部自分にはねっ返ってきた。
雨音が観客の応えんみたいだ。それにまじって、シロのあらい息づかいが、じょじょにせまってくるのがわかった。
(こんなとき、いつもならチャリでふり切れたのにっ)
でも、すげえ。おれって、こんなに速く走れたっけ?!
校門へ入るなり、
「ベアッ、ベアーッ!!」
と、つんのめりながらげんかんへ。
ひさしの下のコンクリに、真っ黒、毛むくじゃらなニューファンドランド犬がねそべっている。
(よんでるのに、シカトすんなよおっ)
校門の外で、シロはギャンギャンほえたてている。と、ベアが、ちょっと起き上がってブルルンとしずくをはらったのを見たら、ターッとにげてってしまった。
ベアは、おれのこともてってい的にむしして、向きを変え、また横になった。
ぶあいそうだけど、この番犬がいるだけで、シロは学校の中へはぜったい入ってこない。
(た、助かった〜)
五年一組は、朝のホームルームの真っ最中だった。
教室の後ろ戸を、こっそり開けた……つもりだったのに、先生とみんながいっせいにこっちを向き、どろはねだらけのおれに注目した。
「走ってきたんで……」
この言いわけは、うそじゃない。情けなかったけど、シロからにげられただけ、ずっとまし。
――雨は、あきもせずに、まだふってる。
おれも、まどから見上げた空と同じ、どんよりだ。授業中もさえない。
ただ、給食だけはガンガン胃に入る。牛にゅうをズルズルすする。
(帰り、どうしようかな。遠回りするにも、歩きじゃ時間がかかりすぎるし……)
一人で下校するの、不安だなあ。おれんちの方向、いっしょに帰るやつ、だれもいないんだもん。
だれか家にさそっちゃおうか。でもなあ、もしまたシロに追い回されることになってみろ。そんな場面見られるの、ぜったいいやだぞ。
(低学年じゃないんだ。犬がこわい、なんて、かっこ悪くて、できればだれにも知られたくない)
いざとなったら、今度は小山のばあちゃんとこにでもにげこんじゃおうかな。きっとわけを話さなくっても、遊びに来たっていえば、すんなり信じて喜ぶさ。
(シロのおかげで、すっかり犬ぎらいになっちゃったなあ。それにしても、何でおれを見るたび、あんなにこうふんするんだろ)
ちょっと理由を考えてみようか。
その一・弱そうなやつだから、かみついてやろうと思っている。
その二・追いかけてるわけじゃない。ただ、同じ方向に走ってるだけ。
その三・実は、おれのことが好き。
「フウ〜」
ストローをくわえたままため息ついたら、牛にゅうがブクブクあわだった。
(どれにしたって、こっちにしてみりゃめいわくな話だよな)
だいたいゴッツのやつ、夜だろうが昼だろうが、犬を散歩させてるところを見たためしがない。シロは、ずっとつながれっぱなしだ。あれじゃ、おれだって走りたくもなる。
(シロも、ベアみたいだったらよかったのに)
あいつ、ほとんどねてばっかで、なでてもさわっても無反応だし。この学校で、指もふれたことないのはおれくらいだろう。クラスのやつも、たぶん気づいてないはずだけど。
ベアは、めったにほえもしない。以前聞いたのは、昼間からよっぱらったおっさんが校庭に迷いこんできたとき、一度きりだ。
そのうなり声ったら、そりゃもう、ライオンかトド。おっさんはシャキッとなって、回れ右して出ていった。
(そうだよ……)
「ベアがいるじゃないか!」
丸く残された食パンの耳をかかげ、思わずさけんじゃったんで、みんなに変な目で見られた。
ニヒヒと、まわりへ、てれ笑い。
(シロは、あいつのことこわがってる……!)
――放課後、ようやく雨が上がった。
わざわざのろのろと帰りじたくをし、生徒が少なくなるのを待ってから、げんかんへ。
ベアは、今朝とまったく同じかっこうで、ひさしの下にねそべっていた。
(ひょっとして、あれからちっとも動いてないんじゃ……)
ジーンズのポケットをまさぐり、パンの耳を取り出すと、ちょっとはなれた場所からプラプラさせた。
「ベア、これほしいだろ。ここまで来たらやるぞ」
ちびちび、かけらをあたえつつ、家までさそい出す作戦だ。
目玉も黒、毛色も黒でわかりにくいけど、ベアがかたっぽだけまぶたを開け、チロッとおれへ流し目をくれた。『やなこった』とでも言いたげだ。
「なあ、ほら、おまえのために残してやったんだぞ」
ベアが、鼻面を上げて、フンフンと空気をかいだ。
「いいぞ、パンのにおいに気がついた!」
(でも、まさか、いきなりガブッときたりはしないよな?)
と、いっしゅんはらはらしたら、ベアのやつ、ブシュンとくしゃみをしただけだった。
「な、何だよ。チッキショーッ」
こっちが勇気をふりしぼってるってゆうのに。本当は犬のそばに寄るのもいやなんだぞ!
「どうだ。こうしてやる!」
パンの耳を、わざと大きな音をたてて食ってやった。ちょっとのどにつまらせながら、ゴックンと飲みこむ。
それをしり目に、ベアはモガア〜とでっかいあくびをし、口をクチャクチャさせながら、またまどろみはじめた。
(くっそ〜、バカにしやがって!!)
おい、このまんまでいいのか、おれ。
大人になってからも、ずーっと犬にビクビクして生きるはめになるかもしれないぞ。
(そんなの、やだなあ……)
――よし、決めた。
「おれは、二度と犬からにげないぞ!」
家へ帰るのに、わざわざ遠回りなんか、だれがするもんか。シロなんてベアの半分の大きさじゃないか。
犬がこわい、と考えるのも、もうよそう。勝手に自分でそう思いこんでいるだけかもしれない。
ズンズンズン、足をふみ鳴らして校門を出た。と、道ばたの草むらを見て、ふと思い出した。
「そういえば今朝、かさをほうり投げたの、このへんだったっけ」
だけど、どこにも落ちてない。かさまでなくして、今日のおれは、いいとこなしだ。
だらだら歩いて、とうとうゴッツの家まで来てしまった。
だいじょうぶみたいだ。シロは犬小屋でねてる。
(それに、一日に二度もくさりが切れたりは……って、あれっ?)
おかしくないか? くいにつながってるくさりが、へびのぬけがらみたいに、地面にだらんとたれてる。
(えっ、えっ? 切れたまんま?!)
ひやあせがふき出し、心ぞうがドカッドカッとエンジンをふかしはじめた。
(と、とにかく、このまま、そっと通りぬけなきゃ)
上半身を石のようにかたまらせ、足だけそろりそろりと動かし、進んでゆく。でも、小屋の中で、シロの耳がピクンと反応したのが見えた。
前を通りすぎると、すぐさま競歩で遠ざかる。とたんに後ろで犬の声がした。ふり返ったら、ちょうどシロが道へとび出してきたところだった。
とっさにダッと全速力でにげる。
それからすぐに、わきの小山のばあちゃんの家へかけこんだ。げんかんの戸を開けようとしたけど……。
(や、やべっ、かぎがかかってる!!)
――こんなとき、どこ行っちゃったんだよ。小山のばあちゃん!
しかたなく前庭のかき根のうらへひそんだ。ひざが小きざみにふるえてる。
あたりには、カエルの声だけ、いやにひびいてる。
(だめだ。やっぱり犬がこわい……。シロ、たのむから、おれに気づかずに、どっか行ってくれ)
その直後だった。門の中へ白いかげがとびこんできた。同時に、おれはうらの畑へかけ出していた。
まず見えてきたのは、はち植えと花だんだ。名前も知らない花がたくさんさいてる。
カーブのとき後ろを確かめたら、シロがしっかり追ってきていた。チラッと見ただけだけど、茶色い目をわくわくと光らせていた。
気をとられたひょうしに、はち植えに足をぶつけて、一つ引っくり返してしまった。
(小山のばあちゃん、ごめん!)
道らしい道がなくて、野菜畑へまっすぐつっこんで行った。これは、しょう害物レースに近い。
(にんじん、大根、えっ、メロンまで実ってる!)
つぎつぎとびこえてゆく。まるでハードル選手だ。運動会でも、これくらいのスピードが出せればいいのに。
(あっ、はしごがある!)
――でも、地面にたおされてちゃ、のぼれないんだよ〜。
その場を素通りだ。
(まずい。このまんまたんぼへぬけると、もうかくれる場所さえないぞ)
ばあちゃんの畑を一周して、道路にもどったら、一か八か自分の家まで走ろう!
目の前には、池が広がってる。
(……って、この家に、そんなもんあったっけ?!)
ちがった。でっかい水たまりだ〜。
よおーし、三だんとび。ホップ、ステップ――ザブッ!
(うが〜、スニーカーに水が入った。ガフガフだあ〜)
家の角を曲がり、前庭にもどったところで、とうとうシロに追いつかれてしまった。
「ギャン、ギャン、ギャンッ」
とびかかってくるシロをよけながら、おれは、庭のすみに生えてる木のまわりを、グルグル高速回転。
足がもつれる。
(も、もう、おれは一生犬からにげられないかもしれない)
バカ、パニクるな。そんなことより足を動かせ。
にげろ、にげろ、にげるんだっ!
やっとシロをふりほどいて、門へ向かったら、ひょっこり、スーパーのふくろをさげた小山のばあちゃんが帰ってきてしまった。
――ど、どうしよう。小山のばあちゃんをおとりにしちゃおうか。
(だめだ〜。年寄りだから、かまれたら死んじゃうかも。ばあちゃん、にげろ!!)
そう思ったしゅん間、びしょぬれのスニーカーがぬげた。前のめりになって、ちょうどそこにあった水たまりに顔面をつっぷした。
「ぐえっ」
どろ水飲んじまった!
そのときだった。まったく予想外なことが起こった。とつぜん、小山のばあちゃんが、つえがわりにしていたかさを高々ふり上げたんだ。
「こんの犬コロめがぁ、どこぞへ失せぇい!」
クワーッと、おれまでふるえあがる声色を出して、シロをどなりつけた。
気はくのこもった眼光で、ばあちゃんは相手をにらんでいる。
シロは舌をたらし、ウロウロこまっている。白いオオカミみたいだったのが、シュワシュワちぢんで、ふつうの中型犬にもどって見えた。
「シッ、シッ」
ばあちゃんがかさをギュンギュン回す。するとシロは、もうしわけなさそうに頭を下げて、すごすごと門から出ていってしまった。
(す、すげえな、ばあちゃん)
と、かさをよく見たら……。
「あっ、おれの!」
立ち上がったおれに、小山のばあちゃんは、
「あれま、そこでひろったんだけど、あんたのだったのかい。おかげでいいつえがわりになったわ」
と、いつもと変わらない、しわくちゃの笑顔を向けた。
――おれは、家へ帰ってから、
「どこぞへ失せぇい! どこぞへ失せぇぇぇい!」
と、時代げき口調でどなる練習を何度もした。
けど、せっかく大声を出せるようになったのに、それを使うことはもうなかった。
――あれから、シロはゴッツの家へはもどらなかった。
今もまだ、空の小屋を見るたび、犬がとび出してくるんじゃないかとドキドキしてしまう。
(けど、もう帰ってくるなよ、シロ)
また追いかけられるのは、ごめんだからな。
保健所にも、つかまるな。もっと親切な、新しい飼い主をさがすんだ。ゴッツや、もちろんおれなんかでもない……。
ゴッツの家を通りがかると、道ばたのしげみで、何か白い物が動いた。
ゲゲッ! と、思わず身がまえたけど……。
「な、何だあ。びっくりしたあ。ビニールぶくろかよ。チェッ」
けっとばしたら――ガササッと音をたてながら、黄色くうすよごれたふくろは、風で空へ飛ばされてった。
――シロ、うまくにげろよ。 |
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