さいごのさいご
竹内 明子     
鬼ケ島通信第42号参考作品
鳥のから揚げをつまみ、ビールを飲み干したパパが、偶然天井のシミを見つけた。
「ついに雨もりまでするようになったか。」
その瞬間、アボガドサラダをつまんでいたママの瞳がキラリと光る。
「っていうか、もう限界よ。ドアというドアは閉まりにくいし、トイレのさびた所は穴があいちゃってるし。」
「家賃が安いからって築四十年だしな。」
「だしね。」
モモミはアツアツのごはんをほおばったばかりだった。その口を、思わずあんぐりと開けて二人を見る。
「引っ越すか?」
「異論はないわ。」
そう言うと、二人はお互いのグラスをカチリと合わせてにっこり微笑んだ。
「ちょ、ちょっと待ったぁ!」
モモミの口から真っ白なごはんつぶが勢い良く飛び出す。
「大丈夫よ、モモ。転校はしません。ねえパパ、これなんかどうかしら?」
いつの間に持ってきたのだろう。ママの手には、同じ学区内に出来たばかりのマンションの広告が、しっかりにぎられていた。
(じょうだんじゃないわよ。今度は家?)
アボガドのかたまりと、から揚げ三個を立て続けに放り込む。モモミは、あとはひたすら口の中の物をかみ続けるのだった。

一番最初は掃除機だった。緑色の掃除機は、幼いモモミのお気に入り。自分で大きな耳とまん丸な目をつけて『ゾウさん』と呼んだ。長いホースがゾウの鼻。ママの掃除が終わるのを待って、モモミはゾウさんを家中引きずりまわして遊んだ。
ところが五才の夏、ママの「あら、こわれちゃったわ。」のひと言で、掃除機はモモミだけのゾウさんになった。
モモミは階段の前で言った。
「さあ、一人でおりてみようね。」
ゾウさんのおしりをポンと押す。長いホースを右や左にうねらせながら、ゾウさんはガタガタ音をたてて転がり落ちた。床に落ちた拍子にパカッとダストボックスがはずれて、わずかに残ったホコリがちらばった。
「うわー、きったなーい。」
まん丸な目がホコリにまみれている。
すると…
「いくらなんでも、それはないだろう。」
おじさんみたいな声がした。
「うー腹がスカスカする。おい、早く元にもどしてくれ。」
しゃべっているのはゾウさんだ。モモミはおずおずと掃除機に手を伸ばし、ダストボックスをカチッとはめた。
「階段から突き飛ばされるとはな。」
文句を言いながら、ゾウさんはグィーンと音をたて、床にこぼれたホコリを吸い込んだ。
「こわれたんじゃなかったの?」
床はすっかりきれいになっている。
「こわれたさ。八年と百七十五日目にこわれた。ていねいに使えば十五年はもつのに。おまえの乱暴さは母親ゆずりだな。」
モモミはペロッと舌を出した。
「こわれたのになんで動いてるの?」
「そりゃあ、さいごのさいごに好きなことをするためだ。」
そしてゾウさんはぶるんとホースを振り上げて、モモミがつけた大きな耳をズボズボッと吸い込んでしまった。
「言っておくがおれはゾウさんなんかじゃないぞ。どこの世界に緑色のゾウがいる。」
確かにそうだ。
「緑色といえばやっぱりカエルだろうな。」
うっとりした声で言う。
「あたしカエル、大っきらい。」
「ちっ、いいかよく聞け。人間は地上でしか生きていけないし、魚は水の中でしか生きていけない。なのに、カエルはそのどちらでも立派に生きていけるんだぞ。おっと、五才の子どもにはちとむずかしかったかな。」
「そういうの、りょーせいるいって言うんでしょ。」
「…物知りだな。まあいい。ということで、おれはカエルになる。」
「でも、鼻の長いカエルなんていないよ。」
モモミはホースを指差した。
「いいんだよ、これは舌。カエルの舌は長いんだ。じゃあ、行こうか。」
「どこへ?」
「フロ場に決まってるだろ。カエルはりょーせいるいなんだから。」
ゾウさん、いやカエルさんはやけにいばって言った。
浴そうのフタを開けたとたん、もあーっと白い湯気が立ちこめた。
「うん、いい湯かげんだ。」
ホースの先をお湯につけて温度を確かめると、カエルさんはブクブク浴そうの底に沈んで行った。
「ん、んー。」
うなり声のような声を出す。いなかのおじいちゃんが温泉につかってる時みたいだ。
「あーごくらくごくらく。」
話すたびに体からボコッボコッと空気が出て、中のホコリが飛び出してくる。透明だったおフロの水面は、一面ゴミだらけになった。
その時、ハエが一匹飛んできた。
「ケロケロッ、ごちそうだっ!」
カエルさんはホースをザバッと振り上げて、驚くほどの速さでハエを吸い込んでしまった。でも次の瞬間、バチバチッっと音がしてお湯の中に光が走った。吸い込む音は止み、伸びたホースが水面にバシャッと力なく落ちた。
カエルさんは何も言わなくなった。
「きゃー何これっ? おフロに掃除機入れて何やってるの? ああもう、こんなにゴミだらけにして、モモミのバカ。」
ママがやって来て、火がついたように叫び出した。びしょぬれのカエルさんはゴミ袋に突っ込まれ、今度こそ本当のゴミになった。

二番目は洗濯機の『ガバット』だった。洗濯機がこわれたのは三日続きの雨のあと、カラリと晴れた日曜の朝のことだった。
たまった洗濯物を袋につめ込みながら、ママは一年生のモモミに言った。
「お留番出来るよね。コインランドリーでお洗濯して、電気屋さんに行ってくるから。やっぱり次は、音の静かな新型かなあ。」
出かけていくママの声ははずんでいた。
「静かだな。」
毎朝聞こえる音が、今は聞こえない。ガバットのガーガーやブルンブルンっていう音だ。「あれ聞くと、早く会社に行けってせかされてる気がするよ」とパパはよく顔をしかめる。
バタ、バタン バタ、バタン
静かだったのはそこまで。突然洗面所の方が騒がしくなった。
「開けて、開けてよぅ!」
見ると、ガバットがふたをバタバタさせながら、ヒステリックなお姉さんみたいな声で叫んでる。モモミは恐る恐るふたを開けた。
「あー、よかったぁ。サンキュー。」
がばっとあいた大きな口から、安心のため息がもれる。モモミは二年前のことを思い出して、こう聞いてみた。
「もしかして、あなたもさいごのさいご?」
「まあね。私、こう見えてもオペラが得意なの。マリア・カラスの再来じゃないかって思うくらい。私の歌、聴いてね。」
するとガバットは、ハァーと大きく息を吸い込んで歌いはじめた。
「ガーガーガガーア ガラガラガララーー」
モモミはとっさに耳をふさいだ。洗濯機の中に空き缶でも入れてかき回したような音だ。
「あら? 変ね、いつもの声じゃない。きっとのどになにかひっかかってるんだわ。あなたのママったら、ポケットの中も確かめないで放り込むんだもの。ねえ、ちょっと見てみてよ?」
モモミは素直に言うことをきいた。確かに、モモミが今はいているジーンズも、ティシュの細かいくずがいっぱい張り付いていた。
「ちがうちがう、もう少し右。そう、そのへんがゴロゴロしてるの。どう?」
踏み台にのって、体半分飲み込まれるようにして中をのぞく。モモミは懐中電灯のあかりを、底についてる風車形の突起の細いみぞにあてた。何かがキラリと光った。
「あったぁ!」
銀色のクリップだ。パパのワイシャツのポケットによく入っているやつ。モモミはママのヘアピンで、上手にひっかけて取った。
「アーアー。うん、元にもどったわ。毎日汚れ物ばっかりでうんざりだったけど、今日は本当のソプラノを聴かせてあげる。さあ、スペシャルステージよ。いい、私に半分くらい水を入れて。それと洗剤もね。洗剤はケチケチしないで、たっぷりよ。」
「たっぷり?」
モモミは箱の中身を、全部あけた。
「ラーラララー ララララー」
なるほど自慢するだけのことはある。うっとりするほど美しい声だ。同時に、洗濯そうがクルリクルリと回り出す。
「わー、きれーい。」
モモミは思わず声を上げた。洗濯そうが回るたび、ガバットがシャボン玉を次から次へと吐き出すのだ。
「ラールルルー ラーラーララー」
七色に輝くシャボン玉に彩られながら、ガバットはいつまでも歌い続けた。帰って来たママが、洗濯機のそばで全身泡だらけになっているモモミを見つける、その時まで。

三番目は冷蔵庫の『ナンカナイ』。モモミ三年生の冬のことだった。ある朝、冷蔵庫の奥でお豆腐が凍っているのを見つけたママは、まるで伝染病でも発見したみたいに騒ぎ出した。
「そのうち野菜室のものまで凍るわ。凍ったきゅうりがどんなふうになるかわかる? 細胞がぐちゃぐちゃで、もう食べられたもんじゃないわ。」
ママのお目当ては、ドアがいっぱいついている冷蔵庫だったのだ。
「グスッ…グスッ…グスッ…グスッ…」
新しい冷蔵庫が来る前の夜、薄暗いキッチンにとぎれとぎれの泣き声が響いた。ママやパパには、「ポトン、ポトン」という霜取りの水の音にしか聞こえない。でも、モモミには聞こえてしまった。二度あることは三度ある、そう思って覚悟していたから。
「辛かった、本当に辛かった。」
どっしりと四角いナンカナイは、おばさんの声で話し始めた。
「冷え性なのに、十年間休みなく冷やされっぱなし。何かない?ってみんな頼りにしてのぞくくせに、あたしゃ、半年に一度の霜取りさえもしてもらえなかったんだよ。」
「ごめんね、ズボラなママで。」
「外は雪かい? どうりで冷えるはずだ。あーあ、お払い箱になるんだったら、夏の盛りがよかったよ。」
「どうもすいません。」
「あやまってばかりいないで、早いとこあつーい緑茶を入れとくれ。どんぶりにだよ。それが一段目。二段目にはラーメンがいいねえ。三分でできる簡単なやつでいいから。その下の棚には、あんたが今日食べてた肉まん。レンジでチンする時は気をつけて。加熱しすぎるとかたくなっちまうからね。あとは野菜室と冷凍庫かい。そうだね、ありったけのホッカイロをじゃんじゃん詰め込んどくれ。」
パジャマ姿のままでこき使われたモモミは、次の日から熱を出して寝込んでしまった。

そして四番目はちょうど一年前、パパの愛車『ラン丸』の番だった。後部シートは一人っ子のモモミには広すぎる。さみしさをまぎらすため、ランサーという車種名からつけた名前を、モモミはいつも兄弟のような親しみを込めて呼んでいた。
モモミがボンネットをやさしくなでると、ラン丸は低い声でぽつりとつぶやいた。
「あの時みたいな夕日が見たいぜ。」
「あの時?」
「フェリーから降りたおれたちをむかえてくれたのは、真っ赤に燃えた大地だった。あんなにまっすぐな道を思いっきり走ったのは、後にも先にもあの時だけだったな。」
ラン丸は、三年前の夏休み、北海道一周旅行をした時のことを言っているのだ。
「うん、本当にきれいだったね。でも、これじゃあ…。」
モモミは灰色の空を見上げた。今は六月。ねずみ色の梅雨空が、ふたをしたように重くのしかかっている。「無理だよ」と言おうとしてモモミは言葉を飲み込んだ。ラン丸の大きな体が、じっと悲しみをこらえているように見えたから。明日はもうお別れなのだ。
「あっ!」
モモミは突然ひらめいて家の中へかけ込んだ。居間のテレビのスイッチを入れると同時に新聞をめくり、お天気欄を指で追う。
(あの夕日、もしかしたら見せてあげられるかも。だって…)
予想どおり、北海道のお天気はズバリ『晴れ』。モモミは思い出したのだ。北海道には梅雨がないってことを。全国的に雨マークの中、そこだけ真っ赤なお日様印が笑っていた。
その時、テレビの中でピーッと時報がなり、ちょうどニュースが始まった。
「こんばんわ、六時のニュースです。今日の主な項目は……その次は『今日の夕焼けコーナー』、本日は北海道十勝平野から、六時二十五分ごろお送りします。」
「やったー! こっちも予想どーり。」
さあ、あと二十五分しかない。モモミはテレビを引きずって、出来るだけ窓に近づけた。もちろん窓のカーテンは全開。そして家中を走り回り、鏡と名のつくものを集めて庭に出た。ママがギャーギャー騒ぎ始めたけど今は無視。まず、居間の窓の外にはママの姿見の細長い鏡。そしてその先のハナミズキの木の枝には、洗面所の長丸い鏡。次にブロック塀の穴にひもをとおして丸い手鏡をつるし、最後に玄関わきの郵便受けの上に小さなスタンドミラー。これで準備オッケーだ。
「それでは今日の夕焼けコーナーです。曇り空のもとでお過ごしの皆さん、雄大な十勝平野に沈む、とびきりの夕日をご覧下さい。」
テレビの画面が一瞬にしてオレンジ色に染まった。同時にそのオレンジ色は、姿見の細長い鏡に、長丸い鏡に、丸い手鏡に、小さなスタンドミラーに。そしてラン丸のバックミラーに。
「見える、ラン丸?」
モモミはバックミラーをのぞき込んだ。
ブルン ブルルル ブルンブルン
エンジン音とともに排気の臭いがプンと鼻をつく。ラン丸の一番元気だったころが、今、ここにあった。

モグモグとただひたすらに口を動かしながら、モモミは目の前のママを見た。
(きっと最後はまたお説教だ。)
カエルさんの時もガバットの時も、ナンカナイもラン丸の時も、ツケはみーんなモモミに回ってきた。でも買い替えなきゃいけないような物は、もう当分ないと思って安心してた。家の番が来るなんて考えもしなかった。
(でも『ミシミシ』のさいごのさいごって何だろ…。)
モモミは家の中を見まわした。そう、モモミは家にまで名前をつけていたのだった。

マンションの話はとんとん拍子に進み、明日が引っ越しという日がやってきた。荷作りしたダンボール箱の間をうろうろしながら、モモミは落ち着かない気持ちでそれを待った。
ミシ、ミシミシ…
古い木造だから、どこを歩いても床がきしむ。がらんとした家の中では、足音がいつもの倍の大きさに響いた。
「モーモ。」
ミシミシがモモミを呼んだ。その声は遠くから聞こえるようにも、耳元でささやかれているようにも聞こえる。
「雷が鳴るとかくすものなあに?」
なぞなぞだ。モモミはすかさず答えた。
「おへそ!」
「はい、大正解。」
(私のこと、モーモって呼んだ。それになぞなぞ…)
頭の中で古い記憶がコトッと音をたてた。
「…あなたの声、聞いたことがある。」
それはモモミが幼稚園に通い始める前のこと。たっぷりお昼寝した日の夜は、決まって夜中に目がさめた。また目を閉じてもなかなか寝つけず、暗闇がこわくて泣きそうになる。そんな時だ。あの声が聞こえたのは。
「なぞなぞだよ。パンはパンでも食べられないパンなーあに?」
不思議と落ち着く声だった。声は、目がさめて眠れなくなった時には必ず聞こえてきた。そして出されたなぞなぞの答えを考えているうちに、いつもストンと眠りに落ちて行くのだった。
「あれって夢の中の出来事だと思ってた。」
「本当は私たち、人間に話しかけちゃいけないんです。でも、最初に私がルールをやぶった。おフトンの中でふるえるモーモを放っておけなかったから。そしたら掃除機や洗濯機たちがズルイズルイって言い出しましてね。それであんなことになったわけです。」
「そうだったんだ。みんな私のこと困らせたいんだって思ってた。」
「とんでもない。みんなモーモのこと大好きだったんですよ。」
「そうかなあ。」
「そうですとも。この四十年、いろんな家族に出会いましたが、私に名前をつけてくれたのはモーモが初めてでしたよ。」
「へへ。何にでも名前つけるから、ママには変な子ねえって言われる。」
モモミはちょっぴり照れながら笑った。
「モーモに会えて良かったです。」
ミシミシはしんみりと言った。
「やだなぁ、元気出してよ。ねえ、それよりミシミシのさいごのさいごは?」
モモミはわざと明るい声を出した。
「それはさっきのなぞなぞの答えです。」
「答えって、おヘソ?」
「はい。返してください、私の大事なおヘソ。」
モモミは自分のおヘソに手をあてて、じっと考え込んだ。
「あーっ、もしかして!」
モモミは叫ぶなり、そばにあったダンボールの箱をかたっぱしから開け出した。ガムテープをビリビリはがし、中の荷物をかき回す。
「ここじゃない。あーこれでもない。」
そうして十個ほど箱を開けた時、
「あったぁ!」
モモミは小さな木片を握りしめて立ち上がると、一階の床の間のある部屋へ走った。床の間の横の、光沢のある茶色い床柱。そのちょうど真中あたりに、直径五センチくらいの穴がぽっかりあいていた。モモミはその穴に持ってきた木片をキュッとはめ込んだ。
「これでいい?」
「ああ、何年かぶりに体がシャキッとしました。」
幼いモモミには、床柱の木目が気持ち悪くてたまらなかった。特に真中の一番大きな木目は、本で見た一つ目小僧の目にそっくりだった。ある時、持っていた棒のような物でポカポカたたいてみたら、その拍子に木目がパカッとはずれたのだ。それ以来、はずれた木目はずっとおもちゃ箱の中にねむっていた。
「大事な物だったんだね。ごめんなさい。」
「返してもらえればそれでいいんです。」
「ねえ、引っ越すマンションはすぐ近くだから、時々遊びに来るよ。新しい人が住んでても、外からお話出来るでしょ。」
モモミはいい思いつきだと思った。でも新しい人はもうここには住まない。モモミたちが出て行ったら、取りこわされることが決まっていた。『さいごのさいご』とは、そういう意味なのだから。
でもミシミシはやさしい声で答えた。
「ええ、待っていますよ。」