どろぼうくしゃみと
オットセイ
竹内 明子     
鬼ケ島通信第41号参考作品
出るな、出るな。チャイムが鳴るまであと十分。出るな…あ、で、出る!
「ヘ…ヘェーックション!」
静まり返っていた教室に、私のくしゃみがひときわ大きく響きわたった。算数の計算問題を解いていたみんなの背中が上下に動く。先生も口をきゅっとむすんで、笑いをこらえてる。
「おやじくせー。」
と右隣のケンタ。
「これで七回目っと。」
後ろのサキちゃんは、机のすみの『正』の字に棒を一本付け足した。
でも私の神経は、スカートのポケットの中に入れた右手の指先に集中していた。
(1、2、3、4、5、6…7。ふえてる。)
十円玉は七枚になっていた。
「キリちゃん、鼻水出てる。」
左隣のノリちゃんが自分のティシュを差し出した。
「ありがと。」
私はノリちゃんの顔を見ないで二枚引きぬいた。それを重ねて思いっきり鼻をかむ。
「きったねーなー、おまえ。」
「うるさい。」
ばかケンタめ。こっちはそれどころじゃないんだから。
やっと五時間目が終わった。
「用事があるから先帰るね。」
ノリちゃんにそれだけ告げて、急いで教室を出る。廊下を走る。校庭も走る。
「ヘェーックション。」
ちょうど校門を出たところで、八回目のくしゃみ。ああ良かった、回りには誰もいない。十円玉は七枚のままだった。
「どーなってんのよぅ、いったい。」
かぜをひいたのは三日くらい前。でも薬はママに内緒でこっそり捨ててた。だって苦手なんだもん、カプセル薬。
そしたら昨日の夕方のこと。
ジャラジャラー
テレビを見てる私の横で、弟のタクミがロボット型の貯金箱をさかさまにした。テーブルいっぱいに広がったお金を、ていねいに並べ始める。
(十円玉ばっかじゃん。)
その時、急に鼻がムズムズしてきた。
「ヘェーックション!」
「キリちゃん、手で口をおさえなさいね。」
ママのまねだ。くそっ生意気、たんぽぽ組のくせに。
「ヘェーックション、ヘェーックション。」
「あーっ、おこづかい帳に鼻水ついた! わーっ、バイキン、バイキン!」
パニックにおちいったタクミは、ティシュをつかんだ手をぐるぐる振り回している。
ふふふ、天罰じゃ。
「あれ? 三十円足りない。」
しばらくしてタクミが言った。テーブルの下までのぞいてる。
「ない。あっ、お姉ちゃんとったでしょ。」
「とるわけないじゃん、それっぽっち。」
「んーーー。」
タクミはやけに不満そうな顔で私から目を離そうとしない。
「もうっ、とってないってば。」
私はテレビのスイッチを切って、立ち上がった。あーあ、五才も年下だといちいち疲れるんだよね。
でも…夜になって気がついた。普段は物を入れたりしないブラウスの胸のポケット。ぬごうとしたら、中から三枚の十円玉がこぼれ落ちた。
タクミの三十円はゆうべこっそり貯金箱に返しておいた。でも…
「どうしよう、これ。」
歩きながら、手のひらの上に七枚の十円玉を並べた。全部『平成三年』って書いてある。ホームズじゃなくったって、これが誰のかすぐわかる。自分の生まれた年の十円玉を集めるのが趣味で、ここんとこ「あと三枚で百枚達成!」が口ぐせの女の子、ノリちゃんだ。
「でも学校にまで持って来てるとは思わなかった。こういうの、恩をあだで返すっていうんだよな、確か。」
なにしろひどい忘れん坊の私は、ノリちゃんにはかりが多い。鼻をかむのはノリちゃんのティシュ。洗った手をふくのもノリちゃんのハンカチ。
「決めた、明日は学校休もう。」
ママに何て言ってお許しをもらうか。私はあれこれ考え始めた。
「キリコ。」
後ろから声をかけられて、とっさに七十円をポケットにねじこんだ。
「あ…おばあちゃん。」
振り向いたさきには、白い帽子に白いスニーカー。そしてバスガイドさんみたいに真っ白な手袋。おばあちゃんのお散歩スタイルだ。
「今日は一人なんだ。ママは?」
「ユリコさんは幼稚園の役員会だ。」
それだけ言ってさっさと私の前を歩き出す。私はのろのろとあとからついて行く。
小さい頃は、なんでおばあちゃんいつもおこってるんだろうって不思議だった。
「おばあちゃんは銀行員だったの。お金数えるのを間違わないように、余計なおしゃべりをしないくせがついちゃったのよ。」ってママは言うけど、私が知ってる銀行のお姉さんは、いつもにこにこしててアメなんかくれるんだけどなあ。タクミとテレビ見てるところにおばあちゃんがやって来ると、私たちは何かにしばられたみたいになる。まるで授業中の教室に、校長先生が入ってきた時みたいに。
でも最近、そんなおばあちゃんに変化が現われた。
「その手さげ、買ったのかい?」
ほらね、また同じこと聞いた。昨日の夜と今日の朝とで、この質問もう三回目。先週の誕生日に買ってもらったんだって説明してるのに。白い帽子の下で揺れるおばあちゃんの肩が、急に小さく見え始める。
「あーあ。」
私はわざと聞こえるようにため息をついた。何度も同じ答えを言うのはうんざりだ。その代わりに、私はおばあちゃんの背中にこんな質問をぶつけていた。
「ねえ、なんでオットセイって言ったの?」
急に物忘れが激しくなったおばあちゃん。病院の先生に「四本足の動物にはどんなものがありますか?」って質問されて「オットセイ」って答えた。ママと二人の散歩はその日からはじまった。大切な治療のひとつなんだって。
おばあちゃんは答えない。
「ねえおばあちゃん、聞こえてる? ねえってば。」
答えないし、歩くのもやめない。私は追いつこうと小走りになった。真っ白な手袋が、「シッシッ」って私を追い払うように前後に揺れている。
その時、街路樹のケヤキの枝先が、たらんと揺れた。
「あっおばあちゃん、鳥だ、鳥!」
私は思わず指を差して叫んだ。「おばあちゃんの散歩はね、ただ歩くんじゃなくて自然の様子をゆっくり観察しながら歩くと効果があるんだって」ってママが話してたのを思い出したから。
「ヒヨドリじゃないか。こんな季節に町までおりてくるなんて珍しいねえ。」
おばあちゃんは白い帽子をひょいと後ろにずらした。
「目が黒くてまん丸。かっわいーい!」
ヒヨドリはしばらくくちばしで葉っぱをつっつくようにしてから、プイとどこかに飛んで行ってしまった。
飛び立った空を見上げたままの私の隣で、急におばあちゃんがケラケラ声を出して笑った。
「なんでオットセイって答えたかって? そんなの私にもわからないよ。」
そう言ってまた笑う。私はポカンとして目の前のおばあちゃんを見つめた。
(わざとオットセイって答えたんだ。)
笑い方がいたずらっ子みたいで、なんかそんな気がしてきた。
「ヘェーックション。」
ふいに九回目が出た。
「ほら、鼻水。」
しかめっ面にもどったおばあちゃんが自分のティシュを出した。よかった、ポケットの中身は増えてない。お財布持ってないんだ、おばあちゃん。
並んで歩きながら、私は鼻をかんだ。
「そういや、じき六月だ。」
「六月? なんで?」
「毎年決まってかぜひくじゃないか、おまえ。梅雨の前にさ。」
「そう? そうだったかなぁ。」
そんなことママにも言われたことない。
「私の机のひきだしに、ビンに入ったペブロンって薬があるからお飲み。一回ニ錠ずつ一日三回。小さい玉だからキリコでも大丈夫だ。」
「入っていいの? おばあちゃんの部屋。」
「ああ。この時期のかぜは長引くとやっかいだ。ちゃんとお飲みよ。」
びっくりした。今までおばあちゃんの部屋は、私とタクミは立ち入り禁止だったから。でもそれ以上にびっくりしたのは、私がカプセル薬が苦手だって知ってたこと。
足元を見ると、おばあちゃんと私の歩調がぴったり同じになっっていた。
「ねえ、おばあちゃん…」
なんでだかわかんないけど私、ヘンテコなくしゃみのこと、おばあちゃんに話してた。
「…ふーん。」
おばあちゃんは公園のベンチに座ったまま、白いスニーカーの足を組み直した。
「どろぼうくしゃみか。」
いつものおこったような顔でつぶやいた。
「いやな言い方するね、おばあちゃん。」
「本当のことだ。見せてごらん、その十円玉。」
話したのはやっぱり間違いだったと思いながら、しぶしぶポケットの中身を出した。
チャリチャリン
左手にのせた十円玉が、手のひらをきゅきゅって動かしただけできれいに一列に並んだ。さすがもと銀行員。
「言っとくけど盗んだりなんかしてないからね。くしゃみしただけなんだから、私。」
なんでこんなことになったのか私にもわかんないよ。
「ならちゃんと学校は行くんだね。」
「えーっやだ。これ以上ノリちゃんの十円玉取りたくない。」
「キリコが取ってるわけじゃない。」
「それはそうだけど…。でもお金が減ってることにノリちゃんが気付いたら? 絶対誰かが盗んだって言い出すに決まってる。」
「確か百枚まであと三枚だって言ったね。」
「うん。目標達成が目前で、ノリちゃんちょっと興奮ぎみ。」
「なら大丈夫だ。今、その子の頭の中にあるのは『3』という数だけだ。手元に何枚あるかじゃなく、『3』を加えて『100』にすることしか考えてないのさ。三枚集まるまでは、たぶん十円玉を数えたりしないだろうね。」
おばあちゃんはさらりと言った。
「なんでそんなことがわかるの?」
「あまり人には言いたかないけどね。銀行員になりたてのころ、現金と伝票の金額が五円合わないことがあったんだ。現金が五円足りないのさ。合わない人が一人でもいると、全員が帰れないからね。とにかく必死で探したよ。五円玉がどっかに落ちてないか、伝票に5の書き間違いがないかってね。そりゃあもう頭の中で『5』って数字がグルグル回るくらい。」
「たった五円? いいじゃんそれくらい。」
「ばかだね、おまえは。人様のお金を預かるってのは、大変なことなんだよ。とにかく私は五円ばっかり探したけど見つからなかった。で、最後の最後に気が付いた。もう一度手元の現金を数え直してみようってね。そしたらなんてことはない。ただの現金の数え間違いだったのさ。合わない時はもう一度全部数え直せ、銀行員の鉄則だ。」
「ふーん。」
なんか学校の授業より聞いてて納得できた。
「それに、もしその子が足りないのに気付いても、大騒ぎすることはないだろうね。」
「なんで?」
「学校にお金、持ってっちゃいけないことになってんだろう?」
「なーる。おばあちゃん、さえてるぅ。」
私の気持ちはとたんに軽くなった。

おばあちゃんの玉薬はツルッとのどを通った。
「えっ、なあに?」
水道の水をジャージャー流してお茶わんを洗ってるママが振り向いた。
「だからぁ、私ってこの季節にかぜをひきやすいのかって聞いたの。」
「そうだったかなぁ。タクミとごっちゃになって覚えてないわね。」
ママは手を止めないで言った。
私は「まあ、そんなもんか」って思って、ママの手元を見てた。水切りカゴの中に、洗い終わった食器がどんどん重なっていく。タクミのごはん茶わんの上に私の。その上がママので次がパパのお茶わん。そして…
「うわっ誰の? そのごっついの。」
デカイうえに古臭い。底だって少し欠けてる。
「おばあちゃんのじゃない。割れちゃったから新しいの買おうとしたんだけど、亡くなったおじいちゃんのでいいって。」
全然気付かなかった。
「昔はちょっとでもヒビが入ったりしたら絶対使わなかったのに…。やっぱりねぇ、そんなとこまでルーズになってきちゃうのかしら。」
ママはひとり言みたいにつぶやいた。
「ちがうよ! きっと…きっと…おじいちゃんのこと思い出したいからだよ。」
ママは手を止めて私を見つめた。
「なにむきになってんの?」
「べつにむきになってなんか…あ…ヘ…」
出る。私は急いで食器棚の前に走った。
「ヘェーックション!」
家に帰ってから五回目のくしゃみ。
(毎度ありー。これで五十円。)
食器棚の引き出しにはママの小銭入れが入ってる。これくらいはいいでしょ。うち、おこづかい少ないし。でもこの場合、一回十円ってのははかどらないなあ。
「ヘックション、ヘックション、ヘックション。」
だめか。わざとじゃどろぼうくしゃみにはならないんだ。
「何やってるの? へんな子ねえ。へんって言えば、おばあちゃんも。明日から散歩は一人で行くって言い出すし。」
ママはしきりに首をかしげていた。

次の日の放課後。
ノリちゃんから逃げるように離れて校門の外まで来ると、おばあちゃんが立っていた。「おかえり。」
白い手袋をはめた左手を、こっちに広げる。
「ただいま。」
私はポケットの中身をそこにのせる。
「九十円か。薬はまだ効かないようだね。」
「おばあちゃんの言う通り、ノリちゃんは気付いてないみたい。でもくしゃみをするたび心がチクチク痛むよ。」

また次の日も、おばあちゃんは立っていた。
「今日は少し減ったよ、ほら。」
「六十円か。あと二、三日ってとこだね。」
「でもおばあちゃん、かぜが治ったとしても、取っちゃったお金はどうやって返したらいい?」
まさかうっかりポケットに入ってました、なんて言えないし。
「おまえ、いつもその子からハンカチを借りてるって言ってたよねえ。大丈夫だ。じきその日が来るよ。」
ハンカチ? その日?
おばあちゃんの顔は、どことなく楽しそうだった。
「さあ、帰るよ。」
「うん。ねえ、今日も川沿いの道をお散歩して行こう。お花きれいだもん。」
「ああ、そりゃけっこうだね。」

その夜の夕食後、パパとママがちょっとしたことで言い合いになった。
「大事な書類だって言っただろ。どこにしまったんだ?」
「ちょっと待ってよ、今思い出すから。ええ…と、おとといあなたが帰って来てソファの上に置いたでしょ。タクミが座りそうになったからどっかに動かしたんだけど…。」
「だからどこなんだ? そのどっかって?」
パパのイライラした声で、ママはますますあせってくるみたいだ。
「大きな茶封筒だろ。テレビとサイドボードのすきまを見てごらん。」
お茶をすすっていたおばあちゃんが言った。
「あった! そうそうここだった。」
ママがうれしそうな叫び声を上げる。棚の上ばかり探していたから意外な展開だ。
「なんだってそんな目立たない所に置いたんだ?」
パパはまだ不機嫌なままだ。するとすかさず、湯のみを口からはなしておばあちゃんがピシャリと言った。
「おまえがユリコさんに言ったんだよ、そこに立てかけておけって。大事なものなら自分でしまっときなさい!」
パパとママはしばらくポカンとしてた。
「パパもお母さんにしかられるんだね。」
タクミが私に耳打ちした。
「そうだね。でもパパったら、しかられたのにニコニコしてるじゃん。」
そう言ってる私も実はとってもニコニコしてて、何事もなかったように座っているおばあちゃんは、相変わらずのおこったような顔だった。

それから何日もしないうちに、私のくしゃみは完全にストップした。ストップした日から数えてちょうど三日目の朝、おばあちゃんが言った。
「今日あたりだね。例の十円玉、ランドセルに入れておゆき。」
十円玉は三十二枚になっていた。その日が来たんだ。
「それと…」
おばあちゃんはうで組みをしたままジロリと私をながめた。
「ハンカチは持ったのかい? もう人様から借りるんじゃあないよ。」

どんよりと曇った空が梅雨が近いのを知らせていた。
「おはよう!」
元気に教室に入って行くと、ちょうどこっちを振り向いたノリちゃんの顔が、くにょっとゆがんだ。
「ハクション!」