●「逝きし世の面影」 渡辺京二 葦書房
読後、こんなにも誰かと語り合いたい! と思った本はありません。それほど刺激的な本でした。
内容を一口にいってしまえば、幕末に日本を訪れた外国人の残した数々の訪日記を詳しく読みこみ、当時の外国人の目に映った日本、日本人を通して、江戸という時代、その文明を、浮き彫りにしようとした本です。
私の頭の中では、江戸時代といえば、士農工商という身分制度のしかれた窮屈で暗い時代という印象が強いのですが、ほとんどの外国人の目にはそうは見えなかったようです。見えなかったどころか、
「妖精の住む小さくてかわいらしい不思議な国」であり、
「幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」
「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」
「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」
「不機嫌でむっつりした顔にひとつとて出会わなかった」
「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」
と書き残しているのです。
もちろん
「家は木造で、人びとは貧しく、道は泥だらけで」
「日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活」と書いた外国人はいました。
しかし当時の欧米の物質的「ゆたか」さとは異質の「ゆたか」さに気づいた外国人も多かったのです。
幸福よりも惨めさの源泉となり、しばしば破滅をもたらすような、自己顕示欲にもとずく競争はここには存在せず、
「気楽な暮らしを送り、欲しい物もなければ、余分な物もない」であり、
「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」のです。
つまり、日本では貧は人間らしい満ちたりた生活と両立する、といっているのです。
ハリスの有能な通訳だったヒュースケンは1857年(安政四)12月7日の日記に、
「いまや私がいとしさを覚えている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の質朴な習俗とともに、その飾り気なさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終りを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているおうに思われてならない」と書くのです。
けれど、英国の詩人が来日の晩餐会で、景色の優美さ、美術の精妙さ、やさしい性質や礼儀正しさを述べると、翌朝の新聞の論説は、産業、政治、軍事の進歩に触れず、美術や風景、人々の礼儀正しさを賞めあげたのは日本に対する侮蔑であると書くのです。明治22年のことです。
著者はこの本の意図を、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにあると述べ、外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれない記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくる、と書いています。
私もわずかながらも追体験し、自分の曾祖父母の生きた時代がまさに「逝きし世」であることを、痛切に感じました。
書きたいことは山のようにありますが、心に残った一つのエピソードを紹介して終りにしましょう。
「『伊藤は私の夕食用に鶏一羽を買って来た。ところが一時間後に彼がそれを絞め殺そうとしたとき、持ち主の女がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来て、自分がその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るのは忍びない、と言うのだった』 その鶏は、卵を産むことで一家に貢献してくれた彼女の家族だったのだ」
(紙魚)
●ヤングアダルト的本棚
『ルチアさん』 高楼方子 フレーベル館
『パスカルの恋』 駒井れん 朝日新聞社
今月は、深まる秋にぴったりの静かで、やさしく心におりてくる作品をふたつ紹介。
『ルチアさん』は、その名のとおり、たそがれ屋敷にお手伝いにきたルチアさんと、お屋敷のふたりの姉妹の物語。ルチアさんは、ちょっと変わったお手伝いで、お屋敷の幼い姉妹には、ルチアさんが、ぼうっと青く光って見えた。でも、他の人には、そんなふうには、見えないらしい。その秘密を知りたくてしかたなくなった姉妹は、ルチアさんの後をつけるという思いきった行動にでる。それは、一度もお屋敷の外に出たことがないふたりにとっては、大冒険。その時、出会ったルチアさんの娘さんと取引して、なんとかルチアさんの秘密を目撃することができたのだが……。
ここまで書くと、ミステリー仕立てのお話みたいだが、この物語の魅力は、謎解きにあるのではない。それよりも、この物語全体からたちあがってくる、まるでアンティーク家具がたくさん置いてある古道具屋にまぎれこんんだような、不思議な雰囲気にこそひきつけられる。静かで、たんたんとして、それでいてととのった文章の中にきらり、きらりと光ものがまじっていて、読後、気持ちがあたたかくなっている。出久根育のさし絵もぴったりで、装丁もきれい。
『パスカルの恋』は、朝日新人文学賞受賞作で、駒井れんこと、石井睦美の初の恋愛小説。これも、ごく静かな小説で、ストーリーに起伏はほとんどない。主人公のわたしは、好きな人とじっと待つだけの、不安定な恋愛をしている。体の関係もあり、もっとずうずうしくなってもいいはずなのに、わたしは、そうはしない。好きだと言ってしまうだけで、この関係がこわれてしまうのではないかと思うほどの臆病さで、つきあいを続けてる。抱き合っても、いっしょにいても、うちとけないうすい膜のようなものを相手の藤沢さんに感じるからだ。
こんな主人公の心は、たよりなさすぎて、理解できないっていう人もいるだろう。藤沢さんだって、きざで、自分勝手で、実にずるい男だ。もし、友だちがこんな恋愛をしていたら、絶対に別れなさいって忠告するだろう。
ただ、恋愛というものは、人の心をこんなふうに鋭敏にするものだし、愚かにもするものだ。傷つくのがこわいくせに、自分の感情に正直でごまかすことができない、不器用なふたりの気持ちは、ピュアに胸にひびいてくる。心の奥の繊細で一番傷つきやすく、あまり人に見せたくない部分を、やさしくさすってくれるような、そんな作品なのだ。
今回のどちらの物語も、読む人を選ぶ作品だと思う。ストーリーそのものよりも、行間にただずんでいる思いをすくいあげて感じてほしい。(赤羽)