●『蝉しぐれ』 藤沢周平 文春文庫
藤沢周平の最高峰ではなかろうか。以前から藤沢周平は好きで何冊か読んだが、『ささやく河』の切なさに気が滅入って遠のいていた。古本屋で「よろずや平四郎活人剣」をふと買って、あまりのおもしろさに、また藤沢周平を読みはじめた。そして出会ったのが『蝉しぐれ』。うーん。いいですねえ。
理不尽に切腹させられた父の死を契機に、少年の平穏な暮らしはがらがらと崩れる。純朴な若者たちの友情、哀切な恋。主人公は剣の修行に没頭して自分を鍛錬し、過酷な運命を逆転させる。一気に最後まで読ませる緊張感のあるストーリー展開だ。
読後、懸命に誠実に生きた主人公の人生がしっかりと伝わってくる。こんな小説はめったにないと思う。文句なしの名作。藤沢周平は詩人だなあと思った。(紙魚)
●ヤングアダルト的本棚
『博士の愛した数式』 小川洋子 新潮社
ずっとずっと数学が嫌いだった。理数系という部分がわたしの頭からぬけおちていると思うくらい。そんなわたしに、「数学も、なかなかいいじゃない」って思わせる奇跡的な本があった。もちろん、学術書ではない。なので、今月は、これを紹介。
『博士の愛した数式』にでてくる博士は、事故のため、記憶が80分しかもたない。事故以前の記憶は、しっかりしているが、それ以後は、けっして80分以上、おぼえられないのだ。だから、普通の人間関係も築けない。だから、家政婦もいつかない状態。
そんな博士だが、数学の美しさを語るにかけては、ひいでていた。そして、子どもという存在を無条件に愛した。家政婦になった「わたし」の息子を、ルートと呼び、それはそれは、かわいがったのだった。
とにかく、記憶がもたないという設定がせつない。博士とわたしとの間に、どんなにかよいあった瞬間があっても、それは、次の日には消えてしまうのだ。
そのありえないような、せつなさを、小川洋子は、ノンフィクションかと思うほどのリアリティある、巧みな描写で読ませてくれる。純粋に人間同士として慈しみ、博士のプライドを尊重し、友情を深めていく、さまざまなエピソードは、胸をキュンとしめつける。、数学の知識もちりばめられているが、わかりやすく美しいので、ストーリーもそこねることなく、さらに盛り上げてくれている。
完全数28の背番号をもつ、かつての阪神の江夏投手を、博士は、こよなく愛していた。博士の頭の中で、江夏はいつまでも日本一早い球をなげる投手なのだ。
博士の頭の中に彫刻のように刻まれた記憶は変わらないし、だれも変えられない。
時の流れの残酷さと、記憶のあったかさを、同時につたえてくれる、希有な物語だ。(赤羽)