●『今からでは遅すぎる』 A.A.ミルン 石井桃子訳 岩波書店
「クマのプーさん」の作者ミルンの自伝。ユーモアとウィットに満ちた文章で自分の半生を語っています。善良で勤勉な父親に可愛がられ、まさにナイスな兄のケンといい意味で競争しながら育ったミルンは優れた能力も持ち合わせていました。じつに幸福で幸運な人だったのだと思います。
才気溢れる彼が劇作家として脂乗り切った時期に、幼い息子をみていて巧まなくも生まれたのが「クマのプーさん」でした。けれど「クマのプーさん」の大成功によって、ミルンは「お子さま向け」というレッテルから逃れなくなってしまいました。それは作家としての彼にとって深い痛恨事となったのです。
訳者の石井桃子は90歳から5年がかりでこの本を翻訳しました。その理由を、どうしてミルンはプーたちを創りだした時、そのような境地にいることができたのか?それが知りたいところだったと後書きで述べています。そして、ミルンは幼い息子を見ながら、自分の楽しかった子供時代を生き返し、喜びをもって書かずにはおれなかったのだろう、と書いています。
おそらく、幼い子どものための文学は、喜びをもって書かずにはおれない人が書いたものが子どもたちに愛され、残るのだ、と思ったことでした。(紙魚)
●ヤングアダルト的本棚
『図書館の神さま』 瀬尾まいこ マガジンハウス
ふりかえってみると、小中学校というものは、わたしに会わなかったと思う。なんか、いつも無理していたような気がするからだ。でも、学校からみると、わたしは大変扱いやすい、できのよい生徒だったにちがいない。学校という枠にきちんと納まり、ルールを守り、それなりに明るくもふるまっていた。でも、教室の中のそういうわたしをさめた目で見つめるもうひとりのいじわるなわたしがいつも心の中にいた。そいつは、ニヤニヤしながら、「なにいい子ぶってるんだよ」とか、「愛想笑いなんてやめろよ」とか、「こんな授業たいくつだっていっちまえ」とささやき、ざわざわとわたしの気持ちをみだしていた。もしかしたら、そっちが本当のわたしだったかもしれない。でも、変り者のレッテルをはられる度胸もいくじもなかった気の弱いわたしは、それらの声を無視して、ただただ、輪の中で笑っていたように思う。
もし、その声どおりに行動したら、違った景色が見えていたのかなってときどき思う。もちろん、時はまきもどせないから、そんなことできない。それをうめあわせる方法のひとつとして、わたしは文章なんて書いているのかもしれない。
ということで、今月は、学校を舞台にした学校らしからぬ作品を紹介。
『図書館の神様』の私は、高校の国語講師。中学高校と、清く正しくバレーボールにうちこんできたが、キャプテンをしていた高校三年の夏のひとつの事件から、バレーボールができなくなり、なげやりな生活を送るようになる。そのわたしが、ひょんなことから高校の文芸部の顧問になり、たったひとりの文芸部員の垣内くんと一年をすごす話である。
普通学園ものだと、先生が生徒に影響をあたえるのだが、この作品は逆。わがままばかりいってるのは、新米講師の先生のほうであって、垣内くんは、今時、こんないい生徒いるか?と、現実の高校生の娘をもつ母としてはつっこみたくなるほど、落ち着いたできた子だ。垣内くんだけでなく、弟の拓実とか不倫あいての浅見さんとか、わたしの回りの登場人物はことごとくいい人。悪い人がひとりもでてこないのだ。だからといって、ありきたいな話ではない。作者のちょっとずれた視点が、心をくすぐり、読みおわったあとふっと気持ちが楽になるストーリーだ。
作品の中で、垣内くんが、「面白くなろう、楽しくしよう。そう思ってるんだけど、そう思えば思うほど、ぼくはだんだんつまらない人になってしまう」と、語っているが、わたしの作品づくりにも通じるなっと、思わず苦笑してしまった。 (赤羽)