第二話 融けたり凍ったり
高林 潤子
「こ、これは失礼」
義人はあわてて、少しでも温度を下げようと、手をひらひらと振った。
そうだ。何気なく手を触れてしまったが、今の自分の体温は、ニューヨークヤンキースの松井の背番号並みの数値なのだ。普通の人なら、お風呂の温度だって四十度前後ってところだ。それが五十五度を超えてるわけで。
義人はあらためて、今の状況に驚いた。
女は、恐ろしいものを見るような目つきで、義人を見つめている。
「イヤ、実は今朝からはなはだしく発熱中でして・・・。体温が考えられないほどとんでもない上昇をしておるというか、人間離れした状態になってしまったというか・・・」
信じてもらえそうにないが、必死で言い訳をする。ますます熱があがりそうだ。
しどろもどろの言い訳だったが、女のまなざしから、険しさが消えた。
「まあ、なんてことでしょう。人間離れだなんて、お気の毒に。それですっぽんぽんでいらっしゃったんですのね。とにかく山小屋へ戻りましょう」
女はやさしい口調で、しかしながら、義人とは微妙な距離をきっちり保って歩き出した。はらりと白いほほにかかる、ひとすじの黒髪がくっきりと美しい。
とんでもない体温のおかげで、歩きにくい雪道、手をとって歩けないのは、ちょっと残念だが、なんだか、それをおぎなっておつりの来そうな展開だ。
義人は女に近づきすぎないように気遣いながら、山小屋へ向かった。
先週別れたばかりの恋人、ユキのことをちらりと思い出す。
寒がりで甘えん坊のユキは、いつも義人の腕に、子猫のように擦り寄っていたっけ。
それに比べて、この謎の女との距離感は、なんとも新鮮。
しかもユキよりずっと美人だ。
女は吹き付ける雪にも平気な顔で、義人と目が合うと、やさしくほほえんだ。
ユキに失恋して凍りついていた心が、ゆっくり融けていく。
「そこ、吹き溜まりですわよ」
女の声に、足元を見たが、遅かった。義人はすっぽりと新雪に埋もれてしまった。もがいて何とか出した頭をぶるんと振ったら、鼻の穴から雪が飛び出した。
女は無邪気に笑いながら、義人に向かって、着物のたもとを差し出した。これにつかまってということなのだろう。
「破れたらたいへんですよ」
そう言って、地上にはいずり出てきた義人も、笑いがこみ上げてきた。
雪だるまのようななりだったが、気持ちが良くて楽しくて、義人も久しぶりに大声で笑っていた。
「えーと、暖房は・・・」
「けっこうですわ」
「あっつい日本茶でも・・・」
「けっこうですわ」
山小屋に着くと、義人は女をもてなそうと思ったが、どうも勝手が違う。義人自身も、暖房や熱いお茶は気が進まなかったから、女が断ってくれてよかったのだけど。
「そうそう、何か冷たい飲み物があったかも」
冷蔵庫をのぞいて、義人はペットボトルに入った青汁をみつけた。
以前、ユキが買っておいていったものだった。
「体にいいんだから飲んでね」
そう言って笑ったユキ。
ユキのことを思い出して、義人は急に落ち込んだ。だいたい、落ち込んだのが原因で、この山小屋にこもっていたのだ。
「トホホホ・・・」
手の中の冷たい青汁が、どんどんぬるくなっていく。
また体温が上がってきたのかもしれない。
そのとき、はらはらと雪が舞い降りてきた。
「ん? 家の中で雪?」
顔を上げると、目の前に女が立っていた。
「大丈夫ですの?」
心配そうに義人の目をのぞきこんだ。
窓もドアも閉まっていたが、家の中はすっかり雪と氷の世界に変身していた。
第三話に続く