ももたろうリレー童話・第二作

『雪女と発熱男』

第四回 触れあえないけど

水科 舞                               


 義人は、なみなみと泡だったジョッキのビールを、ぐっと一気にのどに流しこんだ。ビールは、しゅうしゅうと水蒸気を上げ、泡を激しくはじけさせながら、あっという間にあたたかい液体となって胃袋へ落ちていった。
 体温55度の身体が感じる味覚は、普通の人間とは違う。ビールも義人にとってはもうビールではない。あのさわやかなのどごしが懐かしかった。
「おいしい?」
 義人がジョッキをながめるげっそりした表情を見て、女は可笑しそうに笑った。
 固くて冷たく美しい表情が、笑うとふっとやわらかくなる。その雰囲気に、助けられるようにして、義人はぽつりと言った。
「俺、病気なんですかねえ……。それとも、もう人間じゃなくなっちゃったのかな」
 人間じゃなさそうなこの女相手なら、こんな話も普通にできた。
「あら、どうして?」
 問い返す女の目は相変わらず三日月型に笑っている。
「だって、体温55度なんて、普通の人間じゃありえないですよ。さっきよりもっと上がっている気もする。このままいったら、どうなっちまうのか……」
 つい愚痴めいた言葉になる。とはいえ、言葉とは裏腹に、義人はなんとなくうきうきしたものを感じていた。
「何より、この体温じゃ、あなたの手に触ることもできない……」
 甘えるように言って、ちらりと女の反応を見る。
 と、女はにっこりして言った。
「あら、よかったんじゃないかしら。あなたがもし普通の体温の人だったら、今頃もうとっくに凍死していたわよ」
 甘い期待はどこかに吹き飛んで、義人はがっくりした。
「やっぱり俺を凍死させるつもりだったんだな……」
 やはり女の微笑みなんか信用するもんじゃない。女は魔物だ。
 でも、女の顔から無邪気さは消えなかった。
「違うわよ。そんなつもりはないの。本当にね。でもね、結果としてわたしが触れれば、そうなってしまうのよ」
「じゃあ、なんで俺に構うんだ? 俺を凍死させることはできないぞ!」
 義人はヤケクソのように言った。
「あら、だって、こんな山の中で一人きりは、寂しいわ」
 その言葉には、女の真情がこもっていた。義人は胸をつかれて、思わずまじまじと彼女の顔を見た。女は変わらず、どこか透明な微笑みを口元に浮かべていたが、その顔は少し寂しそうに見えた。
「あなたの気持ちはわかるわ。実はわたしの境遇も、あなたと似ているの。わたしも、昔は普通の人間だったのよ。ところがね、ある日いきなりひどく体温が低くなってしまって……今ではこんな感じ。触るものすべてが凍ってしまうので、町中では暮らせないの。だから、人目を避けて、こんな山の中で暮らしているのよ」
「ど、どれくらい?」
「ざっと百年ぐらいかしら」
「ひゃ、百年!」
 義人は床に倒れこんでしまった。床に張っている氷が、あっという間に水になり、みるみる乾く。
 彼女に起こっていることが自分にも起こっているとして、まったくもって人間ではなくなっているとしかいえない。
 さっきとは違う意味で、義人はゾッとした。もう人間社会には帰れないんだろうか? このままひとり、雪山にひとり……。
 いや、彼女と違って、体温が高い自分には、雪山よりもボルネオの熱帯雨林かゴビ砂漠のほうがふさわしいのかもしれない。
「だって、着るものや食べるものはどうしてるんだ?」
「冬になると山から下りて、暖房の調子が悪い店でちょっと目くらましをかけて、買い物するのよ」
 常識を超えた存在になって百年もたてば、妖怪じみた力も自然に身につくのかもしれない。
 でも、そんなことより義人にはききたいことがあった。
「それで、そうなった理由に心当たりはあるのか?」
「ずっと考えていたんだけど……」
 女が目を伏せると、黒くて長いまつげが、まぶたのふちの美しい曲線をふちどった。こんなときだというのに、
(キレイだな)
と義人は思った。
「きっかけがあるとすれば、好きな人とケンカ別れしたことかしら」
 ぎくり。心当たりのある言葉に、義人の肝は冷えた。
 まあ、冷えたといっても体温55度が50度になったくらいだろうけれど。
「おまえは心の冷たい女だ、と言われたの。そんなに冷たい女なら、雪の山へでも行ってしまえ、とも言われたわ。もしかしたらあの時、わたしは呪いをかけられたのかもしれないわねえ」
 どこかで聞いたような話に、義人は青くなった。これは、恋人のユキと別れた自分の話そっくりではないか。
 ということは、自分にはユキの呪いがかかっているのか?
 というか、ホラー映画じゃあるまいし、呪いって何?
 このままいくと自分は、たまに出会う人間から石を投げられる、ドラキュラだかフランケンシュタインだか、山に住む妖怪だかになってしまいそうだった。
(でも……)
 義人は女を見た。女もまっすぐに義人を見つめ返した。
 こんなふうに思いをこめて、まっすぐにユキの目を見つめたこと、最近はなかったような気がする。
(この人とふたりなら、なんとかなるかもしれない。たとえ、決して触れあえないとしても)
「あの……君、名前は?」
 まだ彼女の名前を聞いていなかったことに気づいて、義人は尋ねた。
「……白雪、です」
「しらゆき。キレイな名前だね」
 ユキには絶対言わなかったようなセリフを言って、義人はひとり赤面した。
 きれいな名前だけど、どこかはかない響きもある……。
 と、義人は何か不気味な気配を感じた。地震だろうか?
 空気が、凍りついた山小屋が振動している。何かの響きのようなものが聞こえる。
(なにか、ヤバイぞ)
と意識がくっきりするのと、ゴオッという響きが大きくなるのがほとんど同時だった。
(空から、何かが降ってくる!?)
 それが、最後に義人が考えたことだった。
 ド――――ン!
 衝撃を受けた次の瞬間、目の前の光景が吹っ飛んだ。頭をゴンと何かにぶつける感覚がして、義人の意識は真っ暗な中へ落ちていった。


                                                                             

第5話に続く