禅のあれこれ No.100

                        一人坐禅のすすめ


 私が早朝の午前四時過ぎから 仏間で一人坐禅を始めたのは 2020年3月になって

我が国にも コロナが流行りだした頃でした。 最初は毎日ではなく 気が向いた朝に坐

していました。

そのうち 3月28日からは『 しばらくの間 毎朝坐ろう 』と心に決め 早朝一人坐禅を

続けようと決めました。 本日は 2021年5月1日 ですから 開始初日から起算して

一年一月と五日毎日 一人坐禅を続けられました。

始めた頃は こんなに長く続けられるとは 考えてもいませんでした。理由で思いつくのは

コロナ過で自粛自粛自粛が続いたこと 私が古希を過ぎて高齢であること 七十を過ぎて

からは終活と考え なるべく人脈を整理していってたこと。

他にも 自身が参加している多くの坐禅会が休会となったこと。 更に親しくしていた和尚

が 突然遷化されてしまったこと等があったのでしょう。


一 どんなところで 坐っているか

私が一人坐禅をしている 仏間の配置は以下の通りである。




   因みに 我が家の宗派は 浄土宗系の一派であります。ですから 仏壇の

   本尊は 阿弥陀如来です。釈迦如来ではありません。



二 坐禅に どんなものを使用しているか

   仏壇には ほのかに灯っている 豆球燈がついています。もちろんですが

   お線香は使用します。 時計代わりに絶対必要ですからね。 始めた頃は

   まだお線香がなかなか燃え尽きないと 思ったりしていましたが 最近では

   どちらか言うと 自分が知らないうちに 線香が燃え尽きることが結構多く

   なりました。

   座布団は 長座布団を使用しています。 僧堂の坐禅に 参加する時にも

   使用していました。 僧堂の座蒲と比べて 一回り小さいのですが 寝る時を

   除くと 修行僧と同じように 使用でき 持ち運びが軽いからです。

   印鐘の代わりに 鈴を使用したり 柝(母親が火の用心廻りをライフワーク

   としていたため 拍子木が大中小とあり 休日昼間に坐す時等は 使用する

   こともあります。


三 どんな服装で坐るか

   寝巻の上に 作務衣を着てから坐るようにしています。 年をとったためか

   寒さにめっきり弱くなった関係からか 昨年末の年末ごろに 腕肩にですが

   痺れが出る様になり神経痛かと思い 困った末に 寒い時には無理は止め

   ようと 加齢のためと割り切って エアコン暖房を入れる様にしました。 笑


四 どういう坐り方をしているか

   最初の頃と 今とは坐り方は 変えてしまいました。

   最初は脚は半跏趺坐で 手は又手もしくは 法界定印で坐っていましたが

   今では 脚は結跏趺坐で 必ず坐ります。はっきり言って 坐っている時の

   安定感が断然違うからです。

   そして 手は必ずしも又手や法界定印としないで 坐ることが多くなりました。

   詳しくは後述します。


五 坐禅はするのは 何のため

   私は臨済の修行僧の様に 公案を拈提するのは・・・私には能力が・・・ない

   それと私は公案の拈提というより どちらか言うとその学問的追求が好きで

   大学やサークルの研究会で のびのびとお互い自由に 討論する方を優先

   していますからね。



○ 一人坐禅 私の昔からの軌跡

   私自身でであるが 最初は本格的に一人坐禅することは 滅多になかった。

   しかし仕事がハードな頃に 酷い眼精疲労を経験した時 寺に行って坐禅を

   しようと思い立ち 早朝に建仁寺の本坊の小書院で 一人坐禅をしたりして

   いました。しかし それは毎週一回とか 月に二、三度ほどのものでした。

   それでも 今となって 建仁寺での一人坐禅 また 興聖寺の本堂(坐禅堂)

   の一人坐禅も 色々と思い出が一杯であって 忘れることは出来ません。

   専門道場である僧堂の禅堂でも 海清僧堂などでは 一人坐禅をしたことが

   あります。 でも何故か京都の僧堂の禅堂では 一度も経験がありません。

   その後仕事が忙しいのと 参加する坐禅会が複数ある影響から 積極的に

   一人坐禅をする気力が 次第となくなっていったのでした。






コロナ過 パンデミック後 気づいた事

再び 一人坐禅に


   2020年に世界を襲った Covid−19の猛威は私を再び 一人坐禅の道へ

   向かわせてくれました。

   これから 一人坐禅が どうして素晴らしいかを 述べてみたいと思います。


○ 坐禅中の雑念がなくなる 少なくなる

 一 人・ひと・人間


   坐禅中の雑念の 最大のものは 『 人 』 「 ひと 」 〈 人間 〉 即ち

   その坐禅に参加している 自分以外の坐禅者であろうと思う。実はこれは

   私の体験であって 全く気にならない人もあるかもしれない。

   例えば坐禅会に参加すると 何のことはない 実際一番の雑念は 向かい

   側に坐っている数人の坐禅者達と 両隣りに坐っている参加者の二人では

   なかろうか。

   もっとも 対面者が五メートル程離れているとか 隣の方が二メートルほど

   離れてさえいれば 確かに幾分問題は 小さくなるかもしれないが 通常の

   坐禅会の場合は それだけの距離を保つ設定は かなり難しいといえる。

   何処の通常専門道場の禅堂でも 修行僧が多くない場合は 単を一つは

   開けて坐っているではないか。


   更に多くの場合は 坐禅中に警策を持った 直日が坐っている前を通る。

   弱い人間の一人である私は この直日が自分の前を通るのが気になる。

   私自身は 坐禅を始めた頃は 警策を受けるのがなぜか嬉しくて いつも

   直日の警策を有難く受けていた。しかしである 長く経験して来ると三時間

   以上の長時間の坐禅会でない限りは 出来れば 警策はいらないと思う。


   そう思ってくると 『 一人坐禅 』が 一番となる。



 二 坐る場所  禅堂・方丈・書院等々

   専門道場の禅堂は 坐禅者である修行僧の坐る場所は固定されている。

   しかし坐禅会は 何となく決まっている場合も時にはあるが 参加するとは

   限らないため あるいは参加者が多数のため 坐る場所は 先着順となり

   決まっていない場合が ほとんどである。

   そのため 同じ場所に坐るため かなり早く 坐確保のため来られる方も

   どの坐禅会でも 相当数おられる。

   逆に言えば 相当数の方が 早く来られると言うのは やはり いつも自分

   が坐る同じ場所に坐すのが 一番と思っている居士の方が そもそも多い

   と言える。 そう言いつつ 私も実は早く行って 同じ場所を確保したい部類

   にはいっている。 ただ五十人を超える様な多人数の場合は わりと気まま

   に参加することとしている。

   :つまり言えば やはり普通の人間は 出来れば同じ場所に坐る方が 落ち

   着いて坐れるのであり 違う場所に坐るとなると 結構ストレスが生じるのだ。


   これも 『 一人坐禅 』ならば そもそも 生じないストレスといえるでしょう。

   私は今では 仏間で仏壇と向かい合って 坐る場が本当に 有難く思える様

   になってきました。


三 坐禅会後の帰りのこと
                  食事・飲み会・買い物・散歩


   当たり前のお話ですが 坐禅会に参加するとなると 坐禅会が終ると 帰る

   ことになる。 実はその『 帰る 』という事実が雑念の一つとなります。

   具体的に言うと 人は弱い動物であるから どうしても次の様な雑念が頭を

   よぎったり 浮かんだりするんです。

   知り合いの参加者と 終ったら食事に行こうかと考えたり 軽く一杯飲もう

   と思ったりする。

   或いは 一人で百貨店に行って買い物しようと考えたり 行きつけの商店街

   にあるお店に行こうと 考えたりするのです。


四 止観・阿字観・坐禅・ヨガ・マイドフルネス 等etc.

   禅宗は坐禅といい 同じ様なものに 天台宗は止観 真言宗には阿字観が

   ある。 そして もっと動的なものとして ヨガがあり チベットで古くからある

   五体投地がある。 更にアメリカ生れの マインドフルネスというものもある。

   これは 静的な場合も 動的な場合もある。

   狭い範囲で比較して 同じ禅宗の臨済宗と曹洞宗とでも 坐禅の坐り方や

   坐禅の流れは それなりに違う。


   さて 一人坐禅の場合は 自分一人でするのだから どんな坐り方をしても

   お咎めはないのである。 

   私は一人坐禅を始めた 2020年の春から三か月程くらいは 臨済禅での

   普通の坐り方でした。

   しかしながら 晩夏になった頃から 改めて坐禅の仕方を もう一度考え直

   しました。  しかしながら考えるよりも 実践することによって その回答が

   得られるのではと 結論した。

   最初は曹洞禅の 面壁で 法界定印の坐禅で試し その後はネットで 取得

   した知識にたよって 止観のつもりで 次は京都の真言宗智積院で 何度か

   学んだ 阿字観を実践した。 因みにこの阿字観も 古代と近代ではかなり

   違うのだが・・・  さらに ヨガ それも静的な 自我流のヨガで試みた。又

   チベットの激しく動的な 五体投地は 他のものと違って 四十分も出来ない

   ので別の時間帯に 試みてみた。それにしても 日本人で この五体投地を

   経験したことのある人は 百人もいるのだろうか・・・  まぁ 動的なヨガには

   似たような 動きがあるが・・・  あんなに何度も何度もはしないだろう。

   そして 十日間のうちに いろいろ試みた結果 私の場合は 坐禅として次の

   ような 坐り方にすることを決めました。


   ☆ 服装は 作務衣

   ☆ 仏壇の前にすわる   その距離は二メートル

   ☆ 面壁ではなく 仏壇と相対して坐す

   ☆ 長座布団を使用して 臨済宗と同じ使用法で坐す

   ☆ 必ず 結跏趺坐で坐る

   ☆ 部屋の暗さは 豆球と お線香の灯り

   ☆ 手であるが もともとは 主として又手 時折は法界定印で 坐っていま

     したが 今では 手は自由にしています。 自由にしているとは 動かして

     いる訳ではありません。

     そもそも 脚は歩いている時以外は 静である。一方 手は脚とは違って

     飯を食ったり 顔を洗ったり トイレに行ったり 文字を書いたり などなど

     たいていは 何かをしている。

     そう考えたので 手は法界定印 又手でもよいが 他に固定させても 又

     自分の背中で 両手を組み合わせたりもしている。それだけでなく 私は

     動かせても良しとしているのである。

   ☆ 流れはこうだ  入場 → 仏壇前で線香を灯す → 電気のスイッチを

     切る → 坐す (一本線香時間 35分くらい) → 終了


五 坐して 只管打坐 公案を拈提 気づき ・・・ 雑念

   一人坐禅をしていて 道元禅師の様に 只管打坐で坐れれば きっと素晴ら

   しいでしょうが 凡夫の私には とても無理なことで・・・・・笑   それならば

   公案を拈提するほうが まだ出来るかな。そんなことで 私は逆に坐す時は

   色々と 頭に浮かぶことを 素直に 考えることにする様になりました。

   言えば 『 気づき 』ですね。 マインドフルネスに近いかもしれないが・・・

   でも時折 公案の『 南泉残猫 』を拈提をしたりもする・・・