☆13 菩提達磨から六祖慧能までの系図


菩提達磨から 慧能まで


前回の7 その一では 釈迦から達磨までの法系と書きつつも

実際は 六祖慧能まで書きました。 具体的には 菩提達磨を禅宗初祖として

1 菩提達磨 2 慧可 3 僧さん 4 道信 5 弘忍 6 慧能

三祖僧さん の[さん]はどうもwebの世界では漢字表示が危ないのでカナ表示です

漢字は 下図の赤の数字の3 三祖の鑑智大師を参照のこと

別の書き方で書くと 大師の呼称で書けば次の通りです。下図の左端の行に書かれている。

1 達磨大師 2 大祖大師 3 鑑智大師 4 大醫大師 5 大満大師 6 大鑑大師





禅宗の流れは 六祖慧能から 発展していくのであるが 菩提達磨から慧能までの間に
いくつかの 枝分かれが起こっている

☆牛頭宗  上図の左から二と三行目(以後常に左から この頁)の表示
   牛頭宗の読み方は ごずしゅう。 五祖弘忍門下の法持(635年 - 702年)を開祖で
  あるが 次の次の慧忠と鶴林玄素の二人の代に全盛を極め、荷沢宗に対抗する一派
  であった。
  一説には 自分達の達磨大師からの 法系の優位性を図るために 四祖である道信
  の法系にするため、牛頭宗の初祖に法融、二祖に智巌、三祖に慧方、四祖に実際の
  開祖と言われる法持、五祖に智威、そして六祖に慧忠言うようになった。
  
  しかし 法系図は 歴史の変遷と共に 常に書き換えられていると 断言する方も確か
  におられるようですし 大変難しいお話です。
  よって結局は 法系図も 勝者が作成した それが常に正当化され 敗者は記録から
  抹消されるものでもあるらしい。
  さて 実際はどうなんだろうと ・・・  全くわかりません。

☆ 道昭  上図の二行目に表示されている
    道昭(629-700)は653年に遣唐使として 長安で玄奘三蔵から 法相と唯識を
   学び、慧可からの系図の慧満から禅を学んだ。 帰国後、法興寺の東南隅に禅院
   を建てた。そして 道昭は願いによって 火葬にされたのである。
   しかし 当時の時代では 火葬と言うのは 大変な作業であったと考えられる。
   神秀の北宗禅は ここではふれません。

☆ 道せん 渡来僧  上図の五行目に表示されている
    道せん(702-760)は六祖慧能ではなくて ライバルの北宗禅 神秀の弟子 普寂
   に学び その後 主として戒律を伝えるため 日本に渡来して その弟子行表を
   通じて 天台宗を開いた 伝教大師最澄に伝わっている。

☆ 荷沢宗  上図の七行目に表示されている
    荷沢宗は かたくしゅう とよみます。
   神会は 神秀の後の弟子達の北宗が漸悟の考えと批判し、六祖慧能から受け継いだ
   頓悟が真の仏法である(南宗)と主張。 神会は荷沢寺で活躍したので荷沢宗という。
   荷沢宗は 政府のの保護を受け繁栄するが 神会が亡くなると勢力を失い 歴史から
   姿を消したのである。

☆ 青原行思  上図の八行目に表示されている
☆ 南嶽懐譲  上図の九行目に表示されている

   六祖慧能から見ると 孫弟子には有名な 石頭希遷と 馬祖道一が法系となっている
  ただ 石頭希遷の師である 青原行思   馬祖道一の師である 南嶽懐譲に関しては
  何故かそれ程 有名な方ではないのである。
  まぁ そんな事言えば 三祖の「僧さん」も 同じく有名ではない。 牛頭宗のところで
  書きましたが まさか 「法系図は 歴史の変遷と共に 常に書き換えられている」 と
  言うことは まさか無いとは 思っていますが・・・・・

  それでは 法系図は 次回は六祖慧能後の 青原行思、南嶽懐譲 から続けます



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