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☆52 日本禅宗史 栄西道元より昔 2 曹洞宗の瓦屋能光 天台僧のの覚阿 そして 大日房能忍 後編の今回は 瓦屋能光 覚阿 大日房能忍の三人についてふれます 今回も下記の 表07をご覧ください そして■■■に書かれている人名に ご注意ください 表07 ![]() ○瓦屋能光 洞山良价に参禅して嗣法 日本で曹洞宗と言えば 道元 と言うよりは 日本の禅宗史から見ても 最大のビッグネーム 曹洞宗を 中国に渡って師の如浄から 嗣法し曹洞宗を日本で布教した しかし 道元が嗣法したのが千二百二十五年ですが それよりも三百五十年以上前の 中国で あの曹洞宗の洞山良价に参禅して嗣法したというお話がある 事実であるとすれば 確かにこの瓦屋能光が 初めての日本人の禅僧となる だが平安時代に 長安ではなくて 遥か南の洞山に行ったのは 本当だとは考え難い 因みに 瓦屋能光は洞山良价からの嗣法後も日本には帰らず 中国で百六十三歳の超高齢で 没したという 一説によれば 瓦屋能光の出身寺は 滋賀県の瓦屋寺と言われているが 確かなものではない そんなことでか 流石のウィキペディアでも 『 瓦屋能光 』では ヒットしない もしも瓦屋能光に関して ご存知の方は ぜひウィキペディアに 「瓦屋能光」を書いてください ○覚阿 実際の日本で最初の印可を受けた禅僧 天台宗の僧 覚阿は禅を志し 千百七十一年に中国に渡り 後に日本の臨済宗の主流をなす 圜悟克勤の法嗣である虎丘紹隆(1077年-1136年)ではなく 圜悟克勤の法嗣 仏海慧遠に 参禅して印可を受けて嗣法し 日本に帰国した 1171年と言えば 栄西が二度目の入宗(1087年-1191年)で日本に臨済宗を伝えたのよりも 十年以上早い事となる 明らかに日本人で初めて嗣法した 最初の禅僧といえる 伝説的なお話としては 高倉天皇が禅とは何かを問うため 覚阿を宮中に召し出し 笛の一吹 で答えたという そして天皇が それを理解されなかったので 時期尚早と断じ 比叡山に 隠遁したと伝わっている 実際はどうなんであろうか 因みに 覚阿をクリック下されば ウィキペディアを閲覧出来ます そして その笛の話も記載されているが・・・ さて史実かどうか ○大日房能忍 能忍は今までの五人と比較すると それなりに知られているが 何故か生没年不詳である 比叡山の僧であったが 禅を勉学して摂津水田に三宝寺を建立し 禅道場を開いた達磨宗 と称した 難しいのは 能忍の禅は老師から嗣法したものではなく 独習したものであった 前編で触れたとおり 比叡山では開祖伝教大師が神秀の流れの 北宗禅を習得していたから 北宗禅に関するものは 結構揃っていたと考えられる ただ能忍は嗣法した師匠がいない事を鑑みて そのため千百八十九年に 能忍の弟子である 練中と勝弁の二人を宋に派遣した そして阿育王寺の拙庵徳光に 印可を貰うために 禅の見解を文書で提出し能忍の弟子に 自讃頂相などを与え印可を認めた この時印可を貰った老師が拙庵徳光であるが その師は有名な大慧宗果であり 覚阿の師匠 である仏海慧遠の兄弟弟子にあたる それにしても 拙庵徳光が印可を何故認めたのかは 正直なところ大きな疑問が残っている 通説では 海を渡って遠くの異国からやってきた事等に同情してとのことであるとなっている 拙庵徳光のような老師が そんな簡単に法嗣として認めるのであろうか 何か他にも理由が ある様に思えてならない 誰かが新たな研究によって 新しい事実が解明されるかもしれない 大日房能忍に関しては 上の能忍の名前をクリックすれば ウィキペディアが閲覧出来ます |