☆65 法嗣 法系 血脈

師から 弟子へ さて法嗣とは 如何なるかな これ


師匠と弟子と言えば 世界の 王貞治と荒川コーチ

では 仏教の世界では と言えば

まずは 弘法大師の空海と 師の 恵果

禅宗では 曹洞宗の承陽大師 道元禅師と 師の 如浄

浄土系では 親鸞聖人と 師の法然上人

すべて これらは歴史的に再考しても 二人の関係は正に 師と弟子の関係

といえましょう そして 仏教の中でも 禅宗は取分け この師と弟子の関係を

重視しています そしてその系譜と言うものが お釈迦様から続いていることに

なっております 禅宗なら 達磨大師からでも良い様な気がしますが 釈迦から

師弟子の関係は 続いて来ていることになっています

正確に言えば 達磨大師はお釈迦さまから 数えまして二十八代目です  但し

数え方は お釈迦様からではなくて 次の摩訶迦葉尊者から数えて二十八番目です

そして禅宗は達磨大師からと言われますが 有名な六祖慧能は 達磨大師を初祖とし

つまり一番目とし 六番目に当たるのが 慧能なんです


さて 法嗣とはその師匠から弟子へ 受け継がれていく系譜であるが 実際には

どんなものであろうか

現在通説となっているのは 我が国の臨済宗では 現在その法脈が残っているのは

中興の祖 白隠を輩出した流れを汲む 応燈関の系譜だけという ことになっている

これは 本当に正しいのだろうか


まずは 前の天龍寺派管長 集瑞軒 平田精耕老師(故人)の 平成2年発行で

季刊誌 『仏教 No10 特集=禅を究める』(法蔵館 発行) 「 白隠禅と現代 」

の中で 老師の天龍寺の法系を例にとって 次の様に述べられている

以下は その引用であります



『 ・・・ 例えば 天龍寺の法系を例にとった場合 儀山善来和尚(1800-1878)

瞶翁宗俊(出没年不詳)の法脈をも併せて 嗣いだことになっている 天龍寺に

伝わる法系図では 宗俊は聖一派に属する  聖一派の法源は もちろん

中国黄龍禅をもたらした 栄西明庵である

儀山は同時に 太元孜元の法嗣であるから これは中国楊岐派の禅を相承し

応燈関から 白隠慧鶴へと連なる一派に属している  いわば儀山の代で

白隠禅と聖一派の禅が一つに合体したことになる ・・・・・ 』

                             引用終


さて上記 聖一派の法源は もちろん中国黄龍禅をもたらした 栄西明庵である

とあるが 勿論 円爾は中国に渡って 楊岐派の大物 無準師範の法嗣として

日本に帰ってきている

しかし 東福寺の円爾は 『 元亨釈書 』によれば 栄西は弟子の長楽栄朝に

禅門大戒の図( 血脈 )を授与し 栄朝はまた これを円爾に 授与したという

その観点からは 明らかに 円爾は 黄龍派の 栄西からの 血脈もあると言える

これは どの様に解釈するのが 正しいのであろうか

また血脈ではないが 菩薩戒という観点から見れば 栄西から 弟子明全へ そして

明全から 弟子の道元へ  さらに道元から 弟子 妙光寺開山の 覚心に 授け

られている  これも歴史の 面白さであろうか





次に 禅文化研究所発行の 『明治の禅匠』(禅文化58号の再掲) のなかで

鹿王院の吹田独秀住職が 「独山和尚の足あと」の中で 次の様に述べられて

いる  以下は その引用であります



『 峩山は・・・・・ 重態をおして印可証明を揮毫して与えた そして戒めて 「十年

くらいは仏法を説いたりせず なおこの上に悟後の修行に努め 他日はお前が

何処かの本山に迎えられた時 晋山式の折初めて発表せよ それまでは決して

他に漏らすな」と固くいましめた ・・・途中略・・・ かくて三十二歳にして

峩山の姓を継いで 橋本独山とした ・・・途中略・・・ その頃 滴水の法を嗣いでいる

龍淵が 衣笠功運院にいた ・・・途中略・・・ 龍淵の室に入って参禅した

かくて龍淵からも 印可を得たのであった 』

                             引用終


龍淵は耕雲軒 高木龍淵老師のことであり 峩山は息耕軒 橋本峩山老師であり

二人は 兄弟弟子の関係であって 師はあの有名な 由理滴水である

すなわち これが事実とすれは 独山は 同じ流れの法を重複して 引き継いだ

こととなる

正直なはなし 法系と言うのは 本人が話さない限り また語らない

限りにおいて ほとんど第三者からは 見えないものとなっているようだ

そして 橋本独山は 師の橋本峩山の居た 天龍寺ではなく 歴史の流れで

相国寺派の師家 そして管長となったのである 現在の相国寺派の流れは

橋本独山老師の法系であるといえる



そして 『 栄西禅師と臨済宗 』(平野宗浄 加藤正俊編 吉川弘文館 昭和60年

発行)のなかでは その編者で 瑞巌僧堂の僧堂師家も経験され また花園大学の

学長もされた 故 平野宗浄老師が 次の様に述べられている

以下はその引用である


『 筆者は最近 松島瑞巌寺先々代住職 盤龍禅礎が その法嗣承天宗杲にあたえた

印可状を拝見する機会を得た その印可状の文の上に 「仏心宗相承戒」 として

釈尊から伝わった戒脈を 代々伝えた祖師の名を連ねて 印可を受ける本人にまで

至っている そしてこれは楊岐派 すなわち正法を伝える大応(南浦紹明) 大燈の

法脈ではなく 黄龍派の栄西から伝わった戒脈を 記述してある

筆者の法系である 天竜寺の滴水下の印可状も 栄西からの戒脈をやはり記述して

あるが この場合 大応・大燈を受ける正法の法脈が 並列しており 儀山善来で

一つになっている  しかしこの独薗下の印可状には 栄西からの戒脈のみを書いて

いるのである これはいったいどういうことなのか これらの印可状を見る限り

儀山善来の頃までは 果して戒脈をどうしていたかが疑問になる すなわち 大応

は入宋して虚堂から戒を受けなかったのか それはまったくわからないが 昔の人

は比叡山で大乗戒を受けているので それほど気にしなかったのか ともあれ

千八百年代に日本の臨済禅 なかんずく白隠下において 一種の戒律復興運動の

ようなものがあったと考えてよい ・・・ 以下 省略 ・・・ 』

                                引用終

因みに 荻野独園老師は 明治の初めの頃 天龍寺の由利滴水と共に 臨済宗

いや 廃仏棄釈で 佛教界全体が 苦しい時代に 政府との交渉にあたった

功労者の一人でもある



更に 臨済宗黄龍派であるが 建仁寺派の本山の塔頭である 両足院が

両足院の開山 龍山徳見禅師600年遠忌の時に 二十二世住職の 泰宗東慎住職

が 記念誌として『黄龍遺韻(両足院六百年史)』を 昭和三十二年に発行し

その中で次のように述べられている  記念誌より 一部抜粋

『 初め禅師は兜率寺に入寺し 陞座祝聖のついで 寂庵上昭に法乳の香をたいて

黄龍派であることを表明された 行状によると 入元以前の二十二才のとき 印可が

授けられていて少し早いようなにも思われる それに入元後 参禅入室して 公案を

透過されている事実があり 中国で道力を深められた事は否めない それらの法恩を

凡て寂庵上昭に帰して 黄龍派を挙揚しようと 努力された熱意が伺われる ・・以下省略・』


                                    以上抜粋


この龍山禅師は 中国になんと 四十五年も滞在された後 禅師の六十六歳の時に

日本に帰られたという 他には例を見ない 禅師である

即ち 龍山徳見は 虚庵懐敞 → 栄西 → 釈円栄朝 → 蔵叟朗誉 → 寂庵上昭

と嗣がれている 法系を 龍山徳見が 嗣いでいることを宣言したというのである


今でこそ 一つの僧堂にしかいない方が多くなってしまったが 考えると 昔は

確かに 老僧行脚する僧が 圧倒的に多かったのではないかと考えられる

すると 単純な考えではあるが 何人もの老師から 印可状を貰った 行脚僧が

相当数いたとしても 不思議なことではなく 自然の成り行きであったと思われる

考えるに この弟子と師匠の関係は 歴史的には 弟子が自ら『 私の師匠は

○○であって 私はその法嗣である』 と宣言して 確定すると言えるのだろうか

そもそも仏教そのものが 縁そして 縁起を大切にし それにより成り立っている

そう考えれば 定説とされている 応燈関から白隠慧鶴の一派しか 現在の法系は

無くなったと断言することは 私の浅知恵では 躊躇せざるを得ないのである






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