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☆78 白隠慧鶴禅師の生涯 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原) 長沢家の三男として生まれる 1685年10月25日 に生まれ 名前を岩次郎といった 原は東海道の宿場町のひとつ 白隠は十五歳のとき 単嶺和尚の松蔭寺で出家し 慧鶴と名付けられた その後 十九才となって 清水の禅叢寺の僧堂に入った後は 二十才で 美濃桧の 瑞雲寺に行って 馬翁和尚に師事して 漢詩文等も学んだ 翌年二十一才の春には 瑞雲寺を離れ 美濃の保福寺 伊自良の東光寺 そして 小浜の常高寺などの寺を行脚して修行しました その後 帰路中に 瑞雲寺の馬翁和尚の病気を知って 瑞雲寺に戻って 馬翁和尚 が回復する 十月まで看病に徹した そして白隠は 同じ十月 松蔭寺に帰った 白隠が23才の時 1707年11月22日夜 から翌朝にかけて あの富士山の大噴火がありました 翌年 二十四才の春 越後高田の英厳寺 生鉄和尚の元へ行き お寺の裏のお堂に 一人籠って 毎日坐禅すると ある日のこと 夜が明けようとした時 遠くの寺の鐘が かすかに聞こえてきた そして そのかすかな 鐘の音を聞いて 白隠は忽然と大悟 したのである 時に二十四才 『 白隠最初の大悟 24才の時 越後高田の英厳寺 生鉄和尚の元 鐘の音 』 その年それから 宗覚という修行者と一緒に 信濃飯山にある 正受庵に住んでいる 道鏡慧端(正受老人)を訪ねた そうしてその後 正受老人は白隠の高慢を罵り 約八ヶ月の間 厳しく指導した ある日托鉢に出て 一軒の家の前で 「ほーーーーっ ほーーーーーっ」と していると その家のお婆さんが 竹箒を持って白隠を追い払おうとして その箒が 白隠の頭を打ってしまい 白隠は気を失ってしまったという 暫くして 白隠が気がついて 我に返った途端に 今まで悩み苦しんでいた公案が ぜーんぶ 桶の底が抜けた様に からりと解けたという 『 白隠二度目の大悟 信濃飯山の正受庵 道鏡慧端の元 托鉢で竹箒 』 そうして 遂に大悟した白隠は 悟りを完成させ そして松蔭寺へ戻りました 更なる悟後の修行を始めて 二十九才の頃になって 伊勢建国寺の虚堂録会に出かけ その足で九州の 古月禅林和尚を 訪問するつもりで 態々京都まで行ったのだが 古月禅林禅師の何かの噂を耳にした後 何故か突然訪問を 取り止めました 取り止めた 本当の理由は 一体何であったのでしょうか ? この時 もし白隠と 古月が会っていたなら 臨済宗の発展の仕方は もしかして また歴史の流れとは違った風になっていたかもしれません そして その他にも 若狭 河内等などを行脚するのであったが 次第に禅病という 病気にかかってしまうこととなる そして療養のために 泉州信田の 曹洞宗の蔭涼寺に行き 寿鶴無道人と 一緒に 坐禅修行を行った また 白隠禅師は 大悟した後のこの頃から 『 菩提心とは何か 』という疑問に 対して 大変苦悩していくのでした 三十の春 蔭涼寺を出て 美濃に戻り 今度は岩滝山にある 小さな庵で ほぼ 二年 坐禅修行に励むのであった この頃 既に白隠は 厳しい禅修業の影響で 体調が悪くなり 頭がぼっとする 手や足や腰が冷える さらに耳鳴りがする そして眠れない等が続くという 病気になり 相当に進んでいたらしい そしてその病気は四十才の頃まで 続いたと言われている そしてそれを 白隠は独特の内観法と 軟酥の法によって 身体を回復させたのである この体験は 後年すなわち 白隠禅師晩年の 七十才過ぎて 執筆した 「夜船閑話」 という本に 『 医道に通じた 京都白河の山中にいる 白幽真人(はくゆうしんじん)に 内観修養の秘訣を聞きき その教えを実践することにより 病気を治癒した 』ことを 記しています ただこの話は フィクションではないかと推察されています 三十一才時 虎渓山に行き 山之上村の岩滝山で 草庵を作り 一人で座禅修行をし 三十二才の冬まで過ごした 悟後の修行なんでしょうが 昔の僧侶はやはり修行の仕方が 強烈です その後白隠の父が病気となり 色々な事情から33歳で 松蔭寺の住職となる そして四十二才の秋 白隠が「法華経」を読んでいた時に 縁の下で コオロギが しきりと 鳴いていた その時に 白隠はそれを聴いて すとんと 法華経が理解出来たので 号泣 したという そしてこの時 長年の疑問であった 『 菩提心とは何か 』というのが解ったのである すなわち 『 四弘誓願 』そのものであるということが 『 白隠三度目の大悟 四十二才の時 松蔭寺 縁の下のコオロギの鳴き声 』 因みに 四弘誓願は 次の四句である 『 衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成 』 それにしても 五百年に一度しか出ないと言われる 僧侶は 大悟だけでも 四十二才 までに 三回もあったんだと 思ってしまいます 四十八才の頃には 松蔭寺で修行する者も増え その後 暫くして 五十二才の時に 松陰寺の僧堂が 建設された 五十五才の時 「虚堂録」を提唱し 参集した修行僧は四百名を超えたという 五十九才の年の二月 道果円慈こと 東嶺円慈が来参した その時東嶺はまだ二十三 才であったが 資質が優れており 侍者を命じられ 「虚堂録」の解説書の編集の大役 を命じられたのである そして 東嶺が白隠の配下になって以来 白隠の執筆活動が 俄然猛烈に活発に なっていくのである やはり 東嶺円慈の存在は思っている以上に 大きいもので あったに違いない 以下に 白隠の 東嶺来参以降の著作は 次の通りである 年齢 著作 60 『息耕録開演普説』(そくこうろくかいえんふせつ) 60 『毒語心経』(どくごしんきょう) 61 『寒山詩闡堤記聞』(かんざんしせんだいきもん) 65 『遠羅天釜』(おらてがま) 65 『寝惚之目覚』(寝ぼけのめざまし) 65 『宝鑑窟之記』(ほうきょうくつのき) 66 『槐安国語』(かいあんこくご) 68 『於仁安佐美』(おにあざみ) 69 『隻手音声』(せきしゅおんじょう)『藪柑子』(やぶこうじ) 70 『辺鄙以知吾』(へびいちご) 71 『夜船閑話』(やせんかんな) 74 『荊叢毒蘂』(けいそうどくずい) 74 『荊叢毒蘂拾遺』(けいそうどくずいしゅい) 74 『宝鑑貽照』(ほうかんたいしょう) 75 『八重葎』(やえむぐら) 82 『壁生草』(いつまでぐさ) 因みに 私は実際のところ このうち 完璧に読んだものは 残念ながら 一つも ありません 何らかの形で ぼんやり勉強しているのも 僅か二つしかありません 笑 情けない限りです そして 六十四才の頃 あの有名な『 隻手の音声 』の公案をつくったという 六十五才の時 請われて「大灯録」を提唱しました 六十七才の時 備中の宝福寺で 「四部録」を提唱し また妙心寺の養源院で「碧巌録」を 講じた 六十九才の時 東光寺で「毒語心経」を講じた 七十五才の時 江戸の臨川寺と東淵寺 「碧巌録」を講じた 七十六才の時 東嶺の尽力で 龍沢寺が完成して 白隠が開山 東嶺が住職となる 八十二才の時 江戸に行き 東北寺で無難禅師の墓参をし その後 小石原至道庵に入り 改築の状況を見ておおいに喜び 半年滞在した 八十四才の時 十二月十一日の暁 遷化 松蔭 龍沢 無量の三寺に分骨した 臨済宗を復興させた 白隠慧鶴ですが 次の様な言葉がそれを象徴しています 『駿河には過ぎたるものが 二つあり 富士のお山に原の白隠』とまで謳われた そして 現在の日本の臨済宗十四派は 全て白隠を中興としている 追録 白隠慧鶴は 日本の臨済宗の中興の祖であるうえ 修行僧や僧侶以外の 居士に 対しても 明らかに 公案を用いて 参禅を受けていた 特に 山梨了徹平四郎居士 は 白隠の居士弟子として有名であって 僅か三日で悟ったといわれている また 明治時代の由利滴翠や 釈宗演も 居士参禅を受けていた それが何故か 現在の臨済宗の僧堂では 認めているところは 極めて少ない なぜなのか 居士には その能力がないと思っているのか あるいは僧侶でないから その資格がないと 思われているのだろうか 一方の居士坐禅会は 参禅があり 以前よりも 活況になっている様に思えるのは 私だけの 思い違いなのであろうか |