84 海外布教その一 最初は千崎如幻

    最初は宗演老師 最後は宋淵老師


仏教は、1893年に米国シカゴでの万国博覧会に行った時に、万国宗教会議が開催され、円覚寺の

釈宗演(1859-1919)が禅について講演したのが、 海外布教の始まりだったと言われています。

そしてアメリカ人が最初に熱中した仏教は、それは日本の禅であった。

その功労者の一人は、釈宗演がルーズベルト大統領と会見する、二度目の訪米でその時に釈宗演に

同行した、仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)であることは間違いない。

そしてもう一人。同様に、釈宗演の侍者としてその時同行した、弟子の千崎如幻(せんざき にょげん

1876年〜1958年)である。千崎如幻こそは、アメリカで禅の指導を行った先駆者である。

千崎如幻の父である、船大工の工藤平次郎は仕事で出掛けた、青森県市浦十三村(現五所川原市)

にある宿屋の婿となった。そして24歳になった1876年に長男の愛蔵として、千崎如幻が生まれた。

しかし、4年後に妻が病死し、平次郎は如幻を置いて仕事の多い青森県西津軽郡深浦町へ出かけて

しまった。そんなことから祖母は、同じ十三村の平次郎の叔父にあたる浄土宗湊迎寺の二四世、

工藤定巖和尚のもとへ如幻を引き取ってもらった。

平次郎は深浦で今度は千崎家の養子となり、一家を構えた。そこで如幻は湊迎寺から父のもとに

やってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は如幻を深浦の曹洞宗宝泉寺に預けた。しかし

失意の如幻は再び十三の湊迎寺に戻ってしまった。

そしてこの幼い子の悲しみと怒りが、事実とは違う、一般に言われている、千崎如幻の捨て子説、或いは

父がロシア人や中国人説を、如幻自身から言い出した原因と考えられている。

如幻は村の小学校を終えた後、親類を頼って弘前へ出て高等小学校、キリスト教系ミッションスクールで

医学予備校の東奥義塾へと進んだが、湊迎寺の定巖和尚の死によって中退した。彼は五歳で四書五経

に接し、十八歳で大蔵経を読破した。

その後、宝泉寺の佐藤良禅和尚のもとで得度し、得度の翌年の1895年の4月8日釈尊の誕生日に如幻と

改名した。如幻の意味は「夢の如く、幻想の如く」であり、『金剛経』からとったという。

もともとは臨済宗の方に興味があったので、鎌倉・円覚寺の管長・釈宗演に手紙を出すこととなって、

師を頼って円覚寺に行き、釈宗演に師事した。円覚寺にいる時、結核を患い、境内の仮設の延寿堂で

じっと養生していた。そして漸く回復し僧堂に戻った時、千崎如幻は同じく宗演に師事していた鈴木大拙

と出会うこととなった。その後結核で死の幻影におびやかされていた如幻は、奇跡的に健康を回復する

のであった。そこでの五夏の修行後、仏苗学園を設立する。

千崎如幻は幼稚園の創始者のフリードリヒ・フレーベルの業績を知って、1901年に彼は宗演に幼稚園

を開きたいと述べ。それを「仏苗学園」と名付け、無宗教で子供が子供らしくある場所とした。

宝泉寺内に寺子屋 「仏苗学園ぶつみょうがくえん」 を開き、 貧しい家の子や、子守らを集めて読み書き

そろばんや説話、 和讃などを教えた。数人の生徒で托鉢や私財では資金が足りず、釈宗演との縁や、

参加していた日本矯風会の禁酒禁煙運動の名士・名流夫人らに援助を仰いだ。

この教育の場は仏苗(ぶつみょう)学園になり、弘前市土手町にも開いた。学園は五年続いた。


20世紀初頭、1905年、師の釈宗演は友人からサンフランシスコでの仏教の講義を頼まれた。

その頃如幻は、仏苗学園が凶作や戦争で資金が尽き、渡米を考えていた。そんな時に師の釈宗演が

渡米する話が伝わってきたので、三メートル余の手紙を書いて随行を頼んだ。この熱意に打たれて

宗演は随員に加えた。そして宗演の侍者として千崎如幻は渡米した。

如幻の渡米の目的は、日本を脱出して勉強をするためと、禅をアメリカ国民に伝えるためであった。

釈宗演が日本に帰る時、千崎如幻も帰るものと思っていたが、千崎如幻に迷いが生じているのを

見て、「アメリカに残ったらいい」その言葉を残し、釈宗演は千崎如幻をアメリカに残して帰日した。

そして、二人はその後、釈宗演遷化まで一度も会うことはなかったのである。

考えれば、千崎如幻は1955年に友人の龍澤僧堂師家の中川宋淵を訪ねるために来日した以外は

アメリカを離れなかったのであるから当然なのかも知れない。そして千崎如幻は、師に対する敬慕の

念はすごく、釈宗演の命日にはかかさず法要を営んだという。

その後、千崎如幻はサンフランシスコで、布教の費用を稼ぐためにホテルのボーイ等の様々な

仕事をこなした。そうしながら千崎如幻は英語を自然に身につけていった。

本当に 如幻はいろんな暮しをした。時には金門橋で冥想したり、またサンフランシスコ公共図書館

でも勉学にいそしんだ。十年間はもっぱらキリスト教を勉強した。それは、キリスト教を知らずして

白人に仏教を説けないと考えていたからであった。

1919年に彼は釈宗演が遷化したとの知らせを受けたがアメリカに留まった。その後、彼は場所から

場所を移動して禅を講義そして実践することとした。これを移動坐禅堂とよんだ。移動中に持って

行く物は文殊菩薩の写真だけであったという。この頃、釈宗演の法嗣である兄弟弟子の古川尭道

が禅を教えにアメリカにやって来た。

その後も、苦しい生活のなか、いろんな仕事をこなして、お金が入れば近くのホール等の場所を

借りては仏教の講演と実践会を開催した。これを自ら「浮遊禅堂」と呼んでいた。

1926年、ドイツ人ハルマン・ルウと共にサンフランシスコのヘート街に「桑港仏教団」を設立し、

その後1928年、ブッシュ街1988番地の曹洞宗桑港寺の地下室で、「東漸禅窟」と「群英学園」

の二事業を起こしたのである。

釈宗演を生涯、師と仰いだが、千崎如幻は実際には、宗派を超えた布教であって、臨済宗の

禅僧というよりか、どちらかと言えば居士として、在野を貫き通した。

アメリカへの仏教の布教は、真宗や曹洞宗などが競うように行う、米国在住の日本人を対象

とした布教ではなくて、それを嫌っていた如幻は、キリスト教徒が大半を占める米国人を相手に、

本来の禅を伝えようと格闘を続けたのである。

そして1930年代にはサンフランシスコからロサンゼルスに移動し、その度にアパートを借り

移動坐禅堂を続けた。

さまざまな職種の米国人が千崎のもとに集まり、座禅のあと、説教を聞いた。説教は仏教に

限らず、東洋の芸術や文化全般に及んだ。渡米した日本の僧侶のほとんどは、千崎の力を

借りて仏教を広めた、といわれる。サンフランシスコとロサンゼルスを中心に五十年も、米国で

禅の普及に努めたのである。

1931年には日系人ロサンゼルスのタナハシ秋旻を助け世話をしたことで、1934年9月発行の

『婦人公論』に中川宋淵が原稿を載せたのを、タナハシ秋旻がこれを読んで師の如幻に紹介した。

如幻は「祖国に同志を見つけたり」と叫んで、千崎如幻は中川宗淵に手紙を送りました。このとき

始まった二人の文通は1949年、中川宗淵老師がアメリカを訪れるきっかけとなりました。

太平洋戦争のころ、全米の日本人は4カ所のキャンプに集められた。千崎はワイオミング州の

ハート山戦争収容所で3年過ごした。この間、千崎は毎朝座禅と講話の会を開いた。キャンプの

米国関係者も尊敬していたという。

1949年年、中川宋淵がアメリカへ禅の指導にやって来たとき、坐禅会の事そして千崎如幻に

関して次の様に述べている。

『アメリカに禅の指導についてですが、具体的に言って、最初の御縁はロサンゼルスに千崎如幻と

おっしゃる方、この方は鈴木大拙先生と円覚寺時代の道友で、非常に親しい知己同士であります

けれども、その千崎如幻という方のお力でどこの本山とか宗派にも属さない独特なグループが

できあがっていました。集まってくる人が皆アメリカの人ばかりでした。そんな御因縁でアメリカへ

行くようになったのです。その時のお話もいろいろございますが、すべて因縁の働きなんです。

集る方々はそれこそ大学の先生もあるし、画家もあるし、音楽家もあるし、コロンビア大学の学生

さんもあるし、労働者もあるし、黒人の人もあります。社会の種々様々な男も女も、若いのも年寄り

もみんなです。』

戦後はロスに戻り、移動坐禅堂を続けた。残りの人生を禅の普及に情熱を持って注いだ。この時の

教え子の中に、ロバート・ベーカー・アイトケンやサミュエル・ルイスがいる。更に彼は中川宋淵から

日本の僧堂生活になじめない若い僧も預かった。

そして、中川宋淵に会うため、1957年になんと、51年ぶりに日本に帰国した。



そして千崎如幻は1958年5月7日に81歳でアメリカで遷化した。

最後の言葉は「法を忘れるな」であった。

1958年5月7日朝、宿なし流浪の禅僧と言われた千崎如幻は、アメリカのロサンゼルスでだれにも

知られず、ひっそりと81歳の生涯を閉じた。灰はケシの花畑の肥料とせよという遺言だったので、

郊外のシャスター山上からカリフォルニアの大地に撒かれた。エバグリーン墓地に建てられた

「如幻塔」の裏には、頭書の意の英文と「汝等諸人頭上に頭を安くなかれ唯須く脚下を照顧せよ」

との漢文の遺偈が刻まれている。

千崎如幻は、妻帯して独身を守らない、酒を飲み、金銭を求める、日本の僧侶を僧とはみなさず、

禅宗本山には背を向けた。令和の時代になったが、千崎如幻のような、素晴らしい禅僧はまた

登場するのであろうか・・・・・



千崎如幻のアメリカでの五十年間、サンフランシスコ、ロサンゼルスの東海岸で禅の道は、鈴木大拙

とは違って、生活にもまれながらの布教であった。千崎如幻の五十年に及ぶ活動は、アメリカの禅に

とって、そして仏教にとって、鈴木大拙と同じ程度の影響を与えたのではないだろうか。アメリカでの

布教に一度は成功したものの、最終的に身を滅ぼして失敗した日本人禅僧がいるなかで、千崎如幻

こそが最期まで、禅僧として理想通りに清貧質素を貫いたのではないかといえる。

私の頭の中ではこの千崎如幻が最も記憶に残る禅僧と言える。

鈴木大拙は白人に禅の知識を与えた。そして如幻は禅の心をアメリカ人達に伝えたとのである。

こうした如幻を支えたのは、深浦の教え子であった宮本保作といわれる。如幻は全く金銭感覚は

ゼロに近かった。宮本は渡米し、ポートランドでカメラの腕を磨いて成功した。そして如幻とは

六十余年間温かい交遊を続けた。

また如幻は、南北朝時代の禅僧で永源寺を開山した、寂室元光を尊敬し、その語録を英訳、

1956年の50年ぶりの日本へ帰国の際も、まず滋賀県の永源寺に詣でた。この時に如幻を

迎えたのは三島市龍沢寺の中川宋淵である。


最後に 如幻の訃報を聞いた、中川宋淵が詠んだ追悼句を三句。

アメリカなる如幻尊者御遷化三句

『 慟哭(どうこく)の 果ててありけり 五月富士 』

『 アラスカの 雲飛びに飛ぶ 白夜かな 』

『 いっぱいに なる秋の陽が がらんどう 』





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