|
今回は 釈宗演の孫弟子に当たる 佐々木指月と その妻である 佐々木ルースのお話であります。 佐々木指月(ささき しげつ、1882年3月10 日-1945年5月17日)は、1882年に佐々木栄多として生まれた。 父は神官であった。指月は父から論語を習い。15歳で父が亡くなると、彫刻を志して、見習いとして、既に 著名になっていた、東京美術学校の高村光雲(詩人として名を残す高村光太郎の父である)の下で修行した のである。 その間に佐々木指月は、釈宗演の法嗣の一人である釈宗活について臨済禅の修行を始めることとなった。 そして1905年には東京美術学校彫刻選科を卒業したが、その時の戦時状態から、佐々木指月は帝国陸軍 の兵士として、満州国境付近でしばらくロシアとの戦いのため軍務に就くのであった。 その後、戦後となり免官された後、指月と同じ釈宗活門下であった、トメと結婚したのである。 新婚となった夫婦は、釈宗活が率いるアメリカへの布教集団として、西海岸のサンフランシスコに渡ったの である。カリフォルニアで禅の共同体を創設しようと、いちご栽培等を始めたが、悉くうまくいかなかったので ある。そしてその頃、佐々木指月は、カリフォルニア美術学校で、絵画を学ぶこととなった。そしてこの時に 運命的な出会い、すなわちもう一人の米国布教の先駆者である、千崎如幻と出会ったのである。詳しい事は 書かれていないが、指月そして如幻とも大きな影響を互いに受けあったのは間違いないといえる。 そして1910年までに布教集団による禅共同体経営の試みは全て失敗に終わってしまい、佐々木指月ただ一人 を残して集団は日本へ帰国したのである。恐らくは如幻に会っていなかったら、指月も帰ったのではないかと 思えて仕方がない。如幻が一人で米国人に禅を指導するのを見たことが佐々木指月の心に火をつけたといえる のではないだろうかと思える。 その後、佐々木指月はシアトルで額縁等の職人として働きつつ、日本の雑誌である中央公論等の出版社にも 色々なエッセイ等を投稿していた。その後は色々な仕事をしながら、1916年にはニューヨークのマンハッタンに 移住したのである。 この時期に米軍から時々尋問されたが、日本に対する忠誠心が残っていたために、運良く、徴兵されなかった。 ニューヨークでは、マクスウェル・ボーデンハイムの使用人兼翻訳者として働くのであった。 1920年には、釈宗活への参禅修業を再び継続するために一度日本に戻っていたが、釈宗活から居士指導の 指令を受けて米国に戻り、1925年頃にはニューヨークにあるオリエンタリア書店で、仏教に関する講話を始めた。 その後1928年には、釈宗活から印可が認められ、宗活の法嗣となって、1930年5月11日には、佐々木指月と 数人の米国学生達とで、米国仏教協会を立ち上げた。また佐々木指月は禅問答や重要な仏典の翻訳も行った。 佐々木指月の指導方法は坐禅が主体ではなく、臨済宗中興の祖である白隠の公案と参禅が中心となっていた。 ここは千崎如幻と対照的であったかも知れない。 また、自らの特技である仏像を彫って、芸術作品の修復を行うことによって、生計の一助とした。 1938年には、指月の後妻となるルース・フラー・エヴェレットが、指月の下で修業を始めたのである。 ルース・フラーであるが、簡単な略歴は次の通りである。裕福な家庭に育ちヨーロッパ留学を経て、1917年に 弁護士エヴェレットと結婚し、1930年には夫妻らは日本の京都で禅学者の鈴木大拙、その夫人のビアトリス、 そして外国人参禅を奨励した円福寺の神月徹宗を知った。そして1932年、再度来京し今度は南禅寺の河野 霧海老師に師事した。 そして1940年、夫没後は、米国仏教協会の活動に関わる。1941年、ルースはニューヨークにアパートを購入し、 これが指月の住まいとなった。また12月6日に開設した米国仏教協会の新たな拠点ともなったのである。 しかし第二次世界大戦開戦後、敵国日本人として逮捕され、1942年10月2日にメリーランド州のキャンプで 拘禁されたのである。佐々木指月が拘束された事に関しては、次の様なお話が残っている。 『当時アメリカ政府は、日本と戦争状態に入ると共に、米国にいる日本人の全部をもれなく調査し、その一人 一人を対象として、アメリカ政府に対して忠誠を誓うか否かを糾明した。その方法は、単に口頭だけのもので はなく、日本の国旗を目標として発砲させたのである。佐々木指月も糾明されるうちにいた一人であった。彼は 発砲目標となっている日章旗を目にしての糾明の場に立たされると、頑として査問をこばんだ。こばむことは 敵意を抱いていることで、同時に捕虜とされることである。指月は鉄条網で囲んだ内の、監視兵の立っている 営舎に移されたのである。』 その後指月は、学生達の嘆願運動によって収容所から解放され、ニューヨークの仏教協会に戻った。そして 1944年には、妻とめと離婚し、直後の1944年7月10日、未亡人のルース・フラーと結婚した。そして長い体調不良 ののち、1945年5月17日に遷化。遺灰はニューヨークのウッドローン墓地に葬られた。その後、米国仏教協会は 米国第一禅堂へと名称変更した。 そして残された妻の佐々木ルースは日本に来日して、1958年には臨済宗大徳寺派、大徳寺四派の一つである 龍泉派の本庵である龍泉庵を再興し、禅典籍の英語翻訳などを行った。そして、著名な禅学者である入矢義高、 柳田聖山、金関寿夫らと親しく交わった。 彼女の尼僧名は紹溪尼(Ruth Fuller)。龍泉庵の庵には、ルース紹溪尼により1957年には「日米第一禅協会」が 設立して置かれ、海外での禅評価の先駆になった。 |