NO88 名刹平林僧堂 峰尾大休老師 松竹寛山老師


今回は趣向を変えまして 妙心寺派平林僧堂に関するお話と 数年前

に拝聴した 臨済宗妙心寺派平林僧堂師家の松竹寛山老師のお話です。



ウィキペディアの説明を借用すると『平林寺(へいりんじ)は、埼玉県

新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は金鳳山。修行

道場として僧堂が設置されている。境内林は、武蔵野の面影を残す雑木

林として、1968年(昭和43年)に国の天然記念物に指定されている』と

書かれている。その他、平林寺の長い歴史また寺にある書画宝物に関し
 
ては各自それぞれご研究ください。


調べたい方は 次のホームページやウィキペディアでお調べください。

臨済宗妙心寺派 金鳳山平林寺ホームページ

ウィキペディア『平林寺』


横浜には総持寺、鎌倉には建長寺や円覚寺、その他にも東京の八王子に

ある広園僧堂や山梨甲州市の向嶽僧堂と数多くあるが、ここ関東にある

臨済宗妙心寺派の専門道場と言えば、ここ平林僧堂だけとなる。これは

摩訶不思議なことである。

この平林寺は境内地がなんと13万5千坪(約45万平米)あるというか

ら驚きである。その広大さから、修行僧からは作務が大変だという言葉

がよく聞かれるという。(筆者記す)

勿論専門道場としても名刹である。僧堂は1903年(明治36年)に峰尾大休

老師の時に開単された。因みに、この峰尾大休老師は1879年(明治12年)

鎌倉の円覚僧堂に掛搭して修行するのである。最初は儀山善来の法嗣で

ある今北洪川老師に参禅、その後は釋宗演老師に参禅する。そして1895

年(明治28年)に釋宗演老師から嗣法する。その後暫く円覚僧堂師家代参

も務めたという。

そして1901年(明治34年)には平林寺の住職となり、1903年(明治36年)に

僧堂を開単したのである。

上のお話は、先述の平林寺のホームページに書かれている情報と、更に

臨済会編の『禅僧伝』等を参考にしつつ書いている。

で、私の素朴な若干の疑問なんですが、禅僧伝によると、ページ156頁に

『1895年(明治28年)に宗演老師より印記を受く』と書かれている。

峰尾大休老師は、釋宗演老師の法嗣ということだ。

ところが同本の末尾 『関連法系図 表5』によると、法系は儀山善来

そして今北洪川、次に法嗣として釋宗演と共に峰尾大休も書かれている。

と言うことは、どうなんだろうか。

この表を見る限り、明らかに峰尾大休老師は今北洪川老師の法嗣である。

一方の平林寺のホームページでは「今北洪川老師、釋宗演老師に参禅し

印可を受ける」と書いてあり、どちらか言うと宗演の法嗣だろうと思わ

れる。

考えてみると、釋宗演老師は安政6年生まれ、峰尾大休老師は万延元年の

生れであり、今の西暦に換算すると月では少し釋宗演老師が早いのです

が西暦で見る限り、お二人の老師は生まれ年は1860年の同い年となる。

更に、二人とも円覚僧堂に掛搭するのであるが、釋宗演老師は1878年(明

治11年)に、峰尾大休老師は翌年1879年(明治12年)にしているのである。

そして1883年(明治16年)には僅か五年の修行で釋宗演老師は今北洪川老

師から印可を受けている。釋宗演老師は勿論輝く偉才であることは認め

るが、一方の平林僧堂を開単した峰尾大休老師もそれなりの人物である。

そんなことから私は一つの推測を現在ではしている。単に私の推測です。

峰尾大休老師は今北洪川老師の法嗣であり、釋宗演老師の法嗣でもある

のではないかと。

確か、相国寺派の管長になった橋本独山老師は天龍寺派管長の橋本峨山

の法嗣であるが、同じく高木龍淵老師の法嗣でもあった。



そしてようやく、平林僧堂師家の松竹寛山老師の 花園大学での法話の

お話に移ります。

学長講座(2015年6月22日)テーマは『禅の世界 禅の修行プロセス』の

法話を拝聴しました。実は同じ年の11月18日には中興開山鉄山宗純禅師

400年遠諱記念として開催されました「武蔵野の禅刹 平林寺 伝来の

書画名宝展」の開催記念講演会として、松竹寛山老師から平林寺の伽藍

や境内に関するお話も拝聴する機会に恵まれました。



以下は、学長講座のお話 僧堂のお話であった。()書は私の書込みです

修行僧の数は、十二人から十八人程度の人数が一番都合が良い。僧堂の

仕事は坐禅主体である堂内と、内部の仕事を司る常住と2つにに別れて

おり最低十二、三人はいないと大変である。

かと言って、また多過ぎても、自分の目が十分に行き届かなくなるので

それも大変である。

(筆者書込  今は修行僧がめっっきり減って 全員で十人未満である

修行道場が大変多いのが現状です。老師の皆様は本当に苦労されている。)

三十人の修行僧がいても、一年で殆どのものがもし止めてしまえば、

その減った後の調整が大変で苦労をしてしまうので、やはり難しいものだ。

通常は修行僧は、僧堂生活一年で資格が取れてしまうので、僅か一年だ

けでやめてしまうのが多い。

これが大徳寺とか建長寺等は最低三年となっているので、まだましである

と聞くが・・・

実際問題として最低、僧堂のいろんな事を考えてくれれば 三年は修業

して欲しいと思う。

(筆者書込 これは東福寺の管長もよく指摘されている。僧堂は期間を三年

縛りに出来ないものかと・・・ ところが常に反対意見があるようです。)


続いてのお話が庭詰めと旦過詰め。例の「たのみましょう」からの

入門の始まり。入門を申し込んで来た者を一度は断るというのは、何とも

理解しがたいものである。

さらには外への連れ出し。これには大きな理由がある。

頭を下げて座り続けるのが、大変なことなので、身体を解すためにも追い

払うのである。

修行僧にとっては、最初の入門が許されて僧堂の単に着いたときが、一番

嬉しいのである。この参堂式で仲間入りとなる。(筆者書込 説明を末尾

に書込みしたので参照ください)

そして次が 松竹寛山老師の師匠のお話であった。

これは感動したが、私の筆力では全くの能力不足で書き起こしが出来ない。

私自身も 多くの方のお話を今まで聴いてきましたが トップ10に入る

感動するお話でした。

簡単なあらすじは、大震災の直前に七十二歳で遷化されました老師の師匠

即ち野々村玄龍老師のお話です。遷化される三年ほど前に膵臓ガンの手術

を受け、余命半年の宣告を受けられたという。膵臓がん現在でも最強の癌

であります。その闘病の様子を見つつ、そして師匠である野々村玄龍老師を

看病そして介護を続けられた、法嗣である松竹寛山老師の苦労等が語られ

心を打つものでありました。

そして松山老師の書かれた、ある文面から拝借転記すると

『 病気をそのまま受け入れて自然の進行に任せるのも一つの選択であった

し、他方積極的に病気を克服していこうというのも選択であったと思う。

ここで老師は後者を選択されたのである。本人の努力もあって三ヶ月ほど

の療養生活の後、見事、本人云く「戦争だ!」と言われていた平林寺の職

務に復帰。再び雲水の指導に心血をそそがれることとなった。』と。

手術後初めて迎えた夏に書かれた遺墨が「夏日清風来」野々村玄龍老師の

説明は『 暑い夏の昼さがり、そよそよと涼しい風がふいてくると、その

気持ち良さは何ものにもかえがたい、有難いものであります。人生に於い

ても、自分の思うようにならない苦しい事が多いが、その中に於いても生

きていることのすばらしさを感じ、生きていることに感謝することもある。

それが生きる勇気を与えてくれる。真夏の暑さの中にも、涼風があること

を信じて、夏を乗り切ってください。』


今になって病との対峙した様子を読むと、この色紙のわずか五文字の奧底

で吹く清風に愕然とするという。

老師の法話は聴いている大衆にとって 涙を禁じ得ないものとなりました、



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ご参照ください

『 参 堂 式・さんどうしき 』とは庭詰、旦過詰の入門試験も無事に

に通過し、翌朝禅堂に案内されて、参堂式に臨む。堂内は両側が一段高く

なっており畳敷き、中央には瓦が敷き詰められ、既に先輩たちが塑像の

ように坐っていた。案内の侍者(禅堂内の世話役)の指示に従い、白衣、

白足袋、袈裟、法衣を着けると、全身緊張の固まりのようになって堂内に

足を踏み入れる。まずは文殊菩薩に線香を供え、坐具を展げて三拝して、

これからの無事を祈る。次に直日という堂内取締の前に進み出て今後共

宜しくお導きを″の意味合いで低頭、引続き侍者の前で同様の低頭を行う。

そして下座の処に到り坐具を四つに畳むと同時に、侍者が大声でゆっくり

とした調子で新到参堂!″と皆に告げる。この声に合わせて先輩たちが

一斉に低頭し、これで仲間入り出来たことになる。

次に予め指定された単に到り両隣の人に、お隣さんご厄介ですが宜しく″

の意味合いで低頭。そして初めて自分の単に落ち着くことが出来る。



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