禅のあれこれ No.99   その一

       天龍寺塔頭慈濟院 小林承鐵和尚 突然の遷化



 天龍寺塔頭である 名刹慈濟院の住職が 令和2年の1月25日に 突如として遷化

された。 世話になった その小林承鐵住職を偲んで 書いてみる。

小林承鐵和尚の父である 雲道人こと小林全鼎 更に兄で陶芸家の 小林東五の両人

についても 少しふれながら書くこととする。

それにしても 余りに突然の和尚の訃報であり 遷化であって ただただ 私は悲しむ

ばかりであった。

まずは 簡単に 住職をなさっていた 臨済宗天龍寺派で天龍寺の塔頭の一つである

慈濟院に関して 簡単な紹介をしておく。

開祖は仏慈禅師である 無極志玄(むごく しげん、1282-1359) 父は順徳天皇の孫である

四辻宮尊雅王といわれる。 鎌倉・円覚寺の夢窓疎石に師事し、その後、天龍寺二世にも

なっている。 寺の境内には 天龍寺七福神めぐりの一つである、弁財天(水摺大弁財天)を

祀っている。


そして遷化された 小林承鐵和尚の簡単な略歴は次の通りである。

昭和20年(1945年) 山口県生まれ。昭和44年(1969年)、京都で鹿苑寺の村上慈海師

について得度。 その後 相国僧堂に掛塔 止止庵 梶谷宗忍老師に参じる。 そして天龍寺

の塔頭 慈済院住職となる。 令和2年(2020年) 1月25日遷化。


私が参加していた 慈濟院で開催される 坐禅の会「蕉堅会」 (くんけんかい 毎月第3若しくは

第4日曜日の午後二時から四時頃まで) に関する 我が徒然日記の中から一部を抜粋しつつ

今は亡き小林和尚の在りし日の姿を 偲びたいと思う。


○ 2013年 12月 22日 坐禅会の 忘年会での席でのおはなし

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隣に座られた 初めてお会いした方との お話

「檀家ではないんです・・・  お墓はあるんですが・・」

「そうですか 宗派は 何ですか」 と、私

「実は 曹洞宗なんです うちの主人は 昭和五年生まれですが 小学生の小さい時から

ここのお寺で住み込んで 学校に通っていたんです ずっとです。 先代の和尚さん 稲葉心田

老師が住職だったころです。 結局 東京の大学に行くまで ここのお寺にお世話になっていた

のです。その後 先代は偉くなられ 北陸臨済宗国泰寺派の管長になられまして ここの慈済院

と兼務されていました。お身体が布袋さんのような方でした。本当に良き人でした。 そして跡継ぎ

が出来たと言って とっても喜んでおられました。その跡継ぎというのが今の和尚さん 小林承鐵

和尚のことです。」

そうここ慈濟院は何というか 昔は学生さんとか結構色んな方がおられたようである。 しかし

それは他のお寺でも 戦前戦中戦後動乱期までには それなりに同じようなことがあったと聞く。


○ 2014年 12月 21日  再び 一年後の坐禅会の 忘年会での話

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暫くして 和尚に お酌しにいく。

「和尚のお父様は天龍寺で掛搭されましたが その時老師は関精拙老師だったんですか」 と私

「いえ 高木龍淵老師です」

「そうですか 確か金閣寺の村上慈海老師と 親しかったとお聞きしますが 禅文化研究所も

村上慈海老師と 山田無文老師のお二人のご尽力で 立ち上げられたと 聞いてますからね。

和尚は お父様が村上慈海老師と関係が深いから 掛塔は相国僧堂なんですか」 と私。

「と言うよりも 実は金閣寺の 村上慈海老師が得度の師匠なんです」

「知り合いの和尚で 現在の臨済宗永源寺派の 山田宗務総長が 同じく村上老師が得度師で

本当に仕込んでもらって良かったと お話しされていましたことを思い出しますね。 私は凡人で

どうしても 三島由紀夫の『金閣寺』に登場する 金閣寺の和尚を思い浮かべるんですよ」と私。

「村上老師は 清廉潔白な和尚で 良き師匠と尊敬しております。  また親父の親友でもあり

ましたからね」

「そうですか 村上老師は残念なことに 運命の悪戯でしょうか 昭和60年(1985年) 8月 12日に

発生したあの有名な 御巣鷹山 日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者の一人となって急逝する

こととなった。実に 戦後の二つの大きな出来事 金閣炎上と ジャンボ機墜落の二つを 共に

当事者 そして 被害者として 経験されたこととなる。 ともあれ 立派な方でしたね。」 と私。

「いやぁ 立派な方でした」 と 小林和尚。



しかし 村上老師ついて補足するが 実際はもっと厳しく そんな生易しいものではなかった。 

事実はこうだ。

 身内小僧の放火で 世界的遺産の金閣寺が全焼。 そして 放火犯の母親の死 と犯人の病死。

それにもめげず 1955年には 村上老師の大変な尽力もあって 金閣寺が復興。 しかしその翌年

1956年には 文芸雑誌『新潮』の1月号から10月号まで 三島由紀夫の『金閣寺』が連載された。

作家として天才である 三島は金閣寺の村上慈海に 面談を断られたが 自身の天分の頭で

書き上げた 金閣寺は史上稀な 日本文学史上の傑作と言われる。 その結果 多くの外国語に

翻訳されることとなった。

『金閣寺』の小説の影響を諸に受け 欧米人が知ることとなったのは 『 南泉残猫 』の公案である。

この公案は有名で 碧巌録 無門関 など等多数の語録に登場する。

三島作品に登場する 金閣寺の住職は 村上慈海と まったく正反対の人物像で 描かれている。

村上慈海は この天才作家である 三島の金閣寺を はたして どの様に受け止めていたのだろうか・

調べてみたが どうもその詳細は不明だ。 そして三島作品では 登場人物の何人かが死んでいる・

三島由紀夫自身は 昭和45年(1970年) 11月 25日 自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ バルコニーで

演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。



小林和尚との お話はこの日は まだ続いた。

「和尚は 金閣寺で得度される前は どこにおられたのですか」と私は話題をかえた。

「それより以前は 居士として祥福僧堂にいました」

「ええっ そうなんですか 山田無文老師の祥福寺ですか」 と私。

「はい そうです。 私は居士として修業してましたが 山田無文老師の元では 今の霊雲院

住職の則竹秀南老師には 大変お世話になりました」 この則竹秀南老師に お世話になった

というお話はその後も 何回か聞かされた。

そして 暫くは世間話をしてから 次のお尋ねをした。

「相国寺の塔頭の 慈雲院をご存じですか 残念にも 早く遷化されましたが先の住職だった

樋口琢堂さんを。 社会福祉法人の和敬学園で 毎年チャリィティー展を なさっていたことを・」

「はい 実は私も チャリティーには 出品していましたよ」

「和尚が出品されていたのを 私も知っていますよ。 他に 水上勉さんとか 筑紫哲也さんとか

永六輔さん 杉村春子さん それと 柳田聖山先生とかも」 と私。

「杉村春子さんは 慈雲院にも来られましたよ そうそう 映画俳優の 若山富三郎さんも・・・」

「そうですか。 知りませんでした。 私は樋口琢堂和尚の同級生であった 柳田聖山先生の

作品を購入したことがあるんですよ。 確か和尚が遷化された 津送では柳田聖山先生が入り口

から少し離れ 大きな声で一人で お経を唱えられていたのを 何故か不思議に今も覚えてい

ます。」 と私は続けた。

実は本当のことを言えば 私はこのチャリィティー展で 慈濟院の小林承鐵和尚の お名前を

初めて知ったのであったが しかし 和尚には言わなかった。



○ 2015年 2月 22日 坐禅会後の 茶礼の時

坐禅と勉強の後は 抹茶となる。このお茶の茶器の幾つかが 和尚の兄上様の名作であることも。

この日私が手にしたのは 兄上様のではなかった。兄 東五様のは 一つ何十万円の世界であろう

「お兄様は 銘は入れられないんですね」

「そうです」

「そうですか 箱書はなされるんですか」

「箱書はするんですよ」


○ 2015年 4月 26日 蕉堅会後の 花見の宴会

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「先日頂きました お兄さん 小林東五著 『遊艸』 を読ませていただきました。

住職のお兄さんは 凄いことを書いてられますね。 遺伝子を後世に残すな 子孫を残すな

凡人には言えませんね。 それと 以前若かった頃に 著名な陶芸家が 個展で 車椅子で

呂律の廻らない説明をしているのを見て 年取ったら 陶芸は辞めようと思ったと書いてられて

七十で引退なされましたから。本当にすごいですね あれは新聞に連載されていたのですかね」

「どうなんでしょう メモっていたのかな。 確かもう一冊なにか出版してますね。」


かなり前 京都でも 有名な『思文閣』で個展を開催されたという。

そして本日 お兄さんである 小林東五著作の 『 遊艸 』 が 参加者全員に配布された。


折角なので 小林承鐵和尚の兄である 小林東五氏について 簡単な略歴を紹介する。

『 小林東五 昭和10年(1935年)生 小林全鼎(雲道人)の長男として京都に生まれました。

  父の雲道人に師事して漢籍、書道、篆刻等を学ぶ。1973年渡韓して高麗陶磁を制作に

  没頭する。 昭和56年(1981年)長崎県の対馬に 「對州窯」 を築窯する。  その後

  平成16年(2004年)で古稀をもって 陶芸活動を終了し その後は文人として 生活する。

  李朝陶磁を継承する第一人者である。 』