禅のあれこれ No.99  その二

    天龍寺塔頭慈濟院 小林承鐵和尚 突然の遷化



○ 2015年 9月 20日 薫堅会 長く続いていた 絶海中津勉強会を結了して

・・・・・・・・・・・・ 省 略 ・・・・・・・・・・・・・

般若心経続いて 白隠禅師坐禅和讃。読経のあと 絶海中津の時間となった。そして終了後には

小林和尚から 次の様なお話があった。

「長い間ご苦労さまでした 八年間以上に亘って続けてきました。絶海中津のお話が 本日で終了

しました。お疲れさまでした。私の師匠 止止庵・梶谷宗忍老師が絶海語録の註解本を書かれて

ましたから ここまで続けて来られたといえます。 少しは 師匠も喜んでくれたのではと 思って

います。」

そう言って 次回からの教材 百一人首のプリントを参加者に廻すようにと手渡された。

因みに 梶谷宗忍老師は多数執筆されているが 『絶海語録』も執筆の一つである。

和尚様長い間お疲れ様でした。 凡夫の私には 『絶海語録』は 理解不能のところが多々あり

ましたが 和尚様の指導がありましたので ほんの少しだけは賢くなったきがします。

本当にありがとうございました。

それにしても 絶海語録は難しく思った。 まだ大学の碧巌録の勉強会の方が 私には

今でも 取っ組みやすいと感じている。

蛇足であるが 慈濟院の坐禅会の名称は『 薫堅会 』であるが この名前は 絶海中津の

道号の一つである 薫堅道人からの由来である。


○ 2016年 1月 24日 薫堅会後の 新年会

坐禅会が終了して 新年会である。そんなことで 初めてお会いした隣の方と会話。

「古くから来られてるんですか」

「お爺さんの代からです 檀家なんです」

「それは昔からですね。 最初来られた頃は まだ稲葉老師も若かったでしょう」 と私

「私は結婚式も ここでしましたよ」

「仏前結婚式ですか それは珍しいですね」 と私

「兄貴も この慈済院で結婚式をあげました」

「ええっ そうなんですか するっと ここで披露宴もするんですか」

「そうです 親父が亡くなった時は 今の住職にお世話になりましたよ。ちょうど 先代の

稲葉老師が亡くなられて今の住職が その職につかれた時でした。 親父がなくなって

35回忌ですから もう小林住職は35年も ここ慈済院におられるんですよね」

「それでは昔から このお寺で 何かといろいろされているんでしょうね」

「もともとね 稲葉老師は ここ天龍寺の老師になられる予定で慈済院の塔頭に来られ

たんですよ」

「ええっ 本当ですか 叱咤室 関牧翁老師ではなく・・・」

しかしここのところは 少し調べたが 本当のところはどうなんだろうか 稲葉心田老師が

関精拙老師に参禅したのは 確かに関牧翁老師が 参禅するより一年早かった。 即ち

天龍僧堂では兄弟子の立場ではある。そして法系では 稲葉老師は山崎老師の法嗣で

あって 関精拙の法嗣ではない。 私には情報が少なく 事実かどうかは不明。

「でもねある時 ここの境内地にある 有名な弁天堂でボヤがあったのです。  そして

その責任を取らされて 田舎の国泰寺に 行かされたと聞いていますね」

「そうなんですか しっかし 俄かには私は信じ難いですがね ・・・・・ 」 と私。

「あんな山奥のお寺に行ったら そら大変ですよ。 まあ前の平田老師も 老師としては

・・・・・・・ でしたしね。  大学の教授としては優秀だったでしょうがね・・・・・・」

なかなか手厳しい ご意見をお持ちの方であった。 ここの檀家の方はレベルが高い。

確かに 以前 名僧の山田無文老師が次の様に語ってられたことを思い浮かべる。

かかぁ持ち坊主・・・・・   その頃は あまり意味が解らなかったが・・・・・

それにしても ここ薫堅会の宴会では 稲葉心田老師の時代から 世話になっている方

と 隣席になることが多く いつも本当に貴重なお話を聞かせていただける。


因みに 稲葉心田老師の簡単な略歴は 以下の通りである。 因みに私は 一度も

残念ながら 相見どころか 法話提唱等も生で 拝聴したことがない。

稲葉心田老師 明治39年(1906年) 愛知県に生れる。十四歳の時 台湾台北の

臨済護国寺の山崎大耕老師について得度。その後 天龍僧堂に掛搭し関精拙老師に

参禅 その後 山崎老師に参じる。 昭和15年(1940年)に慈濟院住職。 昭和39年

(1964年)には 国泰僧堂師家・臨済宗国泰寺派管長となる。 昭和61年(1986年)1月

19日に遷化。

稲葉心田老師に 興味ある方は 滅後出版されたものですが 昔の国泰寺派機関誌

『清泉』掲載の講話をもとに発行された 『 心眼を ひらく 』 稲葉心田著 春秋社が

ある。 出版には 小林和尚も大いに協力されたと聞いている。



○ 2016年 10月 16日 坐禅会後の 茶礼

坐禅会が終了して お茶を飲みながら 和尚に尋ねてみた。

「和尚が居士として 祥福僧堂に居られた時は 何人くらい居士の方が居られたんですか」

「五人くらいいましたかね」

「そうですか 居士でしたら 接心の時だけ参加されてたんですか」 と私。

「そうではないです。 毎日ずっとです。 修行僧と同じです。 三年おりましたからね」

「達磨画を早く そして上手に描く法輪寺の佐野大義和尚も 祥福僧堂におられたのでは

あの和尚は いつも無文老師の 一番弟子が河野大通老師 二番弟子が則竹秀南老師

そして 三番弟子は 私ですと言われてましたが・・・」 と私。

「あの方は 私とほぼ 祥福僧堂では入違いで 私が出る頃 こられましたね」

こんなお話を聞くと 祥福僧堂の木村太邦老師も思い出す。木村太邦老師も出家する

前に 居士として暫く祥福僧堂におられたから。


○ 2016年 12月 18日 坐禅会終了後の 忘年会

今日の嵐山は花燈路と言って 夜ライトアップがあるのだ。年末の忘年会ということもあり

参加者が多いらしい。 始まるまでの間 話は住職の骨折の話で持ちきりとなっていた。

つい先日 自転車に乗ってられる時に 転倒して大怪我をされたという。

みなそれぞれが 大変心配している状況であった

坐禅の開始の時間となり 和尚はなんとなんと 坐られた。片脚は骨折しているので

片脚を 投げ出した様な感じであるが 坐られたのである。ただただ 吃驚であった。

そして いつもより早い 宴会の席となった

和尚が再び入場されて そして坐された。最初に忘れていたというのでお経を唱和。

そして 宴会は 缶ビールを開けて乾杯から始まった。 正直なところ 和尚が喋っている

意味が何故か 時々 この日は解かりにくかった・・・  ぼんやりとした不安。


そして ちょっとだけ和尚と話をした

「大森曹玄老師にも 習われたのですか」

「はい そうです」

他にもいろいろとお話したが、正直なところ 聞いていて 何故か意味不明な所があって

何となくではあるが 和尚は以前と比べ 老けてしまわれた感じがしてしまった。

やはり骨折ということが よほど大変な 出来事だったのであろうと思われた。

いつもいつも 自転車で移動されていたと聞いていたから。 例えば トイレに行くのも

まだまだ 大変不自由なのであろう。 早いご回復を 心より願うばかりである。


以下は 後日に加筆した。

その時 お会いした時から 遷化されるまで 一度も完全には 身体と精神ともに

完全な回復をされなかった印象を お和尚様の遷化後私は思っているのである。

もっともっと お身体をご自愛され 長く休養されていれば・・・ と 今となってからは

強く思う次第である。