法燈国師は どんな僧

                  個人的意見




さて、ここ妙光寺の開山である 法燈国師ですが 学者宗教家一般の方の大変多く

の方が以前より 書物やネットで 書かれて 論述されています。

その膨大な情報に対しまして 正誤を極めることは 大変多くの書状書類書籍など

を具に 研究しない限り 真実には近づけないでしょう。

私には その能力もないし 年齢的に時間もありませんので 以前より『 法燈国師 』

に関して 抱いている 法燈国師の人間像 僧侶像を 批判覚悟でまとめてみました。

若干 法燈国師を美化しているかもしれませんが そう思われた方には あらかじめ

お赦しを乞う次第です。



◎ 01 東密 台密 どちらも学ぶ  葛山景倫との出会い

無本覚心は 29歳の時に東大寺で具足戒を受け 最初は高野山伝法院などで真言密教

を学び 金剛三昧院では 栄西の流れの 天台密教の一派である葉上流も学んでいる。

国師は最初は 真言宗の密教に興味を持たれたのではないか。 ただ高野山と言っても

金剛三昧院は 公家貴族ではなく 当時の新興武士勢力であった武家である 鎌倉幕府

が開基であった。 そこで法燈国師が学んだのが 栄西の法嗣 退耕行勇であり 栄西の

後継者であり 葉上流の承継者でもあった。

禅の最初のキッカケは やはり 栄西の法嗣 退耕行勇であろうか・・・・・

そして 高野山では もう一つ大きな運命的な出会いがある。

それは 葛山景倫(後の願性)との出会いである。 この出会いがなければ ずっと支援を

してくれる 人物はいなかったかもしれない。



◎ 02 退耕行勇が もしも ・・・

33歳の時、退耕行勇に従って、寿福寺に移ったが、師の退耕行勇が遷化した。

もし行勇が あと五年程長生きしておれば 無本覚心は入宋したであろうかと 素人は

ついつい考えてしまう。

何故 実は行勇が遷化したため 無本覚心は 京都にいる 道元に会ったのである



◎ 03 道元との相見

1242年、深草の興聖寺(極楽寺)に、道元を訪ね菩薩戒を受けたのである。 この時 既に

道元は有名であり 比叡山からは 激しく弾圧を受けていた。

私は 道元と 無本覚心の二人が 何を話したのか大変興味があるんですが どうも何も

書としては 残っていないようです。 

二人の年齢差は 七歳違いです。 いえば兄弟のようなものですか。 道元の日本での

師は 明全 そして無本覚心の師は 退行行勇であり 両者の師匠は 明庵栄西ので

あるから 法系から言うと 従妹兄弟ともいえる。

しかし この時既に 道元は宋に渡り 如浄の法嗣となった帰国僧で 日本曹洞宗の創始者

であり 一方の 無本覚心は師の行勇をなくし 無念の境地にあったと思われる。

ただ 道元は 二人が出会った翌年には 京を離れて 遠く越前に行ってしまうのである。

これも 運命的な出会いであって いろいろと考えてしまう。

言えるのは 行勇の遷化が もう少し後であれば 二人は出会っていないのでは・・・・・ ?

また 道元が 越前に行かなかったら 無本覚心は 道元の門下に入ったか・・・・・・・・ ?

無本覚心が 道元の門下に入った可能性は 結構あったのではないかと 思っている。

だれか 私のこの意見に同調してくれる方は いないのであろうか。



◎ 04 釈円栄朝に参ずる

1247年上野長楽寺で、釈円栄朝に参じた。やはり 栄西の流れをこの時はまだ 見つめて

いたのかも知れない。ただ僅かその一年後くらいに栄朝は遷化する。

栄朝は行勇とほぼ同世代であり、無本覚心が栄朝に参じた時は 既に 82歳であった。

考えると 無本覚心の一生は 運命的な出会いと 別れの連続の様な感じがしてならない。



◎ 05 勝林寺の天祐思順は 禅僧なのか 天台僧なのか それとも・・・

無本覚心が この勝林寺にいる間に 入宋を決意したのは どうやら歴史的事実の様に

思われる。

さて 天祐思順であるが どうもはっきりとしない。 生没年が共に 不明となっている。

思順は、最初天台を学んでいたが、宋に渡り北澗居簡(1164-1246)に参禅し、その法嗣

となっている。帰朝して 南禅寺(当時はまだなかった)の近くに勝林寺を創建したという。

この天祐思順は 入宋した期間が十三年 他の説では 十五年とも言われている。栄西は

二度の入宋をしているが 滞在は通算で 五年ほど。 道元も五年に満たない。

東福寺の開山 円爾でやっと 入宋期間が五年を超える。

大燈国師の師である南浦紹明が 1959年入宋して 帰朝したのが 1267年である。

十年とかなると 仏通寺の開山である 愚中周及が 入元してほぼ十年・・・・・・

数十年となると 黄龍派の流れを宣言した 龍山徳見の四十年が・・・

もちろん 長いのが 良いとは限りませんが・・・

どちらにしても 無本覚心が 勝林寺にいたことが 入宋を決意させたの大きな要因

だったと言える。 少なくとも 決断に大きな影響を与えたのは 間違いない。


◎ 06 円爾との相見  そして無準師範の示寂

円爾には 入宋して自分の師である 無準師範に参ずることを すすめられたという。

しかし 無準師範は遷化していた。無本覚心の人生には 人の死が付きまとっている。

さて 無本覚心は入宋する時には 既に中国の言葉は 話せたのであろうか? ? ?

はっきりしているのは 円爾は僧に渡る前 九州で商人の中国人宅に 長い間

ホームステイしていたから 恐らく話せたのではと・・・  何となく思っている。

道元や栄西は どうだったんだろう。 まぁ読み書きで 筆談は十分可能であったで

しょうが・・・   実際はどうなんだろう。 まぁ建仁寺には 確かに中国僧も滞在はして

いたでしょうが・・・  ただ一説では 道元は話せたとか・・・ 私には わかりません。

しかし 言えば 遣唐使の時代の 空海が話せたという逸話があるから それが本当

ならば 道元や栄西が 話せても不思議ではないのかも知れない。



◎ 07 無門慧開に相見

入宋したのが 1249年で 正師である無門慧開に相見するのが 1253年・・・

なんと長い時間が経過しているのであろうか。

そう言えば道元も 師の如浄禅師に相見するのに 相当長い時間が経過していた。

比べると 空海が師匠の恵果に会ったのが 奇跡的なことの様に 思われる。


無門慧開は「 お前が来るのがはなはだ遅かったのではないか? 」

どうもこのセリフ 恵果が 日本から来る 空海が来訪するのを待っているのと似ている。

そして 無門慧開から 臨済宗楊岐派の法を嗣ぐのは 早かったようだ。

如浄から 曹洞宗の法を嗣いだ 道元の時と似ている様に思われる。


それで 無本覚心は 一体どんな人物で僧侶であったのであろうか ・・・・・・・・・・・・・

わたしには まだ 残念ながら 結論が出ておりません。

次回は いつになるか解りませんが 『 法燈国師 』 第3弾として 帰国後の

法燈国師などなど 書きまとめたいと思っています。