No90. 法燈国師(無本(心地)覚心)


今回、以前より『 禅のあれこれ 』の一つとして 是非とも ラインナップしたかった

『 法燈国師 』を今回No90として 付加することといたしました。

これにつきましては 私の持っている情報と 今回は次の3つの書やホームページ等

なども十分に参考にしつつ 作成しております。

一つは 『 鷲峰開山法燈円明国師行実年譜 』です。

一つは 常に頼りにしている ウィキペディアの 『 心地 覚心 』です。 何故か無本

覚心でなく心地覚心の名を使用しています。

参考までに ウィキペディアは 次をクリックするとご覧になれます。

ウィキペディアへ


一つは 以前にも書きましたが 『 かげまるくん行状集記 』の 「本朝寺塔記」にある

「京都十刹」に書かれている 第八位『 妙光寺 』です。

ご覧になりたい方は 次をクリックください。

かげまるくん行状集記 妙光寺へ





  ☆ 法燈国師 無本覚心 心地覚心 の年譜と略歴 ☆

1206年(建永元年)信濃国筑摩郡神林郷(現在の長野県松本市)で誕生する。俗姓は

恒氏で、または常澄ともいわれる。

1221年(承久3年)15歳の時、神宮寺に入って忠学律師について仏書を読み勉学する。

1225年(嘉禄元年)出家して、東大寺で授戒(具足戒を受ける)。その後、高野山で伝法

院主覚仏や正智院道範から真言密学を修める。

1239年(延応元年)33歳の時には、栄西の法嗣である退耕行勇に従って、鎌倉の亀谷山

寿福寺に移った。しかし師の退耕行勇が遷化したため、しばらくして寿福寺を去ったという。

1242年(仁治3年)京都の深草の極楽寺に、日本曹洞宗の宗祖である道元を訪ね菩薩戒を

受けたのである。道元が無本覚心に授けた戒脈の原本は散失したが、奥書の写本が豊後

泉福寺に現存しているという。

1247年(宝治元年)上野長楽寺で、今度はこれまた栄西の法嗣である釈円栄朝に参じた。

1248年(宝治2年)しかし栄朝が遷化したので、今度は栄西の孫弟子で栄朝の弟子でもある

寿福寺の蔵叟朗誉に参じた。その後京に入り勝林寺天祐思順に参じた。

天祐思順は、最初天台を学んでいたが、その後宋に渡り拙庵徳光(1121-1203)の法嗣で

ある北澗居簡(1164-1246)に参禅し、その嗣となった。言えば日本達摩宗の法系ともいえる。

そして宋に居ること十数年、その後帰朝し、京都に勝林寺を創建していたのである。

勝林寺に滞在したことにより、法燈国師は遂に入宋の志しをいだいたのである。

また東福寺に円爾の聖一国師を訪ねると、円爾からも入宋して自分の師である無準師範

(1177-1249)に参ずることをすすめられた。

1249年(建長元年)覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、入宋した。すぐに

径山におもむくのであるが、残念なことに円爾の師である無準師範が既に示寂していた。

それで、径山の癡絶道沖に参じた。

1250年(建長2年)道場山の荊叟如珪に参ず。その後、四明、育王、五台山、大梅山等ほ

とんどの霊場をめぐった。

1253年(建長5年)

47歳の時に大梅山で、日本人僧の源心なる者に会ったので、「久しくこの方に参じているが、

明眼の知識に遇うことはないか」と問うた。源心が「無門和尚は一代の明師である。ただち

に赴いて参見すべきである」と答えた。

そこで霊洞山護国仁王寺護国寺に赴き、無門慧開(1183〜1260)に面会した。

  無門慧開  「 我が道裏に門はない。どこから入ってきたか? 」

  無本覚心  「 無門のところより入りました 」

  無門慧開  「 お前の名はなんだ 」

  無本覚心  「 覚心 」

 無門慧開は 「 心は即ちこれ仏。仏は即ちこれ心。心仏如々にして、亘古亘今なり 」という

 偈を送り、印可を与えた。すなわち遂に臨済宗楊岐派の法を嗣いだ。

無門慧開は「 お前が来るのがはなはだ遅かったのではないか? 」といい、扇子をあげて

「 見たか? 」と問いかけた。これによって無本覚心は言下にして大いに悟った。9月28日の

ことであった。無門慧開は『対御録』2冊と袈裟1頂を無本覚心に与えた

無門慧開が無本覚心に授けた袈裟が、ここ妙光寺に伝法衣である伝承がある九条袈裟が

現存している。 但し 私はまだ一度も拝見したことがない。(´;ω;`) 為念。

1254年(宝祐2年)3月27日、無本覚心は再度護国寺に赴いて、無門慧開に帰国の意志を

伝えた。無門慧開は 達磨・寒山拾得の掛軸画賛3幀、『月林録』そして『無門関』を授けた。

『無門関』は、中国では伝本が失われたために、日本において流行り、現在まで至っている。

その『無門関』の古い底本が妙光寺にもあったらしいが 現在建仁寺の塔頭である大中院に

存しているものがある。因みに私は これまたまだ一度も見たことがありません。 (´;ω;`)

『無門関』は法燈国師自身の指導法にも影響を与え、公案として無門関第一則、「趙州狗子」

(もしくは趙州無字とも言う)が法嗣の恭翁運良(1267〜1341)等に対しても使用されたという。

1256年(建長8年)師の無門慧開に書簡と水晶珠数等を贈っている。このように師弟の交流は

無本覚心が帰国後も続いた。

1257年(正嘉元年)金剛三昧院の住職(第6世)となる。

1258年(正嘉2年)禅定院住持を退き、由良に戻り、地頭の葛山景倫(願性)の要請によ

り、西方寺(後の興国寺)の開山となった。そして紀州で遊び、その絶勝を愛してここを

終焉の地にしようと思ったのである。

1260年(文応元年)仏眼より書並に法衣一頂、七葉の図一舗を寄せ来る。

1266年(文永3年)それまで全く親孝行出来なかったことから、親孝行のため、信濃国

にいた母を由良に連れ帰ることとした。その道中は僧侶の衣服をすて、普通の平民と

なり母の後ろに従った。母のため修禅尼寺を造営して母の法号を妙智とした。

1267年(文永4年)母妙智が示寂し、寺の東南に墓を設け葬った。ここには無本覚心の

姉妹も葬られている。

1268年(文永5年)鎌倉の亀谷山寿福寺の住持が空席になったため、住持に招かれたが

固辞したのである。

1275年(建治元年)十二月十八日、安国寺像納入梵字真言・偈文。

1276年(建治2年)葛山景倫(願性)が、看病むなしく4月23日に示寂した。願性とは高野山

で出会って以来、半世紀近くが経っていた。そしてずっと 法燈国師の援助者であった。

1281年(弘安4年)亀山上皇(1248年 - 1305年)は無本覚心を京都勝林寺に住まわせて、

禅について尋ねていた。そして離宮を改めて禅林禅寺(後の南禅寺)にしようと、無本覚心を

開山に招請したが、高齢を理由に辞退し徒弟らと南の由良西方寺に帰った。

1285年(弘安8年)無本覚心が79歳の時、内大臣花山院師継が長男の追修のため、北山仁

和の別業を改めて妙光禅寺としていたのを、父師継の命にしたがって、寺にて無本覚心を

迎えることとし、無本覚心を妙光寺の開山とした。しかし、ほどなく再び紀州に帰還する

のである。

1294年(永仁2年)十二月十日、妙光寺蔵九条衣墨書。以後南紀に於いて教化活動に力を

尽くす。

1298年(永仁6年)十月十三日寂。後年には、亀山上皇が法燈禅師と勅謚し、後醍醐天皇

が、重ねて法燈円明国師と追謚する。