No92.帰朝後の法燈国師の なぞ

               そして 個人的な推察



項目を絞って 考えてみましょう。 次の三つのことです。

一つは 臨済宗との関わりあい・・・

一つは 浄土宗の一遍上人との関係と 念仏聖 萱聖について。

一つは 曹洞宗との螢山常謹 そして弟子を通じての 曹洞宗との関係

一つは 法燈国師と 妙光寺の微妙な関係



◎必ずしも帰国後の話とは いえないけれど 最初に臨済宗との関わり合いについて

法燈国師は 誰の弟子であるかと言えば 最初の経緯から考えれば やはり栄西の

一番弟子と思われる 退耕行勇の弟子である。  もしも 行勇が後十年長生きして

いたならば 退耕行勇の後釜として 鎌倉幕府の支援を受けつつ活躍し 態々渡宋

する意志も 抱かなかったかもしれない。

こうして師匠とした行勇が亡くなり また栄朝も長く仕えることなく 直ぐに遷化してしまった

ので 栄西の孫弟子として活躍出来る道はかなり難しくなったのではないかと思われる。

その後 曹洞宗の道元や あまり一般的には有名な人物ではないが 天祐思順に会った

ことで 入宋の意思を固めた後に 既に宋から帰朝していた 円爾を訪ねたと見られる。



◎次によく書かれているのが 踊念仏の一遍上人との関係です。 

まずは ウィキペディアから引用します。

《《 法燈国師と一遍上人

多くの僧が法燈国師(無本覚心)に参じたが、時宗の開祖である一遍上人も参禅して

いた。『一遍上人語録』には「身心を放下して、無我無人の法に帰しぬれば、自地彼

此の人我なし」との記述がある。 さらに、一遍上人は、法燈国師に禅の印可を受けて

師弟関係にあったと言われる。 『 法燈国師行状 』(花園大学図書館蔵)によれば、

高野山萱堂法燈国師に見参して公案「念起即覚」の禅語が与えられたという。

一遍の初見参の歌に、『 となふれば 仏も我も なかりけり  南無阿弥陀仏の 

声ばかりして 』と、師(法燈国師)に差し出す。師、未徹在と。

次いで一遍は、『 棄はて、身はなき物と 思ひしに さむさ来ぬれば 風ぞ身にしむ』と、

ついに印可が与えられた。 》》
                          以上 ウィキペディアより引用


通説では臨済宗は 江戸時代の初めに 中国僧の隠元によって 伝えられた黄檗宗が

もたらされたことにより 念仏禅が成立したとされている。

しかし、実際には法燈国師のように 鎌倉時代の初期に 既に念仏聖の集団を支配した

念仏禅教団が存在したのである。

言えば法燈国師は 高野山ではそれらの中心的な人物であった可能性があると考えられる

のではないだろうか。



◎次に 曹洞宗との関係について

法燈国師が1242年(仁治3年)に 道元禅師より 菩薩戒を受けたことから始まっている。

その後は 瑩山紹瑾(1268〜1325)を通じて述べられることが普通である。 そして

ここは 『 かげまるくん行状集記 』のホームページから 引用させていただく。


《《 曹洞宗との関係

この瑩山紹瑾にも「法灯(無本覚心)が南紀の興国寺(西方寺)にいる時、師(瑩山紹瑾)は

赴いた。 (無本覚心は瑩山紹瑾を)一見して大いに称賛し、(瑩山紹瑾はここに)留まって

冬を過した」(『日本洞上聨灯録』巻第2、能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師伝)とあるように、

無本覚心参禅説話があるが、多くの瑩山紹瑾諸伝が触れていないため、積極的に両者の

関係を見出すことは難しい。 しかしながら、無本覚心の法嗣である恭翁運良・孤峰覚明は

実際に瑩山紹瑾のもとに参禅しており、その後も無本覚心の法脈である法灯派と曹洞宗の

関係は続くこととなる。 》》

                               『 かげまるくん行状集記 』より引用



さて 法燈国師こと 無本覚心の法燈派の法系を下に 列記してみることとする。

                   
法燈派は 次の通りである。



無本覚心
 − 孤峰覚明 − 抜隊得勝
                − 
慈雲妙意
                − 聖徒明戯
                − 古剣智訥

       − 無住思賢

       − 無伴智洞

       − 東海竺源 − 無伝普伝
                 − 在庵普在
                 − 仲立一鶚

       − 高山慈照 − 大歇勇建

       − 
恭翁運良 − 絶岩連奇

       − 嫩桂正栄 − 信仲自敬

       − 孤山至遠 − 自南聖薫



一番弟子と思われる 孤峰覚明であるが 紀伊興国寺に行き無本覚心に参禅している。

しかし 孤峰覚明は そのほかにも高峰顕日さらには南浦紹明にも師事している。

更に 中国へ行き 有名な中峰明本にも参じている。帰国後も 南浦紹明 曹洞宗の

瑩山紹瑾にも仕え その後は師匠である無本覚心の由良興国寺や宇多野妙光寺にも

住している。

孤峰覚明はその直弟子に 有名な慈雲妙意と抜隊得勝の二人を輩出したことでも知ら

れている。

慈雲妙意は 国泰寺の開山として知られているが 円覚寺建長寺の他 曹洞宗の瑩山

紹瑾にも参禅し その後は師匠の孤峰覚明に同行して、無本覚心に参禅している。

そして もう一人の直弟子 抜隊得勝は 向嶽寺派の派祖として有名で 孤峯覚明の

法嗣でもある。


また孤峰覚明と共に もう一人の弟子である 恭翁運良も よく知られている。

恭翁運良は 興国寺の心地覚心に師事し法を嗣いだが その後も 南浦紹明にも師事

したり 曹洞宗の大乗寺の住持にもなっている。

よく考えると 曹洞宗の瑩山紹瑾、そして臨済宗の心地覚心や南浦紹明に師事しており

孤峰覚明とその師事した人物が なぜか共通している。

これらの弟子たちを見る限り 法燈派は その立ち位置を推察するに 結構複雑であると

言える。法燈国師は 日本では栄西の一番弟子の退耕行勇に仕えると 同時に曹洞宗の

道元に菩薩戒を受け そして 瑩山紹瑾と交流があった。 そして 宋では 大慧宗果の

流れの法嗣となっており これは日本で言えば 達摩宗の流れと近い。 そしてその後

日本では結局 道元の曹洞宗に 達摩宗の多くの人達が道元に帰依していくのである。

そう考えると やはり法燈国師も 運命的に臨済宗と曹洞宗の 双方の谷間に位置して

いたともいえるのではないか。

無本覚心に師事していた 弟子の多くたちが 曹洞宗の瑩山紹瑾にも師事しているが

一方では臨済宗の応燈関の祖と言われる 南浦紹明にも師事していることからも推察

出来るのではないか。



◎法燈国師と 妙光寺の微妙な関係

個人的には この問題に私は一番興味を注いでいます。 何故かと言えば はっきり

しているのは法燈国師こと 無本覚心が 妙光寺には そんなに長く滞在していたと

いうよりは 僅かの日数しか滞在しなかったと 考えられているからである。

言えば 法燈国師は1258年由良に戻って 西方寺(後の興国寺)の開山となった。

そしてこの時 すぐに由良の西方寺の地を 生涯の終焉の地にしようと 決めたのでは

ないかと考えられる。

そんなことから 信州に住んでいた母も西方寺に呼び寄せた。 また 鎌倉の寿福寺の

住持を固辞し 更には亀山上皇の願いである 新しい禅林禅寺(南禅寺)の住持も

法燈国師は固辞したのであろう。

そんな事情を抱えつつも 止む無き関係から 妙光寺の開山となった。 しかし

法燈国師既は 既に七十九の高齢であったためか または宇多野は紀州由良から遠く

慣れ親しんだ由良の 西方寺と比べると住みつくのには 高齢を考慮すれば 極めて

難しい面があったのではないかと思われる。


そんななかで 一度 妙光寺を電撃的に訪れている。

ここも  『 かげまるくん行状集記 』のホームページから 少し引用させていただく。


《《 鷲峰の老師が来臨

・・・ 妙光寺の徒衆は力をつくして妙光寺を造営し、・・・ しかし無本覚心は西方寺に

留まったままで京都に来なかったため、徒衆は無本覚心がやって来て妙光寺の寿塔に

留まることを望み、使を西方寺に遣わした。西方寺では衆議が行なわれ、「前年に天皇

のお心に背いて密かに西方寺に帰っておいて、今また寿塔のために上京し、かつ重ね

て徒弟の私とするのであれば、礼においては不遜である」としたため、再三妙光寺の

使はむなしく戻るだけであった。 ・・・途中略・・・ 

西門を急にコツコツと叩く音がして、行僕が声高に「鷲峰の老師が来臨された」と報告

した。議席の衆は驚喜感泣し、多日の鬱憤が釈然と晴れた。》》

                             『 かげまるくん行状集記 』より引用


個人的な気持ちとしては 法燈国師には もう少し 都の京に滞在していて欲しかったと

常々思い続けています。 言えば 法燈国師は 本当に紀伊由良を愛していたのだと

思いますね。