コラム 過去ログ
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コラム
■「取り返しのつかないこと」をやらない
 最近、若い人が容疑者の凶悪な殺人事件が相次いでいる。マスコミが容疑者の近所への取材で報じられることに、「まさかあの子が」とか「礼儀正しいいい子」などがある。このことは、最近の傾向と言うよりは昔からあったのかも知れない。ただ、このような意外な容疑者像や犯人像のニュースに触れるたびに、どうして殺人にまでいく着くのかということと、そんなことをしたら取り返しがつかなくなるという思いがなぜ沸き起こって来なかったのかという疑問とともに、非常に残念だという気持ちになる。
 正確には覚えていないが、確か10年くらい前に作家の大江健三郎が新聞紙上で若者に向けて「取り返しのつかないことをやらない」という趣旨のことを述べていた。この言葉は非常に重い、価値のある言葉だと記憶にとどめてきた。
 いままさに、この言葉を若い人に伝えたいと思う。自分の行おうとしている行動がどれだけ相手を傷つけることになるのか、周りの人にどれだけ迷惑をかけ悲しませることになるのか、実行に移す前に想像力を働かせて欲しいのだ。やってからでは遅いのである。
 このことは若者だけにいうのはおかしいかも知れない。いまは、大人も政治家も国も「取り返しのつかないことをやらない」と全世界で共有化すべき時代だと思う。それが生を受けている人間の知恵、役目ではないだろうか。(2014/03/04)


■あふれるポエム
 一月十四日に放映されたNHKクローズアップ現代のタイトルが「あふれるポエム」であった。居酒屋や介護の会社で働く若い人が一同に集まりイベントを開催するという内容であった。職場で盛り上げる言葉をそれぞれの会社の従業員が発表し競うもの。どの言葉が心を打ったか審査員が判定するものであった。
 短い言葉は耳触りのよい、シンプルな標語みたいなものである。それを詩として着飾るように言葉を操るのである。少し寒気を感じた。なぜこのようなイベントが生まれたのかと考えてみた。恐らく、従業員の定着化、さらにはノルマ達成による業績向上のための仕掛けの為に業界あげて取り組んできたのだと思う。なぜならば、飲食業界、福祉業界は他の業界に比べて仕事がきつく、その割には賃金も安く、離職率の高い業界である。その歯止めのために企画されたのではないか。それ自体は企業にとっても従業員にとっても、いいことかも知れない。ただ、、仲間意識の醸成には役立つと思うが、一方、同調圧力になっていないか気がかりであった。つまり、同じ言葉を標榜し、みんな一丸となって仕事をすすめるのはメリットもあるが、異なる意見を受け付けない、いじめ、あるいは排除につながるという危険性、デメリットもあるのだ。
 心地よい言葉の流行現象を社会学者は「ポエム化」と呼んでいるらしい。この兆しは確かに目につく。例えば、安倍総理が「美しい日本を再生する」などと叫んでいる。この意味はわからない。むしろ、警戒してしまう。オブラートに包まれた危険なマグマを感じてしまうのである。安倍総理も不戦の考えを表明しているが、その意志とはうらはらに言葉の独り歩きが、国民を一つのベクトルに誘導してしまう怖さがあることは、かつて戦争に突入していった日本が経験しているところである。
 あいまいな言葉や表現が日本人らしい気遣いでもあるのだが、使い方を誤るととんでもないことになる危険をはらんでいるということを私たち一人ひとりがいつも認識しておくべきではないだろうか。(2014/01/17))


■幸先よいスタート
 今年の箱根駅伝は母校の東洋大学が昨年の雪辱を果たし、往路・復路の完全優勝を遂げた。正月は箱根駅伝をテレビの前で観るのが毎年の恒例になっている。往路は設楽兄弟を投入したので復路は戦力不足で苦戦するかもしれないという危惧を抱いていたが、なんのその、むしろ二位以下とタイム差を広げてアンカーの大津君が圧勝のゴールテープを切ってくれた。
 「一秒を削り出せ」と腕にペンで書き記しすべての選手が攻めの強い気持ちを持ち続けたのが印象的だった。伝説の大会となろう。
 以前は柏原くんという驚異的な怪物選手に頼っていたが、今回は控え選手を含めたメンバー全員で勝ち取った勝利であろう。一人ひとりの自覚が芽生え、主体性が生まれたと推測される。
どうすれば優勝できるか、恐らく監督はじめ選手全員で考え抜き、プランを立て、それに愚直に取り組んできたプロセスが功を奏したものであろう。
 優勝という結果以上に、優勝を引き寄せたプロセスに注目したい。目的と目標を明確にして、実行していく、課題点が見つかれば、それを修正してまた取り組んでいく。このプロセスは、まさしくPDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)サイクルだ。PDCAサイクルは社会に出て仕事に取り組むときには欠かせない思考である。
 駅伝を通じて彼らはマネジメントの重要性を学んできたのである。卒業する選手は、さまざまな職場に入るわけだが、このPDCAサイクルを忘れず、主体的に課題に取り組み、チーム目標を達成していって欲しいと願う。駅伝というスポーツが仕事と深く関係していることを理解し、誇りを持って社会に巣立って欲しい。
 私にとって、幸先よい年初めとなった。自らのこれからの一年を彼らに負けないよう努力しようと決意をあらたに持てた。
感動をありがとう東洋大学陸上部!(2014/01/04)

■九州を旅して
10月17日から23日まで一週間の九州の旅が終わった。終わってみればあっという間の一週間であった。退職してから時間だけは十分にあり、家の一大イベントも無事済んだので夫婦で思いきって出掛けることにした。
主目的は墓参りであったが、長崎の原爆資料館への訪問とお世話になった方々との交流も大事な目的だった。そのような訳で観光の趣は少し押さえた旅となった。
長崎の原爆資料館を一度訪ねたいと思ったきっかけは、数年前に広島の原爆資料館を訪ねたことだった。広島に初めて足を運び、その惨状の写真、展示物を観て、その凄まじさ、人間の業、そして、なぜもっと早く訪れなかったのかという自責の念にかられ、いつか機会をつくり、長崎も訪ねなければならないという想いを抱いたのである。
人間はなぜ戦争をするのかという問いに、いつも頭の隅に置き、自分なりの答えを考え続けることが責任であると思っている。そして、次の世代に伝えて行く役割も担っているのである。勝負にはどちらかが勝ち、どちらかが負けることはあるが、「戦争には勝者はいない」という詩人の言葉が重い。
お世話になったかたとの宴の酒は美味い。博多の一口餃子の懐かしさ、ヤリイカ、ゴマサバのおいしさに焼酎がすすむ。親戚の家では、釣って来てくれたふぐをふぐ刺しにしてくれ、その身の分厚さに圧倒されながらいただいた。
ゴルフでは二日間とも天気に恵まれ、最高に楽しかった。
ある友は、「よく遠いところを訪ねて来てくれてありがとう」と言葉をかけていただき、その言葉にこちらこそ感激し思わず、涙にむせびそうになった。
いずれにしても、こちらの勝手な都合にスケジュールをさいていただき、迎えていただいたことに感謝するのみだ。
手紙やメールもいいが、同じ場所で同じ空気を吸い、語り合う楽しさは格別である。やはり、人間一人で生きているわけではないと思う。お会いしたみんなからこれから生きて行く力をいただいた気がする。お互いに健康でまたの再会を楽しみにしたい。(2013/10/25)


■二人に幸あれ
肩の荷がやっと降りました。
2日前、娘の結婚式が銀座でありました。
遠いところからかけつけていただき、また多くの方々から過分のお気持ちをいただき、ただただ感謝しかありませんでした。
娘の結婚はいつかと気にしていましたが、いい人に巡り合えて良かったです。新郎は心穏やかで仕事熱心な青年で、心から良かったと思っています。
披露宴もふたりでいろいろなサプライズを計画していて驚きました。
二人の行く末には困難なことも出て来ると思いますが、力を合わせて乗り越えてくれるものと確信しています。
泣く事はあり得ないと思っていましたが、新郎のお父様、二人のお礼の挨拶が始まったら隣の妻のすすり泣きが聞こえてきてしまい、つい涙目になってしまいました。
近頃、歳と共に涙線も弱くなってきたからしかたないのかも知れません。
いまは、肩の荷も降り、ホットしていますが、少し寂しさもあるのが正直なところ。
当たり前ですが、朝起きたら娘はいないわけで、妻と二人きり。静かです。しかし、よく考えてみれば、この静けさも妻と二人して味わっていけるのでこれはこれで良いのではと思っています。
人は縁に囲まれて生きているのだととつくづく思います。
これからも「一日一生」、「無財の七施」を念じつつ暮らしていこうと思っています。(2013/10/07)

■藤圭子さん安らかに
 8月22日歌手の藤圭子さんが突然亡くなられました。またひとり大スターがいなくなり、とても残念です。藤さんがデビューしたのは、1969年9月でした。私がレコード業界に入社する7ヶ月前です。デビュー曲は『新宿の女』。彼女が17歳の時です。暗い背景に真っ黒な服を着て、長めのおかっぱの髪で白いギターを抱えていたジャケット写真がとても鮮烈でした。そして、なによりも特徴的だったのは声でした。どすの効いたハスキーの声が、その歌詞ととてもマッチしていました。当時のレコード会社はRVC。アメリカのRCAレコードのR、Vは日本ビクターのV、CはコーポレーションのCから付けられた名前です。現、ビクターエンタテインメントです。
 私は問屋に入社したのですが、1年間は商品係でした。商品係というのは、レコード店から注文の電話を聞き、注文書に書き、それを見ながら沢山の商品棚から間違いのないようにレコードをピックアップし、レコード店に発送する仕事です。間違いのないようになとど書くと、当たり前に思うかも知れませんが、ご存知のように曲は似たようなタイトルがたくさんあるのです。そのため、レコードには(今のCDも)必ず、レコード番号というものがあり、レコードジャケットに印字されています。レコード店の人も、注文の時は、できるだけレコード番号で注文するわけです。ヒット曲になると、その番号を聞いただけで、どのレコード会社のどの曲かすぐわかり、ピックアップするための探す時間かかりません。だから、商品係はレコード番号を必死に覚えたものです。
 このレコード番号のことで面白い話があります。例えば『新宿の女』のレコード番号はJRT1077です。彼女のレコード番号は必ず末尾の数字が7でした(例外は1枚ありましたが)。『圭子の夢は夜ひらく』もJRT1077でした。末尾に7をつけた理由は、確かラッキー7からと聞いた覚えがあります。もしかしたら誕生月の7月にもかけていたかも知れません。同時期に同じレコード会社に内山田洋とクールファイブがいました。ヴォーカルは前川清さんです。彼らのレコード番号は末尾の数字がいつも5でした。これはクールファイブのファイブからきたものです。ちなみに藤さんと同じ年に発表したデビュー曲の『長崎は今日も雨だった』はJRT1015でした。レコード業界はヒットするようにゲンを担ぐのが習わしでしたので、また、レコード店に覚えて貰いやすいように、そのようになったと思います。
 私は2年目からレコード店を廻る営業係になりました。ある日、栃木県にあるお得意先の百貨店で藤さんのサイン会があり、同行したことがありました。サイン会とは、歌手の方が新曲のPRのために、レコード店などに出向き、その場で数曲歌って、その新曲を即売する訳です。そして、買ってくれたファンにその場でサイン色紙を書いて渡すのです。
 会場に案内する時にエレベータの中で向かい合わせになりました。意外と背が小さいと思いましたが、胸がドキドキしたことをはっきりと覚えています。
 藤圭子さんのご冥福と残された宇多田ヒカルさんのご活躍を心よりお祈りします。合掌。(2013/08/25)

■入院体験を終えて
 ポリープの除去手術を経て退院してから一週間が過ぎた。当初手術後一泊で退院と思っていたが、3泊もかかってしまった。手術前は少し怖かったが、手術中も案外痛みはなく1時間半という長丁場であったが、耐えられた。
 退院してまず思った事は、入院したのは久しぶりなのに気付いた。高校生の頃に入院したことがあったが、それ以来なのである。なんと50年振りということ。考えてみたらサラリーマン時代に一度も手術や入院がなかったのは、喜ぶべきことである。でも、他の高齢者の入院頻度がどれくらいか承知していないが、まずは健康であったということだろう。
 今回の手術に至ったのは初めての人間ドックでの診断が契機であった。退職前に一度検査を受けてみようと思ったのである。これも時期ということだったんだろう。
 さて、手術後、二週間は重たい物をもたないこと、遠出の旅行は避けること、飲酒は控えることと指示された。最近は少しずつ歩き始めたが、足の筋力が衰えているのがよくわかる。自分の足で地面をしっかり押さえている感覚が弱いのである。
 今日で酒を絶ってから、12日目。こんなに長く酒を飲まないのも初体験だ。いつから飲むか、決めている。8日からの予定だ。ああ、待ち遠しい。当然ゴルフもお休み。まあ暑いから丁度いいかと思っている。その代わり、毎日パターマットを敷いて、パターの練習をやっている。やはり毎日やっていると、パターが上手くなっている感じがする。これも楽しみのひとつにしようと励んでいる。
 食べ物に、家族に、友人に感謝しつつ、早くグリーンにあがりたいものだ。それまでは我慢我慢、節制あるのみ。(2013/08/04)

■認知症予備軍になりたくない
 厚生労働省によると、いま認知症の65歳以上の高齢者が462万人いるらしい。
65歳以上の人口は3079万人なので、なんと15%にあたる。それと怖いのは認知症予備軍
が400万人いることだ。65歳以上の4人に1人が認知症とその予備軍となる計算である。
 先日、ある団体の旅行に参加してきた。ここでハッとする出来ごとに遭遇した。
まず、人の名前が出てこないのだ。3名のうち、1人は久しぶりにあったし、無理もないが、2名は定期的な会合で顔を合わせているのである。そのうち、一人に対して、別の名前を読んでしまった。当日は、なんと言う名前だったかなと、はっきりと思い出せないまま、うろ覚えの名前を呼んでしまったのだ。心配だっので、旅行から帰って来て、名簿を確認して、全く違っているのに気付いた。
 もうひとつの出来事は、宿泊先の宴会でのこと。宴会がすすみ、余興のカラオケとなった。リクエストカードが廻ってきたので、カードに「東京ラプソディ」と書いて、司会者に渡した。順番もなにもないので、時間の関係でできないかも知れないと言う。
 5人位すすんだあたりで、司会者が「東京ラプソディ」と案内したと同時に他の人がステージにすすんだ。あれ同じ曲を偶然申し込んだのかと思った。珍しいことがあるものだ。前奏が始まった。あれれ?なんと私が申し込んだ曲ではない。そこで、初めて自分が曲名を間違って書いたのに気付いたのである。本当は、「東京パラダイス」だったのだ。今日のカラオケに備えて、3日前にカラオケCDを買って、3、4回練習してきた曲だったので、つい、曲名を間違ったのだろう。幸い、私のカードは読み上げられなかったので、真実を話さなくて良かったが。また、「東京パラダイス」は新曲だったせいか、まだカラオケには入っていなかった。
 認知症状のひとつに物忘れがあるらしい。日常生活には困ることはないが、人の名前を間違えて呼ぶのはダメだ。どうやら、あいまいなまま、書いたり呼んだりはしていけないとつくづく反省した。ゴルフでも気持ちが定まっていないままショットしたり、パットすると決まってよくない結果が待っている。確たる覚え無き行動は失敗を招く。(2013/07/19)


■新緑の息吹きを感じながら

 25日、田舎の新潟に3ヶ月ぶりに帰省した。主な目的は、丁度、田植え時期となっていたので、田んぼ仕事と畑仕事の手伝いである。
 今年は、大雪の影響で、例年より田植えが1週間以上遅れたらしい。
まず兄の指示で、補植(この漢字でいいのかな?)といって、機械で稲を植えたあと、機械でできなかった田んぼのコーナーに稲を植えることだった。
 田植えは何十年振りだ。参ったのは、田植え用の長靴を履いているのだが、土が粘土質のためか、足を抜きあげるのに一苦労。時にはバランスを崩して倒れそうになった。昔は、素足で入ったのでこのような苦労はなかった。ただ、ものの1時間くらいの作業だったが、結構、腰にきた。
 畑仕事は、豆と長芋のつるが絡まるように、パイプの柵作り。また、大豆を巻くための畝づくりをやった。天気が続いていたので水やりを朝の5時過ぎから1時間かけてやった。この水やりもホースが届かないところもあるので、大変だった。しかし、5時に目が覚めるのは義務的ではなく、前日の農作業の疲れから、酒を飲んで9時半には床に着くので自然と起きるのが早くなる理屈である。
 農作業の合間に奥只見の銀山平にドライブ。まだ雪が残っていた。ある温泉に10時オープンとともに入った。なんと兄と二人きりの貸切で、残雪の景色を愛でながらの温泉は極楽だった。
 帰りには、兄につきあって、生まれて初めてグランドゴルフを体験した。河川敷きのコースは天然の芝があり、川風が心地よく、32ホールを廻った。聞けば、市の管理で誰もが自由に使えるらしい。ゴルフと違って、距離は短いが、ボールがあがらないため、芝に食われるので距離感が難しい。手軽で、結構な運動になるので、リハビリを兼ねてプレーするお年寄りもいるようだ。このスポーツはもっと盛んになる気がした。
 退職してから約一ヶ月。この5日間、ゆっくりと新緑の自然の中に身を置いて、過ごすことができた。追われない暮らしもなかなかいいものだ。農作業は楽ではなかったが、心地よい疲れた身体で山菜、取れたての野菜を肴に飲む地酒の鶴齢(かくれい)の味は格別だった。人間、幾つになっても、消費ばかりではなく生産(創造)する喜びを楽しみたいものとつくづく思った5日間であった。天・地・人に感謝!(2013/05/30)


■終わりの始め
縁あって、11年間勤めた第二ステージの職場を4月30日定年退職となった。振り返ってみるとあっという間の11年間であったが、濃密の月日だった。

その日に職場の仲間が送別会を開いてくれ、28人もの方が参加してくれた。もっとも、私としては送別というよりは、卒業の気分だ。幹事が万事に手を尽くしてくれて、サプライズの連続であった。今日こそは、絶対涙を見せてはならないと決意していたのに、見事な企画、運営と参加者の温かいエールについ、涙腺が緩んでしまった。あぁ不覚。

自分なりに精一杯、誠実に仕事をしてきた自負もあったが、それも私を支えてくれた方たちがいたからこそであった。もちろん感謝の言葉を述べたわけだが、ひとつ、忘れたことがあった。それは、私の言動のせいで、嫌な気分になった人たちもいたのではないかという思いを話し、お詫びをするつもりであったが、忘れてしまった。少し心残りであるが過ぎたことは帰ってこない。これからの人生に生かしていけばよい。

これまで仕事をやってこられたのは、職場の仲間の応援があったればこそだが、家族の支えにも救われた。感謝しかない。

第二ステージが終わったが、5月1日からは第三ステージの始まりだ。終わった途端、始まりがある。仲間とは別れるが、これもまた新しい人たちとの出会いが始まったことになる。

さて、第三ステージは、第一第二とはいささか立ち位置が変わり、見える景色も違ってくる。第二ステージまでは、組織集団の一員であったが、今度は個人、一人で仕事を創造していかなければならない。綿密なプランづくりは元来苦手だ。だから、行き当たりばったりではないが、やってみるしかないと思っている。結果がよく出るも、悪く出るも全部自己責任。これはこれで面白いはずだ。明日に橋を架けるために、さぁ、大海原に小さな笹舟を漕ぎ出そう。(2013/5/2)

■感謝の集い
 冬の味覚を求めて、兄弟が新潟は鵜の浜温泉に集合した。目的は、二人の兄夫婦に感謝のために、一席を設けたもの。大学を出て、サラリーマンとして43年が経ち、今年4月30日にて、いよいよ終止符を打つ時がきた。それまで、僕を支えてくれた兄と姉さんに、一つの区切りとして感謝の気持ちを表したかったのである。
 2月16日土曜日高麗川で昭島夫婦を車に乗せ、一路六日町へ。8時40分ころ鶴ヶ島インターに載ったのだが、予想以上の渋滞で、焦った。六日町に12時に到着、お昼を済ませ、1時55分
発ほくほく線に乗車。折しも、十日町雪まつりだっので、十日町までは立つことに。
 犀潟に2時到着、今晩の宿である日本海さんが迎えにきてくれた。温泉につかり(ちょー熱かった)、メーンイベント。料理の前に感謝の言葉を述べた。特に、田舎の兄貴には、大学入学したいというわがままを、受け止めてくれ、入学金を出してやろうと、親に了解を取り付けてくれた。
このことは、生前の母から聞いていたのだが、ずっとお礼を述べずに今日まできてしまった。
 そして、昭島の兄が住んでいた東京にあった毎日新聞配達所に住みこみ、新聞配達で生活費を稼いだ。新聞配達は、育英会の奨学金を借りていたので、生活のめども立ち、1年間でやめた。その後、兄が独立して事業を始めたので、そこでアルバイトしながら、大変お世話になった。自動車免許まで取らせてもらった。
 サラリーマン生活が万博の年にスタートした。途中、転勤先の仙台から東京へ舞い戻ったきとは、住ませてももらった。 自分の仕事にばかり夢中になってきて、その間、二人の兄にお礼らしいお礼も出来ずに今日を迎えたのである。
 さて、料理は、寒ブリのシャブシャブがメイン。最初、コースであらかじめ頼んでいたものの、料理が寂しいと困るので、運ばれてきた料理を見てから、追加するかもしれないと仲居さんに話しておいた。ところが、出てきた料理を見て、みんなで驚いた。刺身の豪華な盛り合わせ、カニ料理まであり、これは食べきれないと思ったらやはり、茶碗蒸しなどは手つかずになった。
 さて、翌日の朝食のおかずの多さにびっくり。兄が品数を数えたら12品目あったそうな。朝食後、魚の買い出しに、なんと旅館の方でマイクロバスを出して、直江津の鮮魚センターまで送り、買い物が終わったらまた直江津駅まで送ってくれるとの事。いやいやありがたい、大きい観光
ホテルならこうはいかない。そこで、豊富な種類の魚にびっくり。真鱈、カニなど買って、六日町に帰る。そこで、親戚家族を呼んでまた宴会。真鱈のフライはおいしかった。
二人の兄貴、姉さん、妻に感謝感謝の二日間の旅でした。奇しくも16日はもう一人の兄の命日だった。きっと天国で喜んでくれたと思う。そして、きっと、またこれからも頑張れよといってくれたに違いない。
 末っ子の特典でみんなにお世話になりっぱなしの人生で、ほんとにささやかな恩返しであったが、また、みんなで旅行できるよう、これからも健康に留意し、次の仕事のスタートをきっていきたい。(2013/2/18)


気持ち新たに
 平成25年となり平成も早いもので四分の一世紀を迎えた。元旦の朝刊のコラムを読んでいて、一つの字句に反応した。文面の中に、「気分新たに歩みだしたい」とあった。この気分という言葉に、これからの日本の未来に対する恐れを感じたのである。
 辞書によれば「気」という字は「氣」が元々の字らしい。心などの状態や働き、つまり精神面を表す言葉として例えば、元気、意気、気力、気が利く、気が散る、気を配るなどと多く使われている。
 このような意味を持つ「気分」という言葉に、私が嫌な感じを持つのは国民の気分を煽るような政治家が出るのではないかと言う恐れがあるからです。先の戦争に突き進んだ時代、政治家が主導して国民の気分を高揚せしめてきたと思うのである。その時代に戻しては断じてならない。 日本の政治・政党は永く保守と革新のせめぎ合いでバランスをとってきた。しかし、昨年の衆議院選挙を顧みると、このバランスが崩れてきているのではないかと思うのである。
 最近の世の中に対して、多くの国民が閉塞感に陥っている、特に若者の多くは希望を持てないでいるような気がしている。非正規雇用で働く人の近年の増大は若者の力を削ぐ動きだ。このようななんとも言えない鬱積感が若者に積もる時代には、政治家の強いリーダーシップが求められている。しかし、そこには、極左、極右つまり極端なリーダーシップが生まれる危険性を併せ持つ。日本国民は気分に左右されやすい気質を持っていると思う。その性質を巧妙に利用した勢力の台頭は決して、許してはならない。私たち国民がそのような政治家を支持しないことが重要である。政治家には100年の大計のもとにビジョンを示して欲しい。気分で政治をして欲しくないのである。
 だから、年の初めのこのコラムのタイトルは「気分新たに」ではなく「気持ち新たに」とした。震災で被害にあわれた人々に、少しでも「新たな気持ち」が芽生えてくれることを願いながら。(2013/1/2)

■いじめられている君へ
 近、いじめのニュースが多いので、団塊世代のおじさん、いゃ、君たちから見ればおじいちゃんから、一言。
僕もいじめではないけど、小学生から中学生時代にきらいなガキ大将からいじわるを受けたことがある。例えば、授業中に僕の背中をくすぐるのだ。やめてといっても図に乗ってやるんだ。とてもいやだった。ガキ大将なので腕力があるから怖かった。だけど、その男は大人になってから同級会などに顔を出さなくなったし、誰の話題にも登らなくなった。その理由のホントのことは判らないが、人との関係性を大切にしてこなかった生き方をしてきたのではないかと思う。
 いし゜め、いじわる、シカトなどの問題は子供の世界だけではなく、大人の世界にもあるんだよ。一人悩み、うつ病などになり、職場を辞めざるを得ないこともあったりする。では、いじめられているところから、どうやっていじめられないようにするのかの正解はない。ただ、対応策はいくつもある。そのために、親友に相談してみる、親に話してみる、本を読んでみる、あるいは一時学校を休むなどの手はあるかも知れない。
 僕から君に提案してみよう。先ほど書いたものに加えて、こうは考えてみてはどうか。それは、相手つまりいじめている奴の誘いに乗らないということ。反応をしないのだ。感情を出さないのだ。相手は反応するから面白がって図に乗ってくる。そのときに時間のことを考えてほしい。春の次には必ず夏がやってくる、朝がこないと思って寝たら朝は必ず来る。
時間は1秒たりとも留まっていない。君たちの年齢なら時間の経つのを遅く感じることだろう。早く感じるか遅く感じるかはとどのつまり、自分次第なのだ。つらいかもしれないが、「どうせ1年経てばクラス替えがある」「どうせ2年も経てば卒業だ」と思うのだ。そして、限りある時間を意味あるものにするために、いま自分が熱中したいことに没頭する。目標を立てて取り組むのだ。つまらない奴に関わるのは時間の無駄なのだ。そうは思えないだろうか。
 いやな社会だと思うかもしれないけど、しょせん社会ってそんなもの。ところが、生きていくと素晴らしい出会い、やっててよかったと思える瞬間が一度や二度でなくたくさんあるんだ。素晴らしい社会でもあるんだ。君が役立つ場面は必ずあるんだよ。君にしかできないことが待ち受けているんだ。その能力は君の両親から、祖父母から受け継いでいるんだ。君の生きている姿を亡くなった祖先の人たちが見守っているんだよ。「よく頑張っているね」と。そして次は君が素敵な伴侶を得て、自分の子供たちに生きていくことの素晴らしさを伝えていくのだ。それが君の役割なのだ。だから、自分を信じて、自分を大切に生きていってほしい。そして、少しでもいいから誰かの役に立つことをさりけなくやってみてごらん。君の居場所に気づくはずだ。あせらず、じっくりいこうよ。人生は永い。(2012/8/5)

■気を付けよう車の運転

 このところ児童を巻き込む自動車事故が頻繁にある。未来のある子供たちが亡くなったり、重傷を負っており、一瞬にして平和な家族の暮が壊されている。京都の事故は起こるべくして起きた事故、事件である。18歳の運転手は無免許でそれも常習的に運転していたことが報じられた。法律を守ることに背を向けて生きるということにどのような意義を見いだしていたのだろうかと思う。こんなことをしていると、取り返しのつかないことにつながるかも知れないということに思いが及ばないのだろうか。本人が気がつかないにしても、家族、友人、知人の誰かが警鐘を鳴らさなかったのだろうか。
 車はとても便利な道具で私たちの日常生活には欠かせない物となっている。しかし、いったん運転操作を誤れば、人に対して、物に対して凶器となることの危険性を併せ持っていることに運転する人はあらためて心する必要がある。
 私自身も長い運転歴を振り返れば、自らのうっかりで危ない場面に何度も遭遇してきた。お恥ずかしいことだが、運転席に座ると、どうもせっかちになる癖、イライラする癖が抜けない。自分の感情をコントロールする「自律心」に励まねばと、この歳になっても思う。
 もうひとつ、車に乗せてもらう人に一言申し上げたい。それは運転手は運転に集中してもらうよう同乗者が気を配ることである。例えば、何度も運転手に話しかけることなどは、運転手の注意が欠けることになりかねない。友達同士だとつい、いい気分になるので話題が盛り上がることはいたしかたがないが、節度ある会話にとどめることが肝心だ。まして、走行中に食べ物などの手渡しは危険である。
 春の行楽シーズンを迎えて、遠出する機会が多いと思います。運転するみなさんスピードと車間距離はしっかり守りましょう。(2012/4/28)


■たかがゴルフ されどゴルフ
 7年振りだろうか、8月末にパター以外のクラブを全て一新した。いゃー、決めるまでに迷った迷ったこと。いま、買うのはお金がもったいない、いや、いまのうちに買って練習しないと、スコアアップは見込めない、どこのメーカーのどのクラブがいいのか、など買う決断をしてから迷ったわけではないが、迷った。約2ヶ月くらいかかった。
 結局、買ったのは、2009年11月に発売になった、6代目新ゼクシオである。もうひとつのメーカーも視野に入れ、試打クラブを岡山から取り寄せて使ってみたが、どうもいまいちしっくりこない。
たまたま高校時代の同級生のコンペで、僕よりも数段うまい同級生の一言がきっかけであった。コンペの時に「ゼクシオが合うのでは?」と言われたのである。プレーに夢中になっていたから、どうしてかは聞かずじまいだったが、ゼクシオのことを調べてみると、プロではさくらちゃんや古閑選手が使っているらしい。また、アマチュアではもともと人気で、今度の6代目新ゼクシオは売れ筋ナンバーワンらしいことがわかった。うたい文句は「高い弾道で直進性がある」であった。さくらちゃんなんかは、スイートスポットを外れても大きく曲がらないというではないか。これで、いっぺんにゼクシオに決めた。
 問題はここからが悩みの連続であった。まず、ドライバーである。いままで使っていたドライバーはどうも、スライスあるいは左にまっすぐ飛んでしまうことがあった。もちろん、これはクラブのせいではなく自分のスイングの軌道が狂っているからとは理解はしていたが、なかなか修正できないでいた。それともうひとつ、キャリーで200ヤードは飛んでいたが、220ヤードは飛ばしたいという思いがあった。女子プロと比較するのは意味もないことだが、有村選手のアイアンの飛距離がほとんど僕と同じなのに、ドライバーになると全然違うのだ。さらに、僕のドライバーは高くあがりすぎ、距離を損していた。これも、もしかしたら道具を変えれば少しは飛ぶのかなと思った次第。さらに、ゴルフ仲間との競争心理である。ゴルフは飛ばすことが目的ではなく、なんぼであがったかが勝負とわかっていても、あいつより、少しは離したいなぁという欲望がちらつくのだ。さて、次の問題はロフトをどうするかだ。いまのロフト角10から9.5にしてみたかった。そうすれば、もう少し低めの弾道で10ヤードくらいは伸びないかという考え方であった。ゼクシオの9.5にするには、シャフトの固さをSRにしなければならない。いまはRなので、当然固くなり、僕の力でどうなるか、わからない。そして、SRの9.5がどこのゴルフショップにいっても用意していないから確かめようがないのでとても不安だ。なにせ高い買い物だから、だめなら買い直せばいいというわけにはいかない。そこで、わざわざダンロップの大阪本社まで電話かける始末。それによると、同じSRでも他社に比べて柔らかい、ヘッドスピードが40とか41あれ充分というのを聞いて決断した。
 それに3番ウッド、次にかつては7番、9番のウッドを入れていたが、思い切ってユーティリティーのU5、U7を入れてみた。妻が数カ月前にユーティリティーを買って使用したが、随分楽そうに当たるのである。アイアンは5番から9番、あと44度PW 50度AW 56度SWとした。数回の練習ではドライバーは手ごたえがあったが、アイアンはむしろ飛距離が若干落ちる。特に、PW AW SWにおいて顕著であった。まあ、ショートアイアンとウエッジは飛距離を出すのが目的ではないからいいか。
 さて、9日本コースでの初使用、デビューである。戦場に赴く武士の心意気で向かった。戦場は群馬県は小幡郷ゴルフ倶楽部である。勝手知ったる戦場で文句はない。さて、スタートホール。ドライバーは少し左山裾だが、曲がりが少なく手ごたえはよし。その後もフェアウエーキープもよく、キープ率64%であった。やはり直進性は本物だ。心配していたユーティリティーもやさしく打てた。スコアはグリーンの難しさもあり、49 49であったが、満足のいく一日であった。
 今日は、焼き肉を食べたいと妻に申し出て、お許しが出た。その時のビールのなんと旨いことか。あぁ、ゴルフって難しいけど、面白いなぁ、奥が深いなぁと一人しみじみ酔いしれたひと夜であった。これも、健康でこその楽しみ、妻に家族に感謝感謝である。よし、いつか79を目指すぞ!
(2011/09/10)

■区切りをつけて
 このところ約3カ月近く、ホームページの更新もしていなかった。更新をしていなかったというよりは、できなかったというのが本当のところです。
 なぜ、できなかったか。仕事が忙しくなって、疲れがたまったというのもあるが、一番の理由は、今回の東日本震災の影響です。ホームページの更新のように、いままでやってきたことができなくなったのです。なにを発信して良いのかわからず、考えがそこで立ち止り、パソコンに向かうことができませんでした。
 震災からまもなく4カ月になろうとしていますが、毎日のように震災に関する新聞記事やテレビでの報道があります。私の心の中に、いまだ震災に遭われた人たちのことが頭から離れません。今回の震災は直接、被災しなくても、人々の心の中に大きな葛藤が生まれています。東京電力がまるで全て悪者のように叩かれています。これとて、多いに疑問です。絆をひとつにという日本人の精神性はとても良い文化だと思いますが、皆がいっせいに一つの考え方やムードになることにとても危険な感じを覚えます。
 パソコンに向かえなかった私が、久しぶりにこうやってコラム更新しようと決意したのは、自分のなかで、いったん区切りをつけたかったからです。
 実は、7月に入り64歳の誕生日を迎えました。その前には妻が還暦を迎えました。そのような時に娘が誕生日のお祝いにと、食事に招待してくれました。誕生日を迎えられるということは、家族みんなの支えがあったから迎えられるという、当たり前のことに気づかされたとともに、誕生日というのは人の一生において、ひとつの区切りに違いないと思ったのです。いつまでも、悶々とすることなく、新しい時代に向けて新たな気持ちで、仕事に趣味に没頭していこうという考えに至りました。
 節電にしても、当たり前のように使用してきたエネルギーをもったいない精神で取り組めば、必ずしもいやなことではないことに気づきました。そこに創意工夫も生まれるわけで、やはり、物事にぶつかったときに、これからどうするかという想像力を働かせて生きていきたいと思いました。(2011/07/03)

■悲嘆のプロセスから希望の光へ
 3月11日の東日本大震災から一カ月が経過しました。家族、親族、友人、職場の仲間を失った方々に心よりお悔やみ申し上げます。さらに、いまなお、被災して各地に避難され、不自由な生活を余儀なくされている多くの方々にお見舞い申し上げます。
 7日も大きな余震があり、原発も地震も終結した感じがしなく、不安な毎日です。遠く離れて住んでいる私でも、心落ち着かないのに、実際に被災された方々にとっては、いかばかりかと思います。一日たりとも心安らぐ時はないのかも知れません。
 テレビから流れる宮城県から岩手県の三陸海岸の地域の画像を見ていると、いまでも胸が押しつぶされそうになります。なぜかと言えば、石巻、雄勝、志津川、気仙沼、山田、釜石、大槌、陸前高田、大船渡の各地は、前職の私の若いときの営業担当地区だったからです。何度も訪ねた商店街が跡形もなく、お世話になった取引先の社長さんは無事だったのだろうかと思うと、想像することさえ怖くなってしまいます。無事であって欲しいと遠いところから願うしかありません。
 宮城県には親戚、知人もいたので、何日も連絡が着かず心配していましたが、ようやく無事が判った時はホッとしました。ただ、電気、水道は使えず、買い物にも7時間も並んでいくばくかの品物を手に入れるのだと聞いた時は、すぐにでも、車に物を積んでかけつけたくなりました。幸い、物流が少し復帰したので、気持ちばかりの物を送ることができました。
 この悲しみを共有して、手を携えて励まし合う輪が広がっています。当地の中学生や高校生がみずからボランティアを申し出て活躍する姿は、とても頼もしいと思いました。人間、どんな悲しいことに遭遇しても、かならず、一筋の光を手繰り寄せようとするものだと信じています。いくつもの悲しいプロセスを経て、たどり着くのは平穏な心と暮らしだと信じたいと思います。
 今の職場で、春のオリエンテーションが先日行われました。就職活動を迎えている4年生の中に、今回の震災のことで、前へ進めない人がいるのではないかと思い、彼らに、一冊の本を紹介して、共に前を向いていこうと呼びかけました。その本とは『それでも人生にイエスと言う』です。著者はV・E・フランクルです。ナチスの強制収容所から奇跡的に生還した人です。地獄のような牢獄のような環境のなかで、仲間たちが"それでも人生にイエスと言おう"と歌った歌詞を本のタイトルにしたようです。本によると講演でフランクルさんは、こう言っています。
・・・・・人間はあるゆることにもかかわらず----困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、----人生にイエスと言うことができるのです。・・・・・
 今回の震災で私も多くの人から心配していただきました。ありがたいことです。人間ひとりではありません。昔からみんなと繋がっています。強い絆があります。涙を流しても構いません。やる気が失せても構いません。ただ、あなたがいつか立ちあがるはずだと誰かが期待していることは間違いありません。まだ光は見えていないと思いますが、共に上を向いて歩いていきましょう!朝の来ない夜はないと信じて!(2011/04/10)

■かめのように
 うさぎ年がスタートした。正月の新聞、テレビでは著名人たちが、うさぎ年にかけて、ピョンピョン跳ねる年、飛躍の年にしたいなどといっている。しかし、私は今年の過ごし方として、そんなにピョンピョンと跳ねずに、かめさんのように歩みはのろくとも、休まず、目の前のことを淡々とやっていきたい。こんな風に思う理由は、最近の気ぜわしい世の中の流れに身を任せたくないという思いによるもの。世の中のムードなどに刺激を受けて反応的に生きるのは、自分の身を削るというか、自分を見失うような気がしてならない。ここは、用心深く自分の基準で生きることを意識していきたい。私の趣味のゴルフにしても、あまり、スコア、スコアと叫ばず、ゴルフをできる幸せに感謝し、スコアが悪くとも、くさらず、練習に励むのみといきたいものだ。その結果は、ケセラセラといきたい。今年もすでに初打ちにいってきたが、101というスコアであった。まぁまぁ出だしはこんなとこ。かめさんは他の動物を攻撃しないのだとか、やはりかめさんがいいですね。(2011/01/16)