さらなるおまけ:子連れ再婚の大后


 敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子の子、茅渟王の娘と言われる宝皇女は、舒明と結婚する前に用明天皇の孫(一説には田目皇子の子、さらに一説には用明の子)の高向王との間に「漢皇子」と生んだと言われます。こんなこと、史書に書かなくても良さそうなものですが、何故か書いてあるんですね(汗)

 宝皇女は、舒明との間に有名な天智・天武両天皇、そして孝徳天皇の皇后である間人皇女を生んだと言われます。ちなみに、宝皇女(皇極天皇)が伝えられるように594年生まれだとすると、天智天皇が生まれたという626年には数えで33歳となります。その後にさらに二人生むというのは、あり得ない話ではないと思いますが、まあ個人的趣味としては、生年を10年くらい引き下げてはいかがかと(謎)
 ちなみに宝皇女の母は吉備姫王という人で、推古の弟の桜井皇子の娘とも伝わってますが、個人的に吉備姫王は推古女帝の実の娘なのではないか、と想・・妄想しております。

 参考までに、通説どおりの系図です。

系図1   高向王
       ┃            
       ┃──────漢皇子   
       ┃            
    ┌─皇極・斉明  ┌─天智   
    │  ┃     │      
    │  ┃─────┼─天武   
    │  ┃     │      
    │ 舒明     └─間人皇女 
    │           ┃   
    │           ┃   
    └──────────孝徳   
                    

 この「漢皇子」が天武では?という説があるようです。「異父兄弟説」というやつです。天智を兄、天武を弟とすると年齢が合わないとか、天智が娘4人を弟の妃にしているのは不自然とかの理由があるようです。
 また、天武は皇族ではないとか半島出身とか、東アジア情勢につきましては、私の理解では難しいので勝手ながら置いておきます(謎)

 系図フェチ的には、「漢皇子=天智」であると考えてみたいです。それでは天武は?こちらは、「天武=古人大兄皇子」としてみます。広い意味での「非兄弟説」になるのでしょうか。

すなわち、

系図2   高向王
       ┃             
       ┃─────────天智  
       ┃         ┃   
    ┌─皇極・斉明      ┃   
    │  ┃         ┃   
    │  ┃───間人皇女  ┃   
    │  ┃    ┃    ┃   
    │ 舒明    ┃    ┃   
    │  ┃    ┃    ┃   
    │  ┃    ┃    ┃   
    └───────孝徳   ┃   
       ┃         ┃   
       ┃         ┃   
       ┃───天武───倭姫王  
       ┃             
    蘇我法提郎女           

いちおうメリットらしきものを挙げておきますと、天智がなかなか即位できなかったことの説明になりそうです。もしかすると、孝徳の皇子の有間皇子よりも血統的に劣っていることになるでしょう。皇統の直系は、皇極(斉明)→間人皇女(中皇命)と繋がり(孝徳は間人への婿入り)、間人皇女(すなわち中皇命)の死後にやっと倭姫を皇后にすることによっての天智の即位となります。皇極は前代未聞の重祚までやってますね。

 ちなみに、私は「蘇我入鹿皇極の愛人説」と言いましょうか、女帝の影には愛人ありみたいな考え方も、あまり好きでなかったりするんですがf(^ー^;ただ、もしも蘇我入鹿と皇極の間にそのような関係があったとしたら、それは入鹿が実は大王家のメンバーで、皇極に婿入りの形でいわゆる「大王」になったと、そういう考え方をしてみたいです。

 小説などでは、宝皇女の「連れ子」は無視されているか、たまに天武としているものがあるようですが、天智の方で誰か書いて見ないかなあ・・f(^ー^;



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