赤川氏
小早川茂平の子の忠茂を祖として、政忠の代に信濃国赤川村に住んで赤川氏を称した。忠政の代に、毛利時親とともに安芸へ下向し、譜代の家臣となる。
┌元秀
房信─┬就秀─┤
│ └元之
│
├元保━又三郎
│ ↑
└元久─又三郎
赤川就秀 元信、又四郎、十郎左衛門、筑前守
妻は井上元兼の娘。
大永3年(1523)、元就に宗家相続を要請した宿老15名の中の一人。その後、尼子氏のもとに人質として出されたが、元就が尼子氏と絶縁した際に密かに月山富田城を抜け出し、吉田に帰還した。
赤川元保 元助、左京亮
妻は宍戸左近大夫の娘。
大永3年(1523)、元就に宗家相続を要請した宿老15名の中に、兄の就秀とともに名を連ねた。隆元に信任され、五奉行制が布かれると筆頭奉行人となったが、元就の奉行人と対立。
永録6年(1563)、出雲遠征に向かう途中、和智氏の饗応を受けた隆元が急死すると、元就は、付き添っていた元保の責任を厳しく追及、永録10年(1567)3月、元就の命により自刃し、養子の又三郎や弟の元久らも誅伐された。
その後、元保が再三、和智氏のもてなしを辞退するように隆元に進言していたことが判明し、元就は、元保の兄の赤川就秀の次男の元之に元保の家を再興させている。
粟屋氏
源義光の曽孫の義定を祖として、義定の曽孫の元義の代から常陸国粟屋に住み、親義の代から粟屋氏を称した。元秀の家系は、親義の曽孫の春義の次男の義之を祖とする。
┌元国
│ ┌元種━元貞
└元方─┤ ↑
└盛忠─元貞
元秀─□─元親─元信
粟屋元国 孫次郎、掃部介
母は中馬広国の娘、妻は祖式朝兼の娘。
大永3年(1523)、幸松丸の死去により、家督争いが生じたとき、一族の元秀を神仏詣でと偽って上洛させ、元就が当主になれるよう、直訴させた。
粟屋元親 赤法師、弥次郎、右京亮
天文19年(1550)に五奉行制が成立すると、隆元直属の奉行人として手腕を発揮した。
永録4年(1561)死没。
井上氏
井上氏は信濃の国より安芸の国に移り、小領主となる。井上光教が毛利豊元の妹を妻とした頃から、井上氏は毛利氏と密接な関係を持つようになった。
┌毛利豊元──弘元──女子
│ ┃
└女子 ┃
┃ ┌元光
┃ ┌光兼─┤
光教─勝光─┤ └元兼─就澄
│
├元盛
│
├光俊
│
├光家─就重
│
└就正
井上光兼 源太郎丸、新三郎、河内守
毛利元就は11歳のとき、大方殿に連れられて光兼の屋敷に行き、訪れていた僧侶から念仏の伝授を受けた。
光兼は、井上一族の総領家にあたるが、天文19年(1550)に井上一族が誅伐されたとき、これを免れている。
井上元兼 源太郎丸、弥坂兵衛、河内守
大永3年(1523)、元就に宗家相続を依頼した重臣15名の一人。元兼の他にも四人の井上氏が署名しており、そのためか、井上一族は元就を軽んじるようになった。年賀の式などに出仕を怠り、評定にも出席せず、まれに出席しても着座順位を守らなかったりした。その上、軍役や普請などの公役を怠ったため、天文19年(1550)、元兼を筆頭とする井上一族30名が誅殺された。
井上元光 小太郎、新三郎、釆女正、玄蕃允、但馬守、元在
元就の妹婿であったため、井上一族が誅伐されたとき、これを免れ、元就の命により井上の宗家を相続、名前を元在から元光に改めた。
永禄10年(1567)2月18日死去。79歳。
井上元盛 新次郎、源三郎、中務丞
大永3年(1523)、元就に宗家相続を依頼した重臣15名の一人。元就の後見人であったが、永正4年(1507)、毛利家の当主の興元が京に出陣すると、元盛は元就の領地である多治比300貫を横領した。
その後、元盛は不慮の死を遂げたとされるが、系図によると天文19年(1550)死去とあり、井上一族が誅伐された際に死んだとも考えられる。
桂氏
毛利の庶家の坂氏がさらに分かれた家柄。毛利弘元・興元の代に執権であった坂広明の嫡子の広澄が、桂村に居住し、桂を名乗った。
毛利親衡─┬元春
│
└坂匡時──広秋─┬広時
│
├広明──桂広澄─┬元澄─┬広繁
│ │ │
├光永秀時 │ └元盛(岌円)
│ │
└志道元良 ├元忠─就宣
│
└就延
桂元澄 左衛門尉
妻は福原広俊の娘。後妻は志道広良の娘。
大永3年(1523)、元就に宗家相続を要請した宿老15名の中の一人。大永4年(1524)に元就の弟元綱を擁立しようという動きが露見し、父広澄が自刃したとき、元澄も弟と共に死を覚悟したが、元就に説得された。
天文23年(1554)、厳島神社の神主家の拠点の桜尾城を任される。厳島の合戦の際、陶晴賢に偽りの内応したとも伝えられる。
永禄12年(1569)7月5日死去。
桂元忠 左衛門大夫、上総介
桂元澄の弟。元就から、才覚はないが正路の人で、今時毛利家中にもこれほどの人は少ないと言われる。元就の側近として抜擢され、奉行人を勤めた。
天文19年(1550)、隆元のもとに五奉行制が確立すると、その一員となる。しかし、元就とも強い絆を持ち、元就と隆元をつなぐ役割も果たした。
桂広澄
坂広明の嫡子であったが、家督を継がず、桂村(吉田町)に居住し、桂姓に改めた。
大永4年(1524)、弟の坂広秀が元就の弟元綱を擁立しようした謀反計画が発覚、責任を感じた広澄は自害した。
口羽氏
志道元良の次男、通良が石見国邑智郡口羽村を領し、口羽姓を称したことに始まる。通良は、志道広良の次男という説もある。
毛利親衡─┬元春
│
└坂匡時──広秋─┬広時
│
├広明───桂広澄
│
└志道元良─┬広良
│
└口羽通良─春良
口羽通良 刑部大輔、下野守
妻は福原広俊の娘。
兄の志道広良が死去した弘治3年(1557)頃から元就に重用される。
おもに吉川元春を補佐して毛利両国の山陰支配にあたった。元就の死後、輝元のもとで吉川元春・小早川隆景・福原貞俊とともに「四人衆」と呼ばれる最高幹部の一人として国政に参画した。
天正10年(1582)7月28日死去。70歳。
国司氏
高師泰の次男師武が、建武3年(1336)に足利尊氏から支給された安芸国高田郡国司庄に居住し、毛利師親に属して地名を姓としたのに始まる。
毛利豊元─女子
┃
┃
有純─有相─元相─元武
国司元相
助六、左京亮、飛騨守
妻は渡辺勝の娘。後妻は桂広澄の娘。
隆元の守役となる。武勇に秀で、天文9年(1540)の郡山籠城戦、天文12年(1543)の尼子攻め、永禄4年(1561)の石見国松山城合戦で活躍した。
天文19年(1550)五奉行体制が成立するとその一員となった。
天正19年(1591)12月28日死去。99歳。
児玉氏
武蔵国児玉郡を本貫とし、鎌倉期に安芸国竹仁上下村の地頭職を得、その一族が安芸に移住し、毛利氏の譜代の家臣となった。
┌元実─┬就兼─就光
│ │
│ ├就忠─元良
│ │
│ └就方
│
├元為
│
└就秋
児玉就方 内蔵丞、周防守
兄の就忠の推挙により、元就の側近となる。
天文20年(1551)、武田氏の警固衆(水軍)を預けられ、毛利水軍の育成を命じられる。その後、草津城に入る。のちに大内氏の警固衆も加え、強力な毛利水軍(川内警固衆)を組織し、その総帥となる。
天文23年頃からは、元就奉行人ともなる。
天正14年(1586)6月9日死去。74歳。
児玉就忠 三郎右衛門
妻は久芳賢直の娘。
児玉元実の次男に生まれ、一族の児玉家行の養子となった。家中での人当たりも良く人望があり、行政手腕に優れていたことから、元就の側近に抜擢され、奉行人を勤めた。
天文19年(1550)、隆元の下で五奉行体制が確立するとその一員となるが、元就との主従関係は続いており、元就の意見を隆元へ伝達するといった、仲介の役割を果たした。
永禄5年(1562)4月29日死去。56歳。
坂氏
毛利親衡の次男、匡時が安芸国高田郡向原坂に居住し、坂を称したのに始まる。
毛利親衡─┬元春
│
└坂匡時──広秋─┬広時
│
├広明──広秀━━元貞
│ ↑
├光永秀時 │
│ │
└志道元良─広良─元貞
坂広秀 長門守
大永3年(1523)、元就に宗家相続を依頼した15人の宿老のうちの一人であったが、翌4年頃、渡辺勝らとともに尼子氏と気脈を通じ、元就を暗殺してその弟の元綱を当主に擁立することを計画したが、露見して誅伐され、坂家は断絶した。
その後坂氏は、志道広良の次男元貞によって再興された。
志道氏
弘元の時代に執権を務めた坂広秋の四男元良が、安芸国高田郡志道村に居住して志道を称したのに始まる。
毛利親衡─┬元春
│
└坂匡時──広秋─┬広時
│
├広明
│
├光永秀時
│
└志道元良─広良─□─元保
志道広良 大蔵少輔、上野介。
興元・幸松丸・元就の三代にわたって執権職を務めた。永正10年(1513)には、元就に当主興元への忠誠を誓わせる起請文を提出させている。
大永3年(1523)、幸松丸が死去すると、元就に宗家相続を要請し、15人の宿老とともに元就に忠誠を誓った。晩年、元就の要請で隆元の後見役を務める。広良は隆元に、「水あっての船、家臣あってこその主君ではないか」と、説いたと伝えられる。
弘治3年(1557)、91歳で死去。
福原氏
毛利元春の五男広世が、大江広元の次男時広を祖とする長井貞広の養子となり、内部荘福原の鈴尾城に居住して、福原を称したのに始まる。その嫡孫の広俊の娘は毛利弘元の正室となり、興元・元就らを生んだ。
毛利元春─┬広房
│
└福原広世─朝広─広俊─┬貞俊────広俊─┬貞俊────┬元俊────広俊
│ │ │
└毛利弘元室 ├桂元澄室 ├三吉隆経室
│ │
├口羽通良室 ├平賀元相室
│ │
├和智誠春室 └熊谷元実室
│
├天野隆重室
│
└杉重良室
福原貞俊 弥五郎、左近允、出羽守、下総守
天文19年(1550)7月、井上一族粛清直後に毛利家臣団全員が元就への忠誠を誓約した起請文の、筆頭に署名する。
元就から、正直にして表裏なき人物であると信頼され、隆元の死後、元就の依頼により輝元の補佐役となり国政に参画した。元就没後は輝元のもとで、吉川元春・小早川隆景・口羽通良とともに「四人衆」と呼ばれる最高議決機関を形成した。小早川隆景を補佐して主に山陽・瀬戸内方面の支配を担当した。
文禄2年(1593)8月10日死去。82歳。75歳とする系図もある。
福原広俊 弥五郎、左近允、下総守
元就とは従兄弟にあたる。
大永3年(1523)7月、元就に宗家相続を依頼した宿老15人の連署状や、享禄5年(1531)7月、家臣団が相互の利害調整を元就に依頼した起請文などの筆頭に署名した。
娘たちは毛利氏の重臣に嫁いでいる。
弘治3年(1594)正月10日死去。
渡辺氏
源頼光を始祖とする。鎌倉期に毛利家に属し、建武3年(1336)、毛利時親の安芸下向に従ったと伝えられる。
勝─通─長
渡辺勝 太郎左衛門
妻は庄原元祐の娘。
大永3年(1523)、元就の宗家相続にあたって井上元兼とともに多治比におもむいて元就に宗家相続を依頼し、宿老15人の連署状では四番目に署名したが、翌年、坂氏とともに尼子氏と気脈を通じて元就の異母弟元綱の擁立を謀り、元就に誅伐された。
渡辺通 虎市、太郎左衛門
妻は山内家乳母の鳥森女。
大永4年(1524)、父の勝が元就に誅殺されたとき、乳母に助けられ備後の山内直通のもとに逃れ、そこで成人した。その後、山内直通の要請を受けた元就により渡辺家は再興され、通は側近に取り立てられた。
天文12年(1543)、大内義隆が出雲攻めに失敗して敗走中に尼子軍の追撃を受けた元就が危機に陥ったとき、通は元就の甲冑を着用して身代わりとなって討ち死にした。元就は、毛利家の続く限り渡辺の家を見捨てぬと誓ったと伝えられ、以後、正月の甲冑開きの儀式を通の子孫に任せたという。