路地裏のロジック
しきりに吹き付けるカラカラに乾いた冷たい風。それでも、浮ついた空気を押し流すことはできず、行き交う人の流れは留まることを知らない。
商店街から盛んに流れているクリスマスソングが、余所余所しく着飾った町並みに華を添えている。
その中に小刻みに揺れる街路樹にそっともたれかかる智代の姿があった。右手にかかるずしりとした重みをいとおしげに見やりながら、しばしの休息を取っていた。
頭の中で今晩の予定を組み立てながら、自然と頬が緩んでくる。あれこれと想像する出来事がすべて楽しい。
仕事で朋也が隣にいないことは残念ではあるが、今晩の献立を考える楽しみはそれに近いものはあった。
「朋也はあまり好き嫌いを言わないからな……」
それでも物足りなさはどうしても残る。やはりこの場所に独りでいるのは寂しい。すぐそばを通り過ぎていく初々しい恋人たちについつい羨ましげな目を向けてしまう。
その表情がふっと曇った。
「ん?」
花屋と洋服屋の間にある薄暗い路地裏に視線が吸い込まれる。かつての自分はあの場所から賑やかな通りを、冷めた視線を向けているだけの存在でしかなかった。荒みきっていた家庭にそのような暖かなイベントがあるわけがなく、それ以外の私生活にも安らぎを求めることはできなかった。
そして去年は……幸せを掴んだ瞬間の転落。今でこそ、こうしてよりを戻すことはできたが、それでもその出来事は智代に暗い影を落としている。
そして、わだかまる闇はそのことを知っているかのように、心の奥にある負の感情を取り込もうと足元に忍び寄ってくる。
智代はそれに触れられるのを恐れるように後ろに下がった。立ち向かうにはまだ心が強くない、冷静に自分を分析する余裕はあった。
その時までは。
『なっ?』
顔を上げると、見覚えのある少女が膝を抱えてこちらをじいっと見つめている。紛れもなく、それは刹那的に振舞っていた過去の自分。智代の頬を一筋の汗が流れ落ちていく。それを拭うこともできずに智代は対峙する。
いつしか智代の視界は闇に覆われ、少し幼い智代が無表情にただこちらを見つめている姿しか映ってはいなかった。
抱えた膝と前髪の隙間から覗く瞳の暗さは、あの路地裏の闇によく似ていた。
『お前は何が言いたいんだ』
問いかけてもそれは答えもせず、ただこちらの心の底を見透かすような視線を向けているだけ。あれだけ溢れていた街の音も一切智代の耳に入ってこない。
『私が幸せになってはいけないとでも言うのかっ』
苛立った言葉を投げかけると、ようやくそれは唇の両端を吊り上げた。その周りに横たわり苦悶の表情を浮かべる男たちの姿が浮かび上がってくる。
やり場のない智代の怒りのはけ口にされた男たちのうめき声が脳裏に木霊して、智代の足元がふらついた。
『それは、だって……!』
助けを求めるように左右に振られる智代の顔。視線はぶれても、酷薄な笑みは微動だにせず智代の意識を捕らえて離さない。
指の先からすっと冷えていく感覚に震えが止まらず、智代はその場にうずくまった。
「どうしたんだよ?」
「え」
肩を叩かれて我に返る。少女はもうどこにもいない。代わりに作業着姿の朋也がすぐそこにいた。
「うわっ?」
いきなり胸に取りすがられて、朋也がたたらを踏む。遠慮がちに肩を抱くと、智代をゆっくりと引き離した。
「朋也、私は幸せになってはいけないのか?」
必死に訴えかける智代の視線を受け止めながら、朋也はどうしたものかと言葉を探した。いったい智代に何があったのか。今朝変わったことは何もなかったはずと、別れるまでのことを思い返す。
「なあ、答えてくれないか?」
らしくもない智代の弱音。それが何か、自らの姿と重なり合う気がする。ああ、どこか、似ているんだなと、朋也は納得した。
「なぜそう思うんだよ? 俺たちはもう幸せになっているじゃないか」
だからこそ惹かれたのだろうか、しっかりと智代の瞳を見据えながら言い含めるように笑いかけてやる。
「あ……」
不安に揺れる潤んだ瞳と長い睫毛が、間近に迫ってきて朋也の思考が一瞬止まる。心臓の鼓動が一気に跳ね上がったことを自覚した。
「どうしたんだ、お前らしくないぞ。いつも自信に満ち溢れているお前はどこへ行ったんだ?」
「……ああ、私も女の子だからな、お前が近くにいないと不安に襲われることがあるんだ」
表情が穏やかになり、ようやく元の智代に戻ってくれたのかと、朋也はほっと胸を撫で下ろす。
「今日は早めに切り上げてくるから、待っていてくれるか」
「ああ、分かった。けれど、しばらくはこのままでいさせてくれ……それくらいならいいだろう?」
愛する者の暖かさがじんわりと伝わってくる。それは智代を勇気付ける強い意志をにじませるようにぎゅっと唇を噛み締め、智代は過去を振り切った。
「努力すれば、幸せをつかみ取ることができるんだ」
過去という事実がなくなることはない。でもそれを踏まえて今日も笑顔を浮かべることはできる。今の自分が忘れていたものを取り戻すことができたと、智代は胸を撫で下ろした。
「そういえば、どうして朋也はここにいるんだ?」
急にものすごく恥ずかしい気持ちに捕らわれて、智代は関係ない話題を口にする。
「ああ、ちょっと足りないものがあって、その買い出し」
「なんだ、これで終わりではないのか」
「ああ、すぐに戻らないとな。この寒いのに買い出しに行かされたのは面白くなかったんだが。でもま、こうして智代と会えたんだからラッキーだと思わないとな」
「ふふっ、そうか、仕事をがんばってくれ。帰りを楽しみにしているぞ」
「ああ、お前のためにもがんばらないとな」
「ばっ、こんなところで恥ずかしいことをっ……」
正面切っての言葉に動揺を浮かべると、智代は思わず右手の食料品の詰まったビニール袋を振り上げる。気勢を制するようにさっと離れると、朋也はおおげさに手を打った。
「おっと、そろそろ戻らないとまずいな」
智代は苦笑しながらゆっくりと腕を下ろしていく。
「それは残念だ……では、待っているからな」
立ち去ろうとする朋也の服を引っ張って留めると、何事かと振り向いた朋也の、外気に触れて冷え切っていた頬に唇を触れさせた。なんとも言えない表情で自分を見つめる朋也に、智代は満点の笑顔を浮かべてみせる。
「そうだ、肝心のケーキを買い忘れていた。小さくてもいいから丸いケーキを食べたいな」
もうあの路地裏からはなにも見えなかった。
朋也の後ろ姿を見送りながら智代はくすっと笑い、足取り軽くケーキ屋に向かっていく。その姿はすっかり浮ついた空気の中に取り込まれていた。