温室

 

 

 

「朋也さん」

「ああ」

「…………」

「…………」

 外は北風がしきりに木々を揺らして、その奥には寒々しい空の色が広がっている。端は夕暮れの茜色に染まり、次第に地上を同じ色に取り込もうとしていた。

「朋也さん」

「ああ」

「…………」

「……いや、なんなんだ?」 

 会話すらでない言葉のやりとりに、朋也が声をかけている人物に目を向ける。本人はそれでも十分なのか、特に答える様子もない。

 膝枕を頼まれてからそろそろ30分。遠くから聞こえてくる部活動の掛け声がある以外は、この教室はひっそりとした静けさに包まれている。

「なんでもありません」

 笑顔で応える有紀寧が身じろぎをするたびに、なんともいえない感情に包まれる。切り取った空間の中で、先ほどまで湯気を立てていたカップはすっかり意気消沈してしまったかのように静まり返っていた。

「……寒くないのか?」

「どこを見て言っているんですか?」

「え? あははは」

 短いスカートの先に伸びる太ももから慌てて目を離し、ごまかすように咳払い。男にとって耐え難い誘惑に無関心でいられるほど枯れているわけではない。

「わたし、寒いのは実は嫌いじゃないです」

 追求することもなく有紀寧はくすくすと笑いながら、再び瞼を閉じてわずかに体をずらす。意図したのかしないのか、スカートが揺れてさらに白い肌が露出する。

「へえ、俺は嫌だな」

 悲しい男のサガに、また引き寄せられる朋也の視線。そしてまた下からの視線に気づいてはっと目をそらす。

「こうして朋也さんにくっついていられますから」

「ず、ずいぶんと、恥ずかしいことを言うんだな……」

 頬が熱くなる。すっかりとこの関係に慣れきっているつもりでも、こうして朋也を驚かせる発言をすることがあった。

「もうすぐ日が暮れるぞ、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないのか?」

「やっぱり冬が嫌いになりました」

 つんと機嫌を損ねてしまった有紀寧に困ったように肩をすくめる。

「なんだよ急に」

「夏だったらまだ朋也さんと一緒にいられるのに」

「ぶっ」

 そして感じたことは、思ったよりも有紀寧はわがままな性格をしているということ。人に頼られる姿ばかり目にしている朋也には、それが意外でもあり、自分だけなのだという特権意識が心をくすぐられる。決して不快ではなかった。

「この冬が終わったら、春ですね」

「春だな……」

 何を言いたいのか分からずとりあえず鸚鵡返しにする。その反応に少しむっとした表情を作ると、有紀寧は朋也の太ももをズボンの上からつねった。

「いてっ」

「もう、朋也さんは酷いです。あと一ヶ月しかないんですよ」

「そうだな」

 それは朋也がここを出て行く日までの残り時間。出会いがもっと早かったのならよかった、お互いそう思わないではない。

「それとも」

 有紀寧には両親のことがある。きっと朋也との関係を許してくれる可能性はほとんどないだろう。瞼を閉じれば、思い出したくはないことものまで浮かんでしまう。

「もう一年ここにいてくれますか?」

 冗談めかしているが、すがるような瞳の奥には確かな有紀寧の願望が見えていた。

「それもいいかもな。でも……」

 自分の先のことすら見えない状況で気軽なことは口にできなかった。いまさらながら流されるように過ごしていた2年間がとても腹立たしい。もう少し、もう少し早く有紀寧と出会えていたのなら……自分の考えが甘いと分かっていてもそう思わずにはいられない。

 つむじ風が激しく窓を叩く。びくっと反応する有紀寧と言葉をとぎらせる朋也。

『似ているわけではないけど、そっくりだ』

 有紀寧の友達に聞くとそろってそう応える。もちろん兄と朋也と両方を知る友達のこと。いっそのことぜんぜん似ていなければよかったのに、確認をするたびに悲しみの感情に支配されることも少なくない。

 父親が嫌いなわけではない。兄といがみ合っていた父親の姿が嫌いだっただけ。だからこそ朋也と会わせることはできない。父親だってもう思い出したくはないだろうから。

 有紀寧の心優しい部分がふたりの関係の妨げになってしまう。どちらかを切り捨てないと、そんな残酷な選択は有紀寧にはできない。

「朋也さん」

「ああ……」

 有紀寧にできることはこの誰にも邪魔されない空間で愛しい人の名前を呟くこと。

 季節は確実に春に近づいてきているのに、ふたりに訪れる現実という厳しい冬。唯一ふたりを守ってくれている温室との別れはもうすぐそこまで来ていた。

 

 

 

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