名雪の床屋さん
じょりじょり。
「う〜む」
じょりじょり。
「伸びたな」
夕食後、俺は部屋に戻らずにそのままソファーに座ってテレビを観ていた。この時期になると特番ばっかりでいささかげんなりするが、まあ、他にないんだからしょうがない。
「ん? どうしたの、祐一?」
無意識に顎の下に手をやっていると、軽い足音を立てて名雪が顔を出した。風呂あがりなのか、バスタオルで髪を拭きながら不思議そうな顔で俺のことを見ている。
そんなきょとんした目で見られるほどおかしい行動を取っていたつもりはないんだけどな。
「いや、髭が伸びたんでそろそろ剃ろうかと考えていただけなんだが」
画面から目を離して改めて名雪に首を向ける。名雪はゆっくりと近づいてくると次の番組を見るつもりなのか、テーブルに置かれた夕刊に手を伸ばした。
「そうなんだ。へえ、祐一にはそんなイメージはないんだけどね……あ、お風呂空いたよ」
まあ、名雪が出てきたんだから他に入ってる奴はいないよな……今頃あいつはなにやってんだろ?
「当たり前だろ、俺だって健全な男子高校生なんだからよ……お前こそちゃんと処理してんのか?」
「へ? ……な、なにを?」
なんとなくいたずら心がくすぐられるな。
「例えば……あ〜、わきとかよ」
「わ、わわわ、なんてこと言うんだよっ!」
俺の言葉に素直に顔を赤くさせてるし、正直可愛いやつだ。
「一度聞いてみたかったんだが、女性はすねを処理するのに粘着テープ使うってのはほんとか?」
「え、え〜とぉ」
口篭もる名雪をそのままにして話を続けていく。
「香里なんかやってそうだけどな。こう涙なんか浮かべてさ、『何で女ばっかりがこんなことしなくちゃいけないのかしら』とぶつぶつ文句言いながらよ」
「は、ははは」
さて、俺も風呂に入るか。これ以上続けると懐が寂しくなってしまう。テレビの画面に目を向け直すとコマーシャルの途中だった。ちょうどいい。
「それよりも祐一は髪の毛の方をどうにかしたほうがいいと思うんだけど」
名雪の言葉にリモコンを取ろうとした手が止まる。
「ん? なんでだ」
「だって、前髪なんか鼻の方まで伸びてるし、なんだか目に悪そうだよ」
言われるまま前髪に手をやる、取りたてておかしいところはない。
「そうか? 慣れてしまったからなあ」
不自由もしてないし、床屋に行くのもめんどくさいしなあ。
俺が立ちかねていると名雪がポンと手を打ち鳴らした。
「そうだ! わたしが切ってあげるよ」
「は? お前がか?」
自分でも分かる間抜け面を名雪にさらしてしまう。
「うん、じゃあ準備してくるね」
すっかり乗り気になったらしく俺を置いてひとり盛りあがっている。
「……今から?」
「そうだよ、待っててね」
俺はその笑顔に押し切られるようにしてうなずいていた。
「……なあ?」
俺はなぜか重ねた新聞紙の上に正座させられていた。その後ろで名雪がはさみと櫛を手に、張り切っているんだかよく分からない気合の声を上げている。
「名雪はイチゴ柄のエプロンか」
俺は釈然としない気持ちを抱えたまま首を後ろに向けた。
「うん、わたしのお気に入りなんだよ」
まあ、それはいいとしてだ。
「で、なんで俺はパンツ一丁にならないといけないんだ!!」
「寒くないでしょ?」
「確かに暖房が効いてて暑いくらいって、そういう問題かっ!」
……情けない。まるでなんかの罰を受けているみたいじゃないか。
「だって服も汚れないし、すぐにお風呂に入れるからね」
まあ、それはそれとして、櫛とはさみを持ってにこにこしているその姿が却って不安を感じられる。
「う〜、大丈夫だよ。わたしのことが信用できないの?」
「いや、髪を切られると、その後でゴールするはめになるとかあるだろ?」
「ないよ〜」
「なにい!? 名雪は俺が翼人の記憶を受け継いで千年も苦しめと、そう言いたいのかっ!?」
「わけの分からないこと言わないで、はい、頭下げて」
「はい」
素直に頭を下げる俺であった。
「う〜、祐一の髪さらさら、う〜」
「な、なんだよ、うわっ」
すぐに何かを吹き掛けられ名雪が櫛を入れてくる。
「うらやましいな〜」
う〜う〜言いながら髪をいじっているのはいいんだが、こっちとしては切るならさっさと切って欲しいんだけどな。
「あ、祐一ここ禿げてる」
「なにっ!?」
「う、そ。いつもからかわれているからお返しだよ」
……おのれ、これが終わったからやり返してやる。
しばらくはやけに上機嫌な名雪の鼻歌と、はさみを入れる音だけがリビングに響いた。
「……ふう、終わりだよ」
「……ん、思ったより早かったな」
眠りかけていたせいなのかもしれないが、なんというかあっという間だった気がする。……確かにすっきりした気分になるなあ。
「ちょっと失敗しちゃったけどね」
……俺のすっきりした気分は?
「失敗したってどういうことだ……まさか、かっこいい俺の髪型が北川のようになってしまったのかっ?!」
あの寝癖だけは勘弁してくれ。
「う〜、違うよ、ちょっとだけ前髪が斜めになっちゃったんだよ」
「そうなのか? ま、大丈夫だろ」
鏡で確認してもピンとこない。言っておくが俺が大雑把なわけじゃないぞ。
「んじゃ、風呂に入るか……」
「それじゃ、髪の毛を掃除しないとね」
「ああ、そうだな……ってなんで掃除機を手にしているのですか?」
「動かないでね」
いや、そんなにっこりと言われても困るものがあるんですが。
「スイッチオン、だお〜」
「『だお〜』、じゃないわああああ!!! ぎゃはははは、くすっ、くすぐった、いてっ!
こらあっ!!」
「だから動いちゃだめだよ〜」
……この時間はとことん名雪のおもちゃにされる運命だったらしい。
この騒ぎは結局秋子さんが帰ってくるまで続くのであった。