親心

 

 

 俺は今夢を見ている。

 なぜだかはっきりと自覚できている。さっきからかすかな浮遊感を抱きながら俺は目標もなく歩きつづけていた。

 どこに終わりがあるのかも知らない、ひたすら伸びていく道を……いや、ところどころに分岐があったかもしれない。しかし、そこを通りすぎた瞬間に記憶の端へと追いやられていく。

 俺はなぜ歩いているんだろう?

 初めてその疑問に思い当たった。

 でも、足は止まらない。いや、風景だけが流れていて俺は一歩も動いていないのかも……風景? 風景とはなんだ。

 俺の体がオレンジ色一色に染められていく……。

 

 

 目を覚ますと、目の前にふたつの山があった。

「祐一さん?」

 山の向こうから秋子さんの顔が見える、頭の下の感触から察するにどうやら俺は秋子さんに膝枕されているらしい。つまりあれは山ではなく……。

「はあっ……」

 思い出した、不意をつかれた俺は疑いもせずあのジャムを食べてしまったのだった。

「秋子さん、いいかげんあのジャムはやめてください」

「ごめんなさいね、でも体にはいいのよ」

「……気絶するものが体にいいとは思えませんが」

「私を疑うんですか? ひどいです、泣いちゃいますよ?」

 俺が疑わしげな目で問い詰めるとくすんくすんと泣きまねをされてしまった。まったく、そんなことをしても違和感のない外見だから怖い。

「秋子さん、それはずるい……」

 はなっから勝ち目なんかないのだ。

「だって、祐一さんったらこうやって私に甘えてくれないんですもの、さびしくて」

「俺をいくつだと思っているんですか……」

 と言いつつ動こうともしない俺も同罪なんだろうな、こんな姿を名雪に見られた日にはなんて言われることか。笑顔に変わった秋子さんを見て俺はため息をついた。

「いくつになっても祐一さんはわたしの可愛い甥っ子です。なんたっておしめをかえてあげたことだってあるんですから」

「うそっ?!」

「ふふっ、姉さんが連れてきてくれたんですよ。名雪がまだ生まれたばかりの頃です。姉さんに頼まれて祐一さんを預かったのですけどなぜか急に泣きだしてしまって……あの頃からあの子は寝てばっかりでしたね」

「へえ……」

 今更記憶にないことを話されても恥ずかしいだけだ。居心地の悪い思い抱きながらわずかに頭をずらす。

「あ、姉さんは初めは女の子のほうがよかったらしく、会うたびに名雪と取り替えてくれないかって言ってましたね」

 その頃を思い出したのか秋子さんがくすくす笑った。そうか、その頃から俺は放っておかれていたんだな。

「……ひでえ親だ」

 あっさりと俺を置いて外国に渡った両親を思う。その顔がなんとなくぼやけてきたように思えた。ここにいるのはわずかな時間なのに。

「きっと冗談ですよ。祐一さんを見せるときの姉さんの目は本当に優しげで……ところで」

「はい?」

「結婚式はいつあげます?」

「ぶっ?!! あ、秋子さん! 冗談きついですよ?!」

 俺は起きあがって抗議しようとしたが秋子さんに両手で抑えられて動けなかった。

「あら? 名雪のことが嫌いになったんですか?」

「そ、そんなことは関係ありませんっ」

「じゃあ、好きなんですよね?」

 覗くように体を倒した秋子さんの髪が揺れて、そこからいい香りがしてきた。それは俺の抵抗する気持ちを一瞬にして吹き飛ばしてしまったわけで。

「……はい」

「もう少し祐一さんは自分の気持ちを名雪に伝えてあげてください」

「うえっ?」

 不意に鼻を押される。

「あの子も女の子ですからね……すぐに不安になってしまうんですよ。見たところ祐一さんは女の方にもてるみたいですしね」

「いや、そんなことはないと思いますけど……ちゃんと名雪と」

「なにしろ生まれたときから見ていたんですから、ちょっとしたことでも分かるんです。母親を馬鹿にしてはいけませんよ?」

「はあ……」

「くれぐれもよろしく頼みます……ね」

 その言葉を最後に頭の下の感触がなくなる。

「明日から検査入院することになりました」

 そう言ったときの秋子さんの笑顔はいつもと変わらないものだった。

 

 

「へえ、そんなことがあったんだ……おかしいと思ったんだよ、わたしだってそんなことをされたのって久しぶりだったし」

「ん? 名雪もなのか?」

 俺はノートを写す手を止めて名雪に聞き返した。受験のためとか言って大量に宿題を用意した教科担任のうれしそうな声を思い出して顔をしかめる。

「うん……『ちょっとこっちにいらっしゃい』なんて言われたからなんだろうって思ったんだけどね……」

「またしばらくふたりっきりだな」

「うん……」

 テーブルを挟んで向かい側にいた名雪がさっきからもじもじと俺の顔を見ている。妙な気恥ずかしさを覚えノートを凝視していると、突然立ち上がって俺の隣りに腰を下ろしぴったりくっついてきた。

「うわっ?!」

 文字が激しく乱れる。さらに消しゴムをとろうとした腕をしっかりと掴まれた。

「えへへ、お母さんに言われたんだ、素直に祐一さんに甘えなさいって……だからいいよね?」

 急接近してきたおかげで長い睫毛まではっきりと分かる。なんとなくあの時の秋子さんと同じ香りがした。使っているシャンプーが同じなんだろうか。

「……エアコンの温度を下げるか」

 空いている手でリモコンを手にしてスイッチを何度か押すと、うるさく感じていたエアコンの作動音が静かになる。

「え、なんで?」

 不思議そうな顔で見ていた名雪を俺は抱き締めた。

 

 

 

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