「……寒くなったな」

 暖房をガンガンに効かせた部屋の中とは対照的に、窓の外は雪化粧を施されて白一色に染まっている。この景色をなんとも思わなくなるくらい俺はここにいるのだろうか。

 そして……ものみの丘では厳しい冬を生き抜くためにまこぴーたちが熾烈なサバイバルを繰り広げているのだろうか……。

「そうだね」

 あきらかに気のない口調でうなずきやがった名雪がTシャツ姿で雑誌をめくっていた。なんだか感傷に浸っていた俺が間抜けに見えるじゃないか、雰囲気ぶち壊し。

「祐一だって半袖じゃない」

「お、俺のことはどうでもいいんだよ、お?」

 と振り返る俺の目に温泉の文字が。『この冬を楽しむ!』などと定番のあおりとともに、バスタオル1枚だけ巻いた女性がこちらに微笑みかけている。雑誌で特集を組まれているらしいな。

「温泉か……」

 そう言えばしばらく行ってないかもしれない。少し前までは温泉なんてと思っていたがここに来てから体にこたえたのかその言葉が凄い魅力的に感じてくる。

「祐一〜、それじゃ天野さんみたいだよ〜」

「……なにげに失礼なこと言ってるなお前」

 肩こりの原因その一のくせに。

「了承」

「え? 秋子さん?」

 説明するまでもなく、いつものポーズでいつものように脈絡もなく秋子さん出現。今更つっこむ気も起こらないが、しかし何を了承されたんだろう?

 その疑問は次の秋子さんの言葉であっさり氷解した。

「庭を見てください」

「はあ……ってなにいいいっ?!!!」

 

 

 温泉に入ろう

 

 

 立ち昇る湯気、取り囲む岩、そして竹でできたすだれ、目の前に広がる光景はまさしく露天風呂以外の何物でもない。しかし水瀬家にこんな空間があったなんて……。

 見れば名雪も俺と同じように呆然とした表情を浮かべている。

「温泉に入りたいって言いましたよね?」

「言いましたけど……ええと、なんで」

「私も行きたいと思っていたところなんですよ」

 なんだかすごくうれしそうだ。こんないきいきした秋子さんを見るのは人にアレを進めている時以来かも。

「そうですか……問題はどうしてここに温泉があるのかと」

 怪しいなんて言葉をとうに通り越してそんなこともあるかなと無条件で納得してしまいがちな秋子さんの微笑み。

「名雪はどう?」

 そして聞いちゃいないし。

「え? わ、わたし? 祐一が入るんだったら……ひっ?!」

「ど、どうした?」

 突然顔を引きつらせて悲鳴をあげた名雪に目を向ける、その間にちょうど秋子さんがいた。しかし俺からは背を向けている秋子さんの表情を窺うことはできない。

「あははっ、や、やっぱりやめておくよ、あ、そうだ、宿題があったんだ、早く終わらせないと……このままじゃ終わらないけど」

 名雪はロボットのようにぎこちない動きで立ち上がるとテーブルに読んでいた雑誌を放置してそのままの動きで部屋を出ていった。

 あれっ? てっきり入ると思ったんだがな、しかし最後に何を言いかけていたんだろうな?

「残念ねえ……ふふふ」

 秋子さんは秋子さんでうれしそうに笑っているし。

「……変な奴だな」

 これ以上深く触れることは自分の首を締めることになりかねない、水瀬家でわずかでも生活していたものならば理解できる空気……俺も大人になっちまったってことなのかな。

「祐一さんは入りますよね?」

「ええ、折角ですし」

「じゃあ、タオルです……私も後で行きますからね」

 受け取りかけたタオルが床に落ちる。

「落ちましたよ」

「え? まさかい、一緒に?」

 ここは混浴じゃない、あ、別に旅館でもないし。ええと、問題は温泉にサルがつかることがあるからその場合は……。 

「あら、こんなおばさんとはいやかしら?」

 ……母さん、男とは悲しい生き物なわけで。

 

 

 庭に降りるとお湯の中におそるおそる手を入れてみた……別段おかしいところはない。一瞬にしてジャムに切り替わって飲み込まれるというようなことはなさそうだ。

 ……自分で想像して気分が悪くなった。

「さみっ……」

 ってそれどころじゃない、こんな格好でぼけっとしてたらあっという間に風邪をひいてしまう。そういうわけで俺はこそこそと服を脱いでなぜかあった檜の風呂桶に汲んだお湯をかぶる……ふむ、いいお湯だ。原産地はおそらく日本のどこか、効能はリウマチ、神経痛、その他諸々であることは間違いない。

「しかし、なんでこんなところに……」

 呟きながらお湯の中に体を沈め、タオルを畳んで頭の上へ。俺は最低限のマナーは守る男だ。最近はかけ湯すら知らない輩がいるらしい、嘆かわしいことだ。

「俺はオヤジかよ……しかし、雪の中の温泉とは優雅だな……」

 しみじみとつぶやいていること自体がオヤジか? まあ、その景色が隣家の屋根だろうと問題はない。思わず鼻歌のひとつもでそうな気分に乾杯したいものだ。

「お湯加減はいかがですか?」

「あ、ちょうどいいですよ……秋子さんっ?! ほんとにっ?!」

 のんびり気分終了。

 白いバスタオルからのびる肢体。露にされた首筋から肩までのライン。アップにまとめられて髪型、そのすべてが俺から言葉を奪う。

 そんな俺に構わず秋子さんがのんびりとお湯をかぶると張りついたタオルが身体の曲線を際立たせて……やばい、これ以上はやばい。俺は慌てて背を向けた。

「あら、どうかしました?」

「どうかしてしまいそうになりました……いや、なんでもないっす!」

 ばしゃばしゃと大げさな音をたてて顔を洗う。こんな俺を笑いたくば笑えっ。しかししょうがないじゃないか背中に触れる吐息が……。

「うわっ?!!」

「いい気持ちですね」

 いつのまにか秋子さんがすぐ後ろに迫っていた。

「……そうですね、って近づきですよ」

「まあまあ、ところで、こんなものを用意してきたんですけど」

「へ?」

 誘いに振りかえった俺は思わず目を丸くした。秋子さんの前に何本もの徳利を乗せた枡が浮かんでいる。すぐにひとつの単語が思い浮かんだ。

「雪見酒ですか……でも俺まだ」

「固いこといいっこなしですよ、どうです、祐一さん?」

 頬をほんのり赤く染めた秋子さんに小首を傾げて見つめられて断われる男がどこにいようか、いやない! ……ありがたくご相伴に預かろうと思う。

「どうぞ」

 にこやかに差し出されたおちょこを受け取り注がれるお酒その先に見えるのは……鎖骨? 腕を上げているおかげでお湯から露になったその曲線がめちゃくちゃセクシーです。ああ、こんな説明臭いセリフをつぶやかないといけないくらいピンチなわけで。

「……溢れちゃいますよ?」

「おおおっと?」

 気がつけばなみなみとそそがれたおちょこが傾きかけている、慌てて口をつける。程よく温められた液体が流れ込んでくる。

「うまい……」

 空になったとき素直にそう言えた。

「お気に召したようでなによりです」

「えっ、まさかこれ秋子さんが?」

「はい」

 頬どころか目許まで赤く染まっている。妖艶で同時に雪と共に消えていきそうなはかなさで。一瞬でアルコールが身体中を回っていくみたいだ。

「もうひとついかがです?」

 鼓動が異常なほど早くなってきた。なんだか目がかすんでくる。

「は、はい」

 秋子さんにお酌をしてもらいながら湯につかっている自分がまるで幻のようだ……あれ? なんだか本当に幻になったみたいに消えて……。

「大丈夫ですか?」

「らいじょうぶだと……」

 そうは言っても目の前の秋子さんがふたりいるように見えてきて……。

「あらあら、のぼせてしまったんですか……介抱してあげないといけませんね、ふふふ……」

「あきこさん、なにをわらって……?」

「ちょっと、待ったっ!」

 その言葉を最後に意識が飛んでいった。

 

 

「あれ? 温泉は?」

 意識が戻ると庭にあった温泉は綺麗さっぱり消滅していた。

「……あなどれなくなりましたね」

 なぜか秋子さんがぼろぼろになっていた。

「下克上の時は近いんだよ……」

 さらに名雪もぼろぼろになっていた。 

「いったい何があった……」

 んだ、と言いかけたその先を飲みこむ。リビングに仲良く倒れているふたりに俺は声をかけちゃいけないんだいけないんだいけないんだ。

 その後しばらく、異常なほどお肌がつるつるになったことを付け加えておく。 

 

 

 

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