抱擁

 

 

「香里……なんだか最近おかしいよ」

 放課後、気がついた時にはあたしは名雪とふたりきりになっていた。つい先ほどまでホームルームがあったはずだけどどんな話がされたかなんてまったく覚えていない。

 顔を上げると教室に差しこんだ夕焼けであたしと名雪が赤く染まっている。なんだか嫌なものを想像させてあたしは反射的に目を逸らした。

「……なんでもないわよ」

 最近はあたしに向かって話しかけてくる人が少なくなっていた。それに関しては自分がそう仕向けているわけだから腹もたたない、むしろ中途半端な距離からの生ぬるい猫なで声のようなもの、それの方が今の自分にとって耐えられない。なにも知らないくせにという気持ちがどうしても働いてしまうのだ。

「ううん、ぜったいおかしいって……その、顔色もあんまりよくないみたいだし……」

 そしてなによりも無意識に切り込んでくる目の前の人物にはどう返したらよいものだろう。

「ふふ、名雪に気づかれるなんてよっぽどひどく見えるんでしょうね……そうよ、あたしは今すごく悩んでいるわ、これでいいかしら?」

「茶化さないで」

 さすがに名雪の声が硬くなった。こんな表情の名雪を見るのは珍しい、それだけに本気で心配してくれているのだろうと思う。でもそれが今のあたしにはすごく煩わしい。

「悪いけど、あなたに話しても仕方ないことだから」

 思い出したように机の中の教科書を取り出して鞄に詰めていく。家に帰りたいという気持ちもなかったけど、この制服にはあの子の想いが乗り移っていそうでなんとなく嫌だった。 

 今も真新しい制服が大切にしまわれている。あの子が初めて制服に袖を通した時は……やめよう、思い出したところでどうにもならない。

「そんなこと言わないでよ、人に話せば少しすっきりするはずだよ」

 話を切り上げようと鞄を閉じたあたしの目に入るように名雪がわざわざ体を傾ける。

「そしてさらに周りからいらぬ心配をかけてしまう……あたしは嫌よ」

 珍しく食い下がっていく名雪にあたしは静かに言い返す。名雪の強引さにあたしも意地になりかけていた。

「やっぱり……妹さんのことなんだね」

「っ?!! なんで名雪がそのことを……?」

 反射的に名雪を見てしまって、それからしまったと思った。鈍い名雪なら大丈夫だと思っていたのに。思った以上に強く視線で問い詰めていたのだろう。名雪がすまなそうに言い訳する。

「ごめんね、そんなつもりはなかったんだけど……職員室で先生と香里が話しているのを聞いちゃったんだ……」

 なるほど、それでか……理由がはっきりした。確かに心優しい名雪のことだ、あたしの状況を知って黙っていられるはずもない、だから教えないでいたのに。

「そうなんだ」

 自分でも名雪に向ける視線が冷ややかになるのが分かる。

「あたしなんかに構わないで、あなたは相沢君にだけ目を向けていればいいのよ」

 言ってはいけない言葉と知ってはいたけど口は止まらない、名雪は見るからにしょんぼりとしてしまった。

「祐一はわたしのことなんか見てくれない……」

「ふふっ、それであたしにちょっかいをかけるってわけね」

「ひ、ひどいよっ! わ、わたしのことはどうでもいいんだよ、今はっ!!」

「ようするにふられたんでしょ。で、気を紛らわせたいところにちょうどよくあたしがいたってわけね」

「香里……」

「それこそ余計なおせっかいよ……あなたに話したからって解決する問題じゃない」

「でもわたしと香里は親友……」

「ええそうね、これからもいいお友達でいましょうね」

 泣きそうになってる名雪ににっこりと微笑んであげる、内心のいらつきを抑えながら。これであの子も離れていくだろう。

 あたしには妹はいない。妹はいないのだから名雪の心配もナンセンスだ。むしろ滑稽過ぎる。いもしない妹のことで心を痛める、名雪らしいといえば名雪らしいかもしれない、そう、他人に向ける意識の何割かを自分に向ければいいのに。だから幸福を取り逃がしてしまうのだ。

「そういうわけだから帰らせてもらうわ……」

「香里っ!」

 何が起こったのか一瞬把握できなかった。気がついた時には名雪の制服が目の前にあって、

「え?」

 あたしは柔らかく受けとめられていた。

 抱き締められた? こんな経験なんかまったく記憶にないあたしは気ばかり焦って動くことすらできない、情けないけどただ固く体を縮ませるだけ。物心ついた時にはあたしはお姉さんでしっかりした子だと周りから言われていたし、そうしてもらいたいとも思わなかった。 

 けど初めて味わったその感覚はとても優しくて、泣きたいくらいに切なくて、名雪があたしの緊張を解きほぐすかのようにゆっくりと背中を撫でさすってくれているのがますます拍車をかける。

「だめだよ……諦めちゃ」

 泣いている? どうして……?

「なんで名雪が泣いているのよ……」

「私は知ることすらできなかったんだよ……」

 何をと言いかけてすぐに思い当たった、そうだ、この子には父親がいないってことは知り合ってすぐに……。

「つらいのは分かるよ……でもね」

「今更そんなことなんて……」

「遅いとか早いとかなんて問題じゃないよ、このままだときっと後悔するよ」

 女の子の涙ってどうして説得力があるんだろう。すっかり名雪に引きずられている自分に気がついて慌てた声をあげた。

「いやだっ、なんだかあたしまで泣いてしまいそうじゃないっ」

「うん……泣きたい時は泣いていいんだよ」

 涙混じりの笑顔でそう言われて、どうして堪えることができるだろう。

「名雪ぃっ!」

 夕焼けに照られた名雪の顔は先ほどまでとはまったく印象が違っていて、とても暖かかった。

 

 

「泣いちゃった……」

 名雪の袖に刻まれた証拠に急に恥ずかしさがこみ上げる。きっと今あたしの顔は真っ赤になっていることだろう。全てを吐き出して泣いたおかげで妙にさっぱりした気分になれた。

「今の香里、凄くいい顔しているよ」

「えっ? かっ、からかわないでよっ」

 名雪の方がよっぽどいい顔をしているじゃない、なんてことは恥ずかしくて全然言えない。どこまでも意地っ張りな自分。

「ねえ、帰りに百花屋に寄らない?」

「……いいわよ、泣いたらなんだかお腹が空いてきちゃったみたい」

「だから香里って大好きっ」

「もう、調子がいいんだから」

 今日は店でとびっきり甘いものを頼もう、そう考えながらあたしは鞄を手に取る。空は既に赤に群青色が混じり初めていた。

「今日はもう終わり、ね」

「ん?」

「ふふっ」

 あの子もいつか抱きしめてあげようと思う、その時はどんな顔をしてくれるだろうか。

 

 

 

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