ラストバレンタイン

 

 

「今日は急に押し掛けてしまって申し訳ありません」

 玄関を開けるなりふかぶかと頭を下げる佐祐理に、祐一は却って恐縮しながらあがるように勧める。卒業してからもちょくちょく会ってはいたが受験のせいですっかり縁の遠くなった元先輩の笑顔はいつもと変わらないように思えた、いや、少し大人びて見えて内心どきりとした。

「佐祐理さんならいつでも大歓迎だよ」

「祐一さんにとって大事な時期なのに考えなしに、ご迷惑でしたよね」

「あ〜別に構わないよ。一日勉強しないところでたいして変わるわけでもないし。それに、それで落ちたなら俺の力がそこまでしかなかったってことだから。逆に佐祐理さんが来てくれたってことだけで頑張れる気がするよ」

「そう言っていただけると助かります、ほんとに……」

 名雪が選んだと思われる猫のイラストがプリントされたスリッパに履きかえるのを見ると先に立って歩く。そういえばここに来たのは初めてだったかなと、祐一は後ろを気にしつつぼんやりと考えていた。

 祐一は佐祐理をリビングに通すと、とりあえず秋子が買ってきた紅茶を淹れにキッチンに向かった。缶を開けると祐一の知らない異国のハーブの香りが立ち昇り、魅力的な女性の前であがりかけた心を落ち着かせる。

 リビングに戻ってカップをふたつ置くと祐一は向かい合わせにソファーに腰かけた。既に佐祐理は着ていたコートを脱いでシンプルなデザインのセーター姿に変わっている。その効果もあいまってか、再び視線を合わせたとたん、ハーブによる効果はたちまちのうちに失せてしまった。

「秋子さんが淹れてくれたならもっとうまいんだけどな」

「そんなことありませんよ〜」

 佐祐理が楽しげにスティックシュガーを注ぎスプーンでかき混ぜる。そのスプーンを見ているうち、祐一はかき混ぜられる紅茶が一瞬自分にだぶって見えて頭を振った。続けざまにマグカップを抱え込むようにして紅茶を飲む姿にも見とれ、気取られないように自分もカップを手にとりさりげなく顔を半分だけ隠す。

「佐祐理さんと会うのも久しぶりだよな。大学のほうはどう? 楽しい?」

 とりあえず無難な話題で探りを入れてみる。そういえばなんで佐祐理が来たのかよく分かっていなかった。

「ええ、新しい友達もできましたし、楽しいですよ〜」

「あれ、今日は確か平日だよね」

「大学はもう春休みに入っているんですよ、羨ましいでしょう」

 と、カップを下ろしにっこりと微笑む。湯気というフィルターを通してもその笑顔が素敵なことに違いはなかった。祐一の心臓の鼓動が加速していく。

「ふうん、それで、家に来た用件ってのはなに?」

「ええとですね、祐一さんに渡す物がありまして」

「へ? 俺佐祐理さんに物を貰えるようなことなんてしてないぜ?」

 きょとんとした祐一に佐祐理が口元に手を当てていたずらっぽく笑う。

「お忘れですか? 今日はバレンタインですよ〜」

 その言葉にカレンダーを慌てて確認して祐一は頭をかいた。

「あっ、いやすっかり受験で頭が一杯になってたからな……あれっ、ってことはもしかして佐祐理さんから貰えるのか?」

「もしかしなくてもあげちゃいます。ええと、確か祐一さんは甘いものは苦手でしたよね。ですからビターチョコレートを作ってきました」

「佐祐理さんの手作りかあ」

「はい〜、どうぞ」

 脇に置いたブランド物のバッグから綺麗にラッピングされた長方形の包みを取りだし祐一に手渡す。祐一はそれを押し頂くように受け取ると、目で断わりを入れてからさっそく中身を確認しようとした。

「……そうそう、佐祐理は結婚することになりました」

「えっ?」

 包装紙にかけた指がぴたっと止まる。祐一がチョコレートから視線を移すと佐祐理はチョコレートを渡した時の笑顔のまま。顔を上げたものの、祐一は急に切り替わった言葉の意味を理解できずにいた。

「……なんだか佐祐理さんが結婚するって聞こえたような気がするんだけど」

「それであってますよ、式を挙げるのは6月なんですけどね」

「まだ学生なんだろ?」

 ようやく思考回路が回復したものの今度は言葉が喉に引っかかる。

「はい、そうですけど先方が佐祐理のことをいたく気にいったようでして、とんとん拍子に話が進みました」

「もしかして相手は久瀬」

「いえ違いますよ、佐祐理よりもっと年上の方です」

 先ほどまでの高鳴りがすうっと冷めていく。

「……佐祐理さんはどうなの、その相手のことを」

「まだ2、3度しかお会いしていませんからよく分からないですけど、会ったかぎりでは優しそうな方にお見受けしました」

「よく分からない? それなのに結婚するっていうのか?」

 知らず声が大きくなる。詰問するような祐一に対しても佐祐理は穏やかな顔を見せていたが、やがて小さく呟いた。

「来年お父様の選挙がありますから……そういうことなんです」

 その倉田佐祐理の重い言葉にさらに祐一の気持ちが沈んでしまい、逆になんて声をかけたらいいのか分からなくなる。父親をなじるのは簡単だがそれで佐祐理が喜ぶとは思えない。沈黙した祐一をよそに佐祐理は明るい調子で続けた。

「ですから佐祐理は最後になるだろうバレンタインを楽しもうかと思いまして。ふふっ、お父さま以外の男の方にチョコレートをプレゼントするのは初めてなんですよ。祐一さんのおかげで作っている間甘い気分を楽しむことができました……作ったチョコレートは甘くありませんけど」

 そして自分で言った言葉にくすりと笑う。

「……ひでえな、佐祐理さんの意思は無視かよ」

「嫌だと言ったら、祐一さんは佐祐理を奪ってくれますか?」

 すかさず言い返したその言葉を最後に佐祐理は口をつぐんだ。初めて見せた佐祐理の挑みかかるような視線に祐一は返事をすることもできず、かと言って目を逸らすこともできず、結果としてふたりはじっと見詰め合うこととなった。

 部屋の時計の針の音が心に波を立てる、その裏側で妙に冷静な自分がいることに祐一は気づいた。

 そしてそのことに佐祐理も気づいてしまった。

「……ではそろそろ帰りますね、祐一さん、受験頑張ってください」

 置かれたカップの湯気が見えなくなるころ、佐祐理がふうっと息を吐き出す。ようやくお互いの間の緊張が解け祐一はやっと肩の力を抜くことができた。首の後ろの不快感に顔をしかめる祐一に対して佐祐理は不思議なほど澄みきった穏やかな顔をしている。

「……ありがとうございます」

 コートに手をかけボタンを留め始めたところで祐一はようやく佐祐理が帰ることに気づいた。

「あ、結婚式には必ず出席してくださいね。祐一さんが後悔するくらい綺麗になった佐祐理を見せてあげますから」

 見送ろうと慌てて立ちあがりかけた祐一を手で制し、頭を軽く下げると佐祐理はばたばたと大きなスリッパの音をたてて去っていった。

「結婚……か」

 そうひとりごちると祐一は包装紙を破かないように苦労しながら開き始めた。ほどなく中からなんの飾りもない板チョコが姿を現す。光に透かしても遠くから眺めても普通のチョコレートだった。

 祐一はじっとそれを見つめると、ゆっくりと一口かじる。パキッと景気のいい音をたててチョコレートはふたつに分かれた。

「あれ、苦いというより……しょっぱいな」

 歯型のついたチョコレートは祐一の目になにかを表しているように見えた。

 

 

 

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