家庭円満

 

 

 俺がここに引っ越ししてきて約二ヶ月、本当にいろいろなことが起こった。ちょっと目を閉じるだけでその膨大な記録が頭に流れこんできて頭が痛くなるくらいだ。ここまで充実しながら空虚な時間を過ごせる人間がどれだけいることだろうか。

 想い出とともに手に入れた物がある、そして代わりに失った物も。

 水瀬家から真琴が消え、あゆもいつのまにか姿を見せなくなり、秋子さんも帰らぬ人となった。

「……あらあら、勝手に殺さないでくださいね」

「ごめんなさい」

 得体の知れない内容物を秘めた瓶を片手に、たおやかに微笑みつつプレッシャーをかけられる人を俺は秋子さん以外に知らない。入院していたはずなのにそれをいつのまにか手にしている不思議さもプラスだ。

 ……あ、俺の母親もそうか。さすがにこのあたりは姉妹だよなあ。

 じゃなくて、

「ともかく、退院おめでとうございます」

 残念ながら今日をもって名雪とのふたりきりの生活は終わりを告げた。ちなみに名雪は部活があるとかで俺が一足先に秋子さんを迎えに行くことになった。恥ずかしくて顔を会わせられないってことらしいが、どうせばれてしまうんだからなとも思う。

 しかしよかったなあ、ふたりだけの生活って、あんなこともこんなことも名雪はしてくれたし。『ゆ、祐一だからするんだからねっ』って時のすねたような上目遣いが……。

「……あまりうれしそうではないですね」

「ははは、まさかそんな」

 ……しまった、この人の前でするべきことではなかった……その深い瞳の色ですべてを見透かしている。

「心配しなくても、名雪とのことに口を挟むつもりはありませんよ」

 やはりばれていたか。

「……ただ」

「ただ?」

「子供はふたりでお願いしますね」

「……気が早すぎますよ」

「私のことは秋子おねえさんって呼ばせてくださいね」

「……そんな無茶な、年……いえいえなんでもないですよ」

 その先は死んでも言えない。

「それと……」

「と?」

「赤ちゃんプレイはほどほどにしてくださいね、いくら予行演習だからといって」

 俺は思いっきり吹き出した。

「み、見てたんですかっ!?」

「あらあら、私は入院していたんですよ」

 ……嘘だ。だが真実をつきとめてもろくなことにならない、闇から生じたものは光にしてはならない……つうか、この雰囲気に耐えられません、やはりむりやりにでも名雪を引きずってくるべきだったか、攻撃の目標はひとつでも多い方が被害は少なくなるはず……却って火に油を注ぐかもしれないけど。

「そ、そろそろ行きましょうか?」

 そんなことを言う俺の腰はかなり引けていたかもしれない。

 ちゃんとラブホテルに行けばよかったんだよ、それをイチゴサンデー代がなくなるとか言いやがって……あとでおしおき決定。

 俺は江戸の仇を長崎で討つことに決めた。

 

 

「そういうわけで」

「痛いっ、どうして殴るんだよっ?!」

 理不尽にも名雪が怒った。

「おしおきだからだ」

「う〜っ、わけが分からないよ〜」

 理解も足りなかった、そして俺は以心伝心という言葉は嘘だと悟った。

「簡潔に言うと、お前が付いてこなかったせいで俺はひどい目にあった」

「よく分からないけど、自業自得だと思うよ」

「見てないのに勝手なことを言うなっ!」

 わざわざ説明してやったというのに名雪は不満そうだ。

「まあまあ、ふたりともその辺で……もう私がいなくても大丈夫みたいですね、老人ホームのパンフレットはどこに置いたかしら……?」

「勝手にすねないでくださいっ!」

「あ、あの……わたしが作ったお赤飯どうかな……?」

 お赤飯に天ぷらお吸い物、今日の夕食は快気祝だといって名雪がすべて作った。衣の揚げ具合も軽く、さくさくとした天ぷらともちもちした赤飯の食感はどこまでも俺の腹に収まっていきそうだ。

 ……改めて、俺の母親に見習わせたいものだ。こうやってうまいと思っているってことはだ、今まで食わされていたものがそういうことだったということだろう。

「俺、元の家に帰れるのかな……」

 母さん、贅沢は素敵です。

「え〜、祐一帰っちゃうの〜? そんなのだめだよっ」

「いや、多分大丈夫だろ」

 あの放任主義の両親が今更俺を呼び寄せるとは思えないし。むしろ邪魔者の俺がいなくなって好きなだけいちゃいちゃしてるだろうな……俺がいても関係なかったしな。

「姉さんが羨ましいわね……私も名雪の制服を借りて出かけようかしら」

 秋子さんがとんでもないことを言いだした。

「おかあさんっ!」

「ふふ、冗談よ……名雪の制服は胸が少し苦しいからね」

「お、か、あ、さ、んっ! 余計なことは言わなくていいのっ!! わっ、わたしだってすぐに大きくなるもんっ、ねっ、祐一?」

 何故そこで俺に同意を求めますか。

「心当たりがおありのようですね」

 案の定しっかりつっこまれたし。

「いやっ、あのっ」 

「やっぱり特養ホームの手配をした方が」

「どうしてそうなるんですかっ」

「だってえ」

 頼むから涙目にならないでください。これが叔母のすることですか。

「すぐに結婚はしませんっ!」

「え〜っ?!」

「……って名雪、常識で考えればそうだろ。まだすねかじってる身分でなあ」

「ふふふ、私が養ってあげますよ、若いツバメを持つのも悪くないですねえ」

「お母さん、言っていいこととっ!」

「あ〜、もう頼むから大人しく食事を続けてくださいっ!」

 こんな調子で果たしてやっていけるんだろうか……早くも未来に不安を覚える俺がいたりした。

 

 

「祐一〜、私の制服知らない〜?」

 翌朝、いつものごとく名雪を起こしにいくと、なぜか名雪が起きていて慌てた様子で部屋を引っくり返していた。

「はっ? そんなこと俺に聞いてどうする」

「ちゃんとここに掛けていたはずなんだよ〜」

 名雪が指差したコートなどが掛けられたハンガーの群れを眺める、確かに言う通り制服はない。

「秋子さんが洗濯したんじゃないのか、それよりも腹減ったな」

「一緒に探してよ〜」

 とは言うが、さすがに下着が散乱し始めているような状況で漁るようなまねはしたくない……つーか気づけ。

「先に降りてるぞ〜」

「あ〜、ひどい〜」

 非難するような名雪の声を残して俺は階段を降りた。

 

 

「おや?」

 下に降りてみればいつもの食欲をそそる匂いがしない、違和感を覚えながら俺はキッチンに向かう。食事の用意は何もされてはおらず、代わりにテーブルに紙が置いてあった。

『旅に出ます』

「…………」

 ……え?

「あ、秋子さ〜〜〜ん!!!!?」

 冗談じゃなかったんかい……。

 

 

 三日後妙に上機嫌の秋子さんが帰宅した。何をしていたのかいくら問い詰めても教えてくれなかったが、あれほど探しても見つからなかった名雪の制服は元の場所に戻されていた。それはまるでクリーニングされたばかりのようにきれいだったという。

 ともかく水瀬家に平穏な日々が戻ってきたというわけで、めでたい……のか。

 

 

 

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