一年を無事に過ごせたことを
「入ってもいい?」
突然聞こえてきた控えめなノックの音に、ちらりと目覚ましを見た香里が不思議そうに眉を寄せる。それでも返事をすると、彼女の妹が少し眠たげに目をこすりながら部屋に入ってきた。
「子供は早く寝ないとだめなんじゃないの?」
「う〜っ」
からかわれて唸り声を上げる栞、その表情が香里の机の問題集に気づくことできょとんとしたものに変わる。彼女の記憶によれば確か一週間前に全てを受け終えたはずだ。
「まだ勉強してるの? 入試は終わったんでしょ?」
その疑問をぶつけると、今度は香里のほうがきょとんとした。
「は? そうだけど、何があるか分からないじゃない。もし落ちていたら後期にかけないといけないし」
言われてみればもっともなことだ、栞は頭を掻くと照れ笑いを浮かべた。香里もつられるように微笑む。姉妹の間に穏やかな空気が流れた。
「あ、そうか〜。でもお姉ちゃんならどこ受けたって心配いらないと思うけど……あれ?そういえばどこ受けたんだっけ?」
瞬間、香里が凍りついた。そしてばつが悪そうにそそくさと栞から目線をそらす。そのあからさまに不審な行動に栞が視線で答えを急かすと、しばらくしてから小さな声で呟いた。
「……よ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、その大学って祐一さんの」
すぐに思い当たった栞の声が跳ねあがる。
「ええ、そうよ。相沢君に悪い虫がつかないように姉であるあたしがきちんと監視してあげないといけないでしょ。なにしろ相沢君はもてるし……」
ここで香里が口よどむ。が、栞の追求する厳しい目が許さない。
「それに名雪も同じところを受けたんだから」
「名雪さんまで? まだ諦めてなかったんですか、あの人はっ!」
強力なライバルの動向に気が気でなくなったのか栞の声のトーンがさらに上がる。すぐに両親が寝ていることに気づいて声を潜め、ついでとばかりにこの場にいない名雪に向かってぶつぶつ言い始めた。
「ふふっ、そういうわけだからしばらく相沢君を借りるわね」
「借りるっていっても、高校とは違うんだからいつも一緒になれるわけではっ」
「あたしが同じ授業を取っていたとしたらレポートや試験の時期には必ずあたしに頼ってくるでしょうね……ふふふ、代わりになにしてもらおうかしら」
「う〜っ、なんだかんだ言って受かる気まんまんじゃないの……そういうことなら祐一さんの合格祈願を取り消しちゃおうかな」
「ひどいこと言うわね」
「みすみすお姉ちゃんたちに奪われるくらいならきっと祐一さんも喜んでくれるはずだよ」
「……あたしまで数に含めないでよ」
否定する香里に栞がきっと真剣な目を向けた。祐一の事となると融通の効かなくなる妹に心の中でため息をつく。
「お姉ちゃんだって祐一さんのこと好きなんでしょ」
「そりゃあ嫌いではないけど」
「恋愛感情なんていつどこで起こるか分からないんだよっ。私と祐一さんとの出会いなんかっ」
「……ところで何しに来たのよ」
このままどこまでも語りつづけそうな様子に慌てて香里がストップをかけた。栞が自分の世界に入りこむとなかなか戻ってこないことはよく知っている。
「あっ、忘れてた」
「忘れてたじゃないわよ」
栞の言葉に呆れ顔の香里。内心は追及の手が緩んでほっとしていたりする。
「誕生日おめでとう」
栞は一転して姿勢を正すとぺこりと頭を下げた。あれから伸ばし始めた髪がふわりと揺れる。
「……ありがとう」
くせっ毛の自分を顧みて少しねたましい気持ちが湧き起こる香里だった。
「えへっ、誰よりも早く言っておきたかったんだよ……プレゼントはもうちょっと待っててね」
「期待してるわよ」
不意に熱いものがこみあげそうになり香里はぐっとこらえて精一杯の笑顔を見せた。目の前の妹はかつて誕生日を迎えられないとまで言われていた。正直、祝福の言葉を貰える今日のことなんて想像したこともなかった。
「それと、もうすぐ卒業式だね」
「栞は出席するの?」
「えへへ、もちろんだよ。ばっちりお姉ちゃんの泣き顔みるんだから。わんわん泣いているお姉ちゃんの顔なんてめったに見れないしね」
「あたしは泣かないわよ」
苦笑しながらそう言うと、栞が不満げな表情を浮かべた。
「え〜っ、そんなのドラマに相応しくないよ」
「ドラマねえ……相沢君の第二ボタンでも狙ってるのかしら」
「当然っ! 卒業式の王道だよっ!!」
「そ、そう……頑張ってね」
「お姉ちゃんには負けないんだから」
「だから、あたしは関係ないって」
「う〜、本当?」
「本当、本当。なんでそんなにあたしを気にするのよ」
香里の言葉に栞がじろじろと香里を上から下まで一通り眺める。居心地の悪さを覚えやめさせようと香里が声を出そうとした時、栞が唇を尖らせた。
「だって、私がお姉ちゃんに敵うわけないじゃない」
「あのねえ、あたしと比べてもしょうがないじゃない、栞は栞なんだから」
「分かっているよ、いるけど……でも今も勉強しているお姉ちゃんみたいに安心できないんだもん……なんで祐一さんの周りには素敵な女の人ばかりが集まるのかなあ」
「それは暗に自分も素敵だと言いたいわけね」
つっこまれて栞が舌を出す。
「えへへ、美坂香里の妹といたしましてはちょっとくらいは自信をもってもいいかなあって」
「調子いいんだから」
「お姉ちゃんだって否定しないじゃない」
「ふふっ、何しろ美坂栞の自慢の姉としては否定するわけにもいかないじゃない?」
そして笑顔で見つめあうふたり、やがて栞がこらえきれずに大あくびをしておしゃべりはおひらきとなった。
「さて、自慢の姉の邪魔をしないように私は寝ることにしよっ」
「おやすみなさい、栞」
「うん、お姉ちゃんもほどほどにね」
おやすみなさい、と栞の唇がゆっくり動いてばたんとドアが閉められる、香里はふっと息を吐いた。
「……栞にはとても言えないわね」
一年前の思い出を頭から消すと香里は再び机に向かう。けれどすぐに問題集を閉じて立ちあがると香里はカーテンを開いた。
「……泣くのは、あれが最後にしたいものね」
呟いてガラスについた水滴をそっとなぞる。そして香里はこつんと窓に額を押し当てた、まるで熱を逃がすかのように。
栞のプレゼントは自慢の姉を描いた肖像画だった。それは引きつった顔を必死におし隠して受け取る香里の姿が哀れに見えるほど、とても正視に耐えられないような代物だったらしい。さりとて捨てるわけにもいかず、勉強どころではなくなった香里の苦悩する姿があったという。
「いやーっ、見てる……あたしじゃないあたしがあたしを見てる……もしかして嫌がらせじゃないかしら……」