うぐぅの日
退院してから秋子さんの家に住みつくことになったあゆの部屋に押しかける。ここでの平和な暮らしにすっかり健康を取り戻し、あゆは元気一杯の姿を近所の皆さんに見せつけている、よいことだ。
「喜べ、あゆ。ついにお前の日がやってきたぞ」
「それってどういうこと?」
きょとんとして問い返すあゆは目覚めてから間もないのかまだ眠たげな目をしていた。起きているだけ名雪よりはましかもしれん。
「知らないのか? 今日は子供の日だろ」
ベッドの上に脱ぎ捨てられたパジャマをさりげなく隠そうとするあゆのいじましい努力を気づかないふりで部屋の窓によりかかる。
「それは知っているけどさ、どうしてボクの日なのかよく分からないんだけど」
「チャイルドオブチルドレンとして輝ける実績を持っているあゆのセリフとは思えないな。がっかりだぜ」
「ど、どういうことだよ、それっ! ボクのどこが子供だって言うのさ!」
言い返してくるあゆの体の一部分にどうしても視線が向かってしまう。そこだけはいくら健康を取り戻しても成長の兆しを見せることはなかった……過去形にするのは少し可哀相かな。
「ん? どこをどう見ても子供だろ? そ……」
「祐一くん、それ以上言うと殺すよ?」
目が笑っていない、まずい、ヤツは本気だ。ちと追い詰めすぎたみたいだな。
「そ……それはさておき……」
「うまくごまかしたね」
視線のプレッシャーが消え去り俺はほっと息を吐いた。意志半ばにして倒れてはご先祖様に申し訳が立たない。
「子供の日に必ずしておかないとならない儀式があるのを知っているか?」
気を取りなおしてあゆに問いかける。
「ううん」
何のことだか分からないといった表情で首を振るあゆ。そんなあゆに俺は窓の外を指差してやる。
「外に鯉のぼりがあるだろ?」
「うん、そうだね」
どうして秋子さんの家にあるのかは不思議だが、それを見た時の秋子さんの目が少し潤んでいたので何も聞く気はならなかった。
「あれは登竜門と言う故事に倣って、男の子がたくましく育つようにという願いが込められているわけなんだが……実はもうひとつ別の話があるらしいぞ」
「へえ、そうなんだ〜。祐一くんよくそんなの知ってるねえ」
「うむ、授業があまりにも詰まらないので暇つぶしに読んでいた本に書いてあったわけなんだが」
「それはかなり本末転倒だと思うけど……」
呆れられた。
「お〜、あゆのくせに本末転倒だなんて難しい言葉よく知っていたな」
「……ボクのこと馬鹿にしてるでしょ」
「まあ、待て。その話がどんなのか知りたいと思わないか? これからの人生において何かの役に立つかもしれんぞ」
つい口が滑ってしまった。ここでへそを曲げられるのはまずい。
「う〜ん、そうだね、ちょっとは気になってきたよ。祐一くんがボクにお話を聞かせてくれるなんてめったにないことだもん」
「そうだろそうだろ、今から語ってやるから耳の穴かっぽじって聞けよ」
「……なんでそんなに偉そうなのさ」
「昔な、こい姫と言う貴族の娘がいたんだと、それがなんとあゆも真っ青なちんちくりんだったという話だ」
「ボクはちんちくりんじゃないもん!」
真っ赤な顔で抗議するあゆを無視して話を続ける。
「年頃になったこい姫には好きな男がいたんだけど、こんな子供じゃ好きになってくれないと思って、神様に大人になれるよう熱心にお願いしたんだそうだ……そんなある日、こい姫が屋敷の縁側で物思いに耽っていたところ、庭の池に放していた1匹の鯉が姫に話しかけてきた」
「へえ」
あゆが興味をひかれたようにうなずく。
「私は実は川の神だがこんなところに捕らえられている、私を無事に解放してくれるならあなたの願いをかなえてあげようってな」
「ええっ、神様だったんだ」
「うむ、素直な姫はもちろんその話にのって神様を川に返してやることにした」
「うんうん、やっぱり親切にしないとね」
「ところがだ、その鯉が神は神でも悪い神様のほうでな、こい姫が川に放してあげたとたん、なんとそいつはこい姫を鯉の姿に変えてしまったんだ」
「え〜〜っ! ひどいよっ!! お姫さま、可哀相」
「話が違うじゃないか、と怒るこい姫に、その悪い奴は何を言うか、ちゃんと大人の姿に変えてやったじゃないかと言い返したそうだ、それ以来その川ではこい姫の声ですすり泣く鯉の姿があったそうだぞ」
「ちっとも面白くないよ……」
唇を尖らして不満を訴えるあゆ、しかし、ここからが本番だぞ、くくく。
「祐一くんがにやにやしてるよ……」
「さて、そんなわけだから近隣に住む人間が気味悪がってその川に近づくことがなくなったわけなんだが、そのままではいかんだろうということでその鯉を退治することになったわけだ」
「た、退治っ? お姫様殺されちゃうの?」
「うむ、残念ながらな……しかも退治したのはこい姫が思いを寄せていた男だったそうでな。死んだ瞬間にこい姫はもとの姿に戻ったのだが」
「そ、そんなの意味ないじゃないかっ!!」
「そしてその男もその場で自害したそうなんだ、男もこい姫のことが好きだった、それなのにこい姫のことが分からなかった不甲斐なさにな、それがちょうど今日だったという話だ……いや〜、悲しい話だったな」
「てっきり胸の暖かくなる話だと思っていたよ……」
すっかりしょげ返ってしまった。
「後世の人間がふたりがあまりにも可哀相だということで、こいのぼりを上げて慰めようとした理由だが……」
「……まだなにかあるの?」
「話にはおまけがあってな、この話を聞いた人間は次の端午の節句までにこいのぼりに上って鯉に触れないと、こい姫の呪いがかかって自分も鯉にされてしまうってことだ」
思いっきり低い声音で脅してやるとすぐにあゆの顔が青くなる。いいな、その素直な反応、俺は好きだぞ。
「そ、そんな〜っ、そんな話を聞かせるなんて、ゆ、祐一くんひどいよっ!!」
「ふっふっふ〜、さあどうするあゆ。ちなみに俺は既に触れてきたぞ〜。あゆが鯉になったら俺には分からないな」
「うう〜っ、祐一くんのバカ〜」
泣きながら部屋を出ていくと、数分後にポールに取りつくあゆの姿が見えた。こんなに簡単に人の話を信じるなんて将来が心配だぞ。
「お〜、こいのぼりならぬあゆのぼりだな」
「祐一さん、あんまりあゆちゃんをからかったらだめですよ」
背中から秋子さんの声が聞こえてくる。飛び出したあゆを見てなにごとかとやってきたに違いない。
「いや〜、いちいち反応してくれるあゆが面白くて」
涙目になりながら鯉に触ろうと屋根の辺りまで登っているあゆを眺めながら俺は爽やかに笑った、今日はいい天気だ。