六月の空

 

 

「お久しぶり」

 懐かしい声に呼ばれて、手持ち無沙汰に窓の外を見ていた祐一が振り向く。向かいの席のには卒業の日以来会うことのなかった香里が立っていた。

「栞にはもう会ったのか?」

 祐一が挨拶を返すと、香里は飛んできたウエイトレスに対してメニューも見ずにコーヒーを注文し、すぐに祐一に向き直る。

「ええ、しばらくこっちにいるのかどうかうるさいくらい聞かれたわよ」

 うんざりといいたげの香里のその表情に、容易にその光景が想像できて祐一は思わず笑った。苦笑いでもって応える香里に渋い表情を浮かべて椅子に座りなおす。

「帰ってくるなら前もって連絡くらい入れてくれよな……大学生は暇じゃないないんだぞ」

「でも来てくれたわよね」

「ああ、明日の昼食代を犠牲にしてな」

 ぼやく祐一に香里が軽やかに微笑む。

「あたしと会えるということを考えればそのくらい安いものじゃない?」 

 何か言い返そうとする祐一よりも先に、香里は「冗談よ」と笑った。

「しかしまたなんでこんな時期に帰ってくるんだ? 夏休みはまだ先だろ?」

 祐一の質問に困ったように自分の髪を撫でる。

「髪の毛がね」

「は?」

「べとつくのよ」

 艶やかな唇から息が漏れる。

「はあ」

 対して祐一は要領の得ない声を漏らす。

「それで鏡を見る機会が増えてね……だからよ」

「だからよ……って」

「いいの」

「はあ」

 祐一はあいまいにうなずきながらスプーンを弄ぶ。それが中身のほとんど入っていないカップの底に当たりカチンと甲高い音をたてた。

「帰ってきてみるとね、やっぱりここが一番かなって思うのよ……ああ、相沢君が言いたいことは分かるわよ。逃げたって思われても仕方ないわよね」

 祐一は思い出す、香里が誰にも告げずに2、3日姿を消したあのことを。本気で泣き出した栞になんにもなかったかのように帰ってきて受験だと答えた時の香里の表情を。

「ほんとはね、このまま相沢君を連れて行っちゃおうかなって」

「香里」

 祐一の声が強ばった。

「……冗談よ、冗談。あたしはもう栞を悲しませるようなことはしないって決めたの」 

 それだけ言うと香里は寂しげに目を伏せた。祐一もなんとも言えずに押し黙る。

 店に流れるはやりの音楽が、ふたりの気持ちと裏腹に愛をつづっていた。明るい調子でボーカルが恋人といつまでも離れないと宣言する。

 去年の夏、祐一が栞の部屋に遊びに行くときも香里はこんな顔をしていたな、祐一は微妙に視線をそらしながら思い出していた。

『仲のいいことね』

『お前らには敵わないけどな』

『そうかしらね……ところで遊んでばっかりで大丈夫なの? 来年の春に泣くようなはめになっても知らないわよ』

『まあ、後悔しない程度にはやるさ』

『ふーん、あたしが勉強見てあげようか』

『いいよ、香里の迷惑になりそうだからな』

『そんなことないのに……』

「何を考えているの?」

 不意に声をかけられて祐一の思考が現実に引き戻される。いつのまにか香里が顔を覗きこむように迫ってきていて、思わず祐一はのけぞってしまった。

「こんな美人を前にしてそれは酷いんじゃないかしら?」

 近くに寄ったせいで匂う香りに祐一の鼓動が高鳴る。

「香里も言うようになったな」

 それを悟られまいと祐一はわざと仏頂面を作った。それを見透かしたかのように香里がくすりと笑う。

「さて、そろそろ行くわね」

「……は?」

 見るといつのまにか香里のコーヒーはなくなっていた。

「相沢君の顔が見られて本当によかったわ」

 笑顔を浮かべたままさっと立ち上がる。

「ねえ、コーヒーおごってもらってもいい?」

「あ、ああ、それくらいなら」

「ありがと」

 いとおしげにカップに触れる。それだけで、香里は身を翻し祐一から離れていった。

「ああ……」

 窓を通して見える香里の言う灰色の空とは無関係な空に、祐一はため息をつくしかなかった。

 

 

 

戻る