織姫も今夜ばかりは

 

 

 俺は学校が終わると一旦家に戻り、すぐに佐祐理さんたちの住むアパートに向かった。前日の夜に、ふたりから俺を招待する電話がかかって来たからである。

 卒業後、一緒に住むことにした佐祐理さんたちは近くのアパートを借りた。そして仲良く同じ大学に通っている。俺も勉強を教えてもらうという名目で、休日になるたびにアパートに入り浸っていた。

 まあ、勉強はちゃんとやっている、そうしないと今の学力では目標の大学に合格できないし。もちろん目標は佐祐理さんたちの通っている大学だ。はっきりと言われたわけではないが、期待されていることには間違いはないだろう。

 佐祐理さんの教え方は贔屓目に見ても分かりやすい。家に帰って普通に問題集を開くよりもよっぽど有意義だ。この分だと夏休みにわざわざ予備校に通う必要もなさそうで非常に助かる。学校に行けば香里もいるし、年が始まって石橋に難しい顔をされた時よりはなんとかなりそうな気はする。ま、最後は俺の努力がものを言うわけだ。

「ふう……」

 倉田、川澄と書かれた表札を目に俺は立ち止まった。ドアの前に立つといつも緊張感を覚える。とはいえこうやってぼ〜っとつっ立っているとただの怪しい人だ。通報されないうちに俺はインターフォンに向かって声をかけた。

「こんばんは〜、約束通り来たよ」

「は〜い、開いていますから入ってきてください〜」

 すぐに返ってきた佐祐理さんの言葉を待ってドアを開ける。いつもならうれしそうにドアを開けて出迎えてくれるのだけど玄関先には誰もいない。おかしいなと思いつつ靴を脱いで廊下を進むと、いきなり左の浴室のドアが開いた。

「わっ?!」

「じゃ〜ん♪」

 驚く俺の前に佐祐理さんが可愛らしい擬音とともに現れる、一瞬あっけに取られると俺はそこに舞の姿がないことに気づいた。思わずあれっと声をあげそうになるが、袖の端で佐祐理さんのではない髪の先が揺れている。ようするに佐祐理さんの後ろに隠れているのだった。

「駄目だよ、舞。せっかくおめかししているのにもったいないよ〜」

「だって……恥ずかしい」 

 ようやく顔だけを覗かせた舞に、佐祐理さんがしょうがないな〜といった眼差しで言葉をかける。すると舞はさらに顔を赤くしてますます隠れてしまった。

「どうですか、似合ってます?」

 仕方なくと言った感じで向き直ると、佐祐理さんはいたずらっぽく微笑みながらポーズを取る。

「私が見えない」

 するとすぐに舞が不満そうな声をあげた、隠れてるんじゃないのかい。

「あはは〜っ、ごめんなさい。あっちに移動しましょうね」 

 佐祐理さんが振り向いた先にはふたりで暮らすにはちょっぴり広めのリビング。もう既に俺がここに暮らすのは折りこみ済みらしい、さすがに女性と一緒に暮らすことには反対したんだけど、佐祐理さんの笑顔と舞の涙に押し切られてしまった。

 改めてふたり並んでポーズ。ある意味ミスなんとかの審査会。正直どっちにもグランプリをあげたいくらいだ。

「で、どうですか〜?」

「私も聞きたい」

 佐祐理さんは赤紫の地に朝顔、舞は鮮やかな青に薄紫色の藤の花、美女ふたりの競演に圧倒されてしまう。しかもこの光景が俺ひとりだけの用意されたと考えると、このうえもない幸せを感じてしまうのは仕方ないだろう。

「いや、言葉で表すのも馬鹿らしいくらい綺麗だよ」

「佐祐理たちのこと綺麗だって、うれしいね舞」

「うん……」

 佐祐理さんの言葉にかすかに首を前に傾ける。今日の舞はかなり素直だ。いつもなら無言でチョップ一閃だったはず。とそこでようやく、ふたりの髪を結ぶリボンがいつもと違うことに気がついた。

 ……鈍いな、俺。

「すっかり佐祐理たちの虜ですね〜……あ、そうだ」

 急にくすくす笑いだした佐祐理さんを俺と舞が訝しげな目で見る。

「祐一さんは佐祐理と舞のどっちが綺麗だと思いますか〜?」

 口調はあくまで冗談っぽく、だけどその瞳には逆らえない迫力があった。

「さ、佐祐理?」

 こんな慌てたような舞の声を聞くのは久しぶりだ、って舞に構っている余裕なんかなかった。

「え、あ、そ……それは」

 どっちがだなんて言えるはずがない。こんな答えられないような意地悪を佐祐理さんは予想もつかない所で仕掛けてくるから油断ならない。

「あははーっ、冗談です。ごめんなさいね」

 たっぷりとプレッシャーをかけた挙句にとそんなことをのたまうのだ。その瞬間、俺はとてつもない疲労感とともに全身の力が抜けてくのを感じていた。

 

 

「はい」

 笑顔と共に渡されたのは水色の短冊。言われなくても、これに願い事を書いて笹に結ばないといけないことは分かる。部屋の隅を見ればどこから用意してきたかは知らないが、確かにふたりの短冊がぶら下がっていた。正直かなり気になる。興味を引かれた俺はふらふらとその短冊を覗きこもうとした。

「だめ」

「へ?」

 舞の制止の声に俺の動きが止まる。

「見ちゃだめ」

 硬い声に俺が佐祐理さんの方を見ると、佐祐理さんはにこやかにうなずいた。

「舞の言う通りですよ、佐祐理たちのを見て書くのは反則です」

「なんで?」

 そのくらい構わないじゃないか、と言いかけて俺は口を閉じた。反論してもどうせ言いくるめられてしまうに決まっている。それに向こうには必殺の女の涙というものが存在する。これを使われたとたんこっちに非がなくても降参しなければならない。

「なんでって、佐祐理たちがそう決めたからに決まってるじゃないですか〜。今日の最後のお楽しみですよ。佐祐理だって舞のは見ていませんし、舞も佐祐理のを見てませんよ、ねー?」

「うん」

「そ、そうなんですか」

 よく分からないがうなずかざるをえない。

「はい、佐祐理たちは夕食の準備をしていますから、その間に願い事を書いちゃってくださいね」

「あ、はい分かりました」

「そのあいだに見たら、斬る」

「ははははは、そ、そんなことはしないぞ」

 顔を真っ赤にしながらの舞に脅しをかけられ情けなくも何度もうなずいてしまう。それを横目に見ながら佐祐理さんがキッチンに消えていった。慌てて舞が後を追うと俺はリビングにひとり残される。

「しかし願い事か、急に言われても思いつかないよなあ」

 仕方なくソファーに腰掛けて考え始める。が、数分もしないうちにキッチンから匂ってくる食欲をそそる香りが俺の思考をかき乱した。

「う〜ん」

 唸るばかりでちっとも浮かんでこない。3人仲良く過ごせますように……は、ありきたりだし、合格祈願は……自分のことしか考えてないようでみっともないかも。 

 ぼんやりと考えていたらいつのまにか夕食の準備が整っていた。

 

 

「雨……」

 手の込んだ料理をご馳走になり、今日ばかりは特別とテーブルに並んだアルコールに酔いしれていると、不意に舞が窓の外に目を向けた。

 窓を叩く勢いはかなりのものだ、ここまで降っているのに気がつかなかったことに驚きつつ、天気予報に腹を立てる。そこで今日は見ていなかったことを思い出した。

「あら、残念ですね」

 ちっとも残念そうには見えない笑顔で佐祐理さんがうなずく。そしてほんのりと目の縁を赤くさせたまま妖しげにふうっと息を吐いた。

「あちゃー、傘なんか持ってこなかったぞ」

 値段を聞くのも恐ろしいワインのビンの間に埋もれ、これからの計算を始める。明日は休みではないから適当なところで帰らないといけない。

「もちろん今日は泊まっていってくれるんですよね」

「え」

 佐祐理さんの言葉で俺の計算機が火を吹き始めた。

「こんなに雨が降ってしまっては帰れませんものね〜」

 怖いくらいの笑顔でずずいと身を乗り出してくる。俺は椅子ごとのけぞりながら完全に崩壊してしまった計算機を遠くに放り投げた。

「いや、だって傘くらいは……」

「ごめんなさい、ちょうど傘は切らしているんですよ」

 嘘だ、反射的にそう思ったが、それを声に出すにはとてつもない勇気が必要であって。

「え、そ、そうだっけ? じゃあ途中のコンビ……」

「あははーっ、祐一さんに風邪を引かせてしまっては申し訳が立ちません〜」

 口の中でもごもご呟いたつもりの言葉は言い訳にすらならなくて。

「あ、そ、そうですか……」

 とどめとばかりに舞から期待のこもった視線を向けられてしまっては、俺にできるのは大人しく白旗を揚げることだけ。

「ふふふ、織姫と牽牛には悪いですけど、雨が佐祐理たちの天の川になってくれましたね」 

 やけくそとばかりに俺はグラスに残された液体を一息にあおった。

 

 

 結局わけの分からないまま一夜を過ごしてしまったせいで、佐祐理さんたちが何を願ったのかを知ることはできなかった。でも、初詣のように他人の願い事なんて知らないほうがいいのかもしれない。

 それよりも結局帰ってこなかった俺に向ける名雪の視線がかなりこたえた。さらになにもかも分かっていると言いたげな秋子さんの微笑みにも打ちのめされ、二日酔いの頭を抱えながら、俺は空を見上げて牽牛みたいに逃げたいと思うのであった。

「……今日はサボろう」

 そう決意しながら。

 

 

 

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