そうめん

 

 

 夏の名物と言えばみなさんは何を思い浮かべるでしょうか、スイカなど名前を挙げればいくらでも出てくるでしょうが、我が家ではもちろんこれです。

「はあ……」

 今年もお中元として沢山の方からいただいてしまいました。確かにお手軽に食べられる点では便利なのですが、こう毎日毎日同じものが続くと飽きてしまいます。

 とはいえ、食べなければこのまま残ってしまうわけで、そんなもったいないことはできませんから、私はしかたなく今日も茹でることにしました。

 鍋で煮立てたたっぷりのお湯にくぐらせてしばらく待った後、さっとザルに上げて、冷水をかけてぬめりをよく取ってから、ガラスのお皿に盛りつけます。こうするとなんとなくですが涼しげに見えて食べたいという気にさせます。ついでですから砕いた氷も乗せておきましょう。入れすぎると水っぽくなってしまいますから、ほどほどにしないといけません。

 茹でている間に刻んだ薬味を適量小皿に乗せると、さらにお盆に移しました。そしてそうめんとめんつゆを入れたお椀を乗せると、熱気のこもった台所からちゃぶ台のある部屋に移動します。縁側では風鈴が風に吹かれてちりんといい音を立てていました。

「いただきます」

 なんとなくテレビをつけると私は目の前のそれに向かいました。

 箸ですくってめんつゆにひたした後に、つるつるとすするようにして飲み込みます。相変わらずそれは薬味とめんつゆの味しかしません。変わり映えしない食感に、飲みこんだままため息が漏れてしまいます。

 しかし私にはささやかな楽しみが残されていました。白い色に混じったピンク色。まさに紅一点と呼ぶに相応しいそれは、私が食べるのを今か今かと待ち受けているように見えます。

「ふふっ、慌てなくていいんですよ」

 私の独り言は幸いニュースを読むナレーターだけにしか聞かれませんでした。こんな台詞、相沢さんに聞かれてたらきっと1週間くらいは指をさされて笑われるに違いありません。

 取り留めないことを考えながら手を動かしているうちに、いつしかなくなっていました。

「ちょっと食べ過ぎてしまったかも」

 満腹感でいっぱいのお腹の辺りを見下ろします。そして、お皿に残されたそれに視線を移します。

 いよいよこの瞬間がやってきました。

 ぴんぽーん。

「…………」

 ぴんぽーん。

「お客さんですか、こんな時に……」

 しかたなく箸を置くと、私は名残惜しげにそれを見ながら立ちあがりました。物腰が上品な私はどっこいしょなんて言わないですよ、決して。

 

 

「こんにちは〜」

 私が玄関を開けて見たものは屈託のない真琴の笑顔でした。食事時に来訪するなんて礼儀を知らないと言われてもしょうがありませんよ、と言いかけてやめます。

 遊びに来てくれたこと自体は喜ばしいことですから、家に招き入れます。それにしても一体なんの用なのでしょう?

「ん、別に用なんてないよ、ただ近くを通りがかったから寄ってみたんだけど」

 そうなのですか。

 冷えた麦茶くらいは出してあげましょう。この前熱いお茶を出したら嫌なものを見るような視線をされたことがショックだったわけではありません。暑い時には熱いものを飲む、いつか真琴にも分かる日が来るでしょう。

 グラスを手に私は部屋に戻りました。

「真琴、麦茶です……よ?」

 私は目を疑いました。信じられないことに、楽しみにしていたあれがなくなっていたのです。

「え? 食べ終わったんじゃないの? それだけ残ってたからいらないんだと思ってた」

 悪気なんかこれっぽちもない真琴の言葉に私の目の前が一瞬で暗くなりました。

 

 

「……あのな、いいかげん機嫌を直してくれないか」

 私の背中に相沢さんがとりなすように声をかけてきます。きっと私のことをたかだかそうめんのことで怒る短気な女だと思っているのでしょう。

 思い返せばその通りです。怒りの原因はたった一本のそうめん、冷静になってみればここまで感情を昂ぶらせて怒鳴ってしまったのは間違いではあったかもしれません。しかしそれを認めるには今の私はあまりにも意地になっていました。

「なっ、真琴も反省してるからさ、許してやってくれないか」

 反省しているもなにも真琴はここにいません。私の剣幕に驚いて逃げ帰ってしまった後に相沢さんが来たのですから。だから真琴が本当に反省しているかなんて分かるはずもないのです。

「謝るなら真琴がするのが筋でしょう、どうしてここで相沢さんが出てくるのですか?」

 振り向きもせずに問い詰めると、困ったように頭を掻く音が聞こえてきました。

「お前が真琴を追い出したんだろうが……帰ってくるなり真琴に泣きつかれた時は驚いたぞ、しかも原因はそうめんだっていうし」

 呆れたといった感じの相沢さんの声に羞恥心で私の頬が熱くなっていきます。

「そうめんのどこが悪いと言うのですか? 日常の繰り返しに疲れた私を癒してくれるささやかの楽しみを真琴は奪ったのですよ。これが怒らないでいられますか?」

 でもそんな自分に気づいて欲しくないと、私は意地を張りつづけました。ここは一歩も引かないという覚悟で目の前の壁を穴が開くほどに凝視します。おかげでかすかな汚れに気づくことができました、後で拭いておきましょう。

「まさか天野がピンク色のそうめんを食べたくらいでそこまで怒るとはねえ」

 いけませんか? と口元まで出かかった言葉を飲み込みます。このままお喋りを続けてしまうと相沢さんのペースにはまってしまいます。それだけは避けないといけません。

 なのに、

「結構可愛いところがあるじゃないか」

「かかか可愛いですって?」

 わずかに生まれた余裕をあっさりと吹き飛ばしてしまう相沢さんの台詞。危なく振り返ってしまうところでした。別の意味で顔をあわせることができません。なんでこんな台詞をすらっと言えてしまうんでしょうね。

「うん、意外な一面を知ったって感じかな」

 それっきり相沢さんは黙ってしまいました。もしかして怒らせてしまったのでしょうか、それは不本意なことです。問題なのは真琴の行動なのに。

「…………」

 そのまま口を開かないまま、ゆっくりと時間が過ぎていきました。そうなるとさらに不安が募っていきます。

 いなくなってしまったのでしょうか。私はダンボのように耳を澄ませながら相手の出方を待つことにしました。

 またさらに時間が経っていきます。いいかげんじれてきた時、ついに相沢さんの動く気配がして、

「あ〜ま〜の」

「ひゃぁあああっ?!! なっなっなにをするんですかっ?!!」

 文字通り飛び上がってしまう私。思わず息を吹きかけられた耳を押さえてその場にへたり込んでしまいました。

「お〜、ようやくこっちを見てくれたか」 

 茹蛸のように真っ赤な顔を相沢さんに向けると、憎らしいほどの笑顔で自分のことを見ています。

「嫌いですっ、相沢さんなんて嫌いですっ!」

 その表情を見て、今まで溜まっていた感情が爆発しました。

「あちゃー、嫌われちまったか〜」

 なのに相沢さんは楽しげですらあります。さらになにか叫んでやろう、そうしようとした時、私は頭を撫でられていました。こんな風にされたのはいつ以来なのでしょうか。

「ちゃんとあいつにも謝らせておくからさ、ここは怒りを収めてくれよ」

「へ?」

 真琴のことだと理解するのに数秒かかりました。そしてあまりにも間の抜けた顔を相沢さんにさらしてしまったことを知り、またさらに顔が赤くなるのです。

 もう、そうめんのことなんてどうでもよくなってしまいました。

「……相沢さん?」

「ん?」

 私は居住まいを正すとこほんと咳払いをしました。

「せっかくいらっしゃったのですから麦茶でもいかがですか?」

「ああ、お構いなく」

 ……今日も暑いですね。

 

 

 後日、お詫びとして届けられたそうめんは、目にも鮮やかなピンク色をしていました。口に入れた瞬間に意識がどこかに飛んでいく自分を自覚しながら、イチゴ味のそうめんのことを生涯忘れることはできないと思うのでした。

 

 

 

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