プール
「退屈〜」
そう言いながら祐一の部屋に入ると、ベッドの上で寝っ転がっていた祐一にうんざりした顔で出迎えられた。せっかく真琴が遊びに来てあげたっていうのに失礼な話よね。でも、真琴がそう言うと本当はうれしいくせに、俺は頼んでいないなんて言うんだもん。祐一ってかっこは大人だけどまだまだ子供なのよ。
「漫画でも読んだらどうだ?」
寝たまま答えるなんて礼儀知らずって思ったけどなにも言わない、真琴は寛大な心を持っているからね。
「買ってきたやつはもう読み終わったわよ」
大好きな肉まんがなくなった代わりに、漫画をたくさん集められるようになったのはいいんだけど、これからまた肉まんが食べられるようになったらどうしよう。ま、その時になったら考えればいいだけかな。
「じゃあ名雪を見習って、夏の間ずっと眠っていろよ。起きたら肉まんが復活してるかもしれんぞ」
「いつもは早く起きろって言ってるじゃないのよう」
これって矛盾してるって言うのよね、真琴もいつまでも祐一にばかにされているわけにはいかないから、秋子さんとかにお願いして勉強している。いつか祐一を見返してやるんだから。
「それはそれ、これはこれだ。それより保育園のバイトはどうしたんだ?」
「夏休みよ」
「ふうん」
あきらかに信じてませんって顔をされた、むかつく。
「じゃあ、天野の家に遊びに言ったらどうだ?」
思わず顔が強ばる。
「うう〜、その〜、美汐の家には……」
この間そうめんのことでこっぴどく叱られちゃったことを思い出した。あの時はいっつも冷静な美汐が、美汐じゃなかったくらいに怒っていた。これからは怒らせないように気をつけないと。
「ちゃんと謝ったんだろ?」
「うん……」
でも本当に許してくれたのか分からない、秋子さんに言われてお詫びのそうめんを届けに行ったんだけど、あの後なんの音沙汰もないし。
「まあ、ここに居たいんなら別に構わないぞ。ただし俺はここを動くつもりはないからな」
だらしないんだから。
「あ〜、そういえば祐一は受験勉強しないといけないじゃないの?」
名雪や美汐から最近よく聞くようになった言葉。真琴にはよく分からないけど、なんだかすごく大変なものらしい。祐一をやっつける言葉が増えてうれしかった。
「ぐ、痛いところをつきやがって」
今だって祐一が苦しそうな顔をしている。色々といたずらをした時だってこんな顔はしなかったはず。
「まあ、効率よくやっていかないとだめなんだよ、やる気のない時にやってもちっとも身にならないものなのさ」
「だったら真琴と遊んでくれたっていいじゃない」
「なんで俺が……真琴だって朝顔の観察をやらないとだめだろ」
「そんなの必要なーい!」
「ったく、わがままな奴だな」
「どっちがよ!」
ぜい、ぜい、ぜい、取り乱しちゃったじゃない。いつも美汐から女の子はおしとやかにならないといけないって言われてるから我慢しないと。でも、おしとやかになっていいことがあるのかどうか疑問に思っている。美汐の場合はおしとやかって言うよりはむしろ……いけないいけない、今は祐一のことだった。
「どうあってもあたしと遊ぶつもりはないって言うのねっ!!」
「さっきからそう言ってるだろうが」
「くうう〜、腹立つ〜」
その場で足を踏み鳴らすと祐一がすごくいやそうな顔をした。調子にのってさらに激しく足を踏み鳴らしているうちにだんだんと楽しくなっていった。
「だんだんだん、そーれ、だんだんだん」
「うるせー!!」
「あらあら、近所迷惑だからあまり騒がないようにね」
「あうっ?!」
思わず硬直、すっかり秋子さんが下にいるのを忘れていた。普段は優しいけど、怒らせるとだんとつに怖いのは秋子さんに間違いない。真琴の本能がうるさいくらい鐘を鳴らしている。
「あ、秋子さん、あのね、祐一が遊んでくれないのっ」
真琴は秋子さんにすがりついた。哀れっぽく見上げて秋子さんの同情を買う、ふふふ、これで悪いのは祐一になること間違いなし。
「て、てめえ、人に責任を押し付けるなよっ!!」
弾かれるように祐一が大声をあげた。その焦っている様子に満足して視線を上げると、秋子さんはいつものように微笑んでいた。本当に何を考えているのか読めない。
「喧嘩はよくありませんよ」
真琴を見下ろしながら、秋子さんが紙きれを差し出してきた。
「……ですからふたりで出かけてきたらいかが? 市営プールのチケットをいただいてきたことを忘れていたのを、さきほど思い出したんですよ」
「プール?」
「なんだよ、お前プールのことも知らないのか?」
「それくらい知ってるわよっ! 第一保育園にもあったし!!」
本当に嫌な奴ね。
「ふふふ、保育園のとは比べ物にならないくらい大きいわよ」
「別にいいですけど、海パンなんてあったかな? こっちでは授業がないって聞いていたら捨てちまったかもしれないなあ」
「こういうこともあろうかとちゃんと買ってありますよ、もちろん真琴の水着もね」
「秋子さん……」
よく分からないけど、やっぱり秋子さんはすごいんだ。
「あちぃ」
外に出るなり祐一が顔をしかめてあっちこっちで鳴いている蝉を睨んでいる。真琴はちゃんと麦わら帽子をかぶっているから大丈夫。祐一もかぶればいいのにって言ったらそんな子供みたいなことできるかって怒鳴られた。せっかく心配してあげたのに。
「やっぱり出かけるのやめにしないか?」
だから暑いのは自業自得。ついでに祐一の陰に隠れてしまおうっと。ま、こういう時くらい祐一には役に立ってもらわないとね。
「なに言ってるのよ、ここまで来て帰れるわけないでしょ」
「まだ玄関を出たばかりだぞ」
「秋子さんの好意を無駄にしてもいいって言うの?」
「うぐ……まあしょうがねえな」
ポケットに手をいれてやさぐれたように歩き始める。真琴は慌てて影の中に入る。
こうやって祐一と馬鹿話をしている時が一番楽しい、なにも考える必要もなくて、ただふざけあっていればいいだけで。でも決して祐一のことが好きなわけじゃないはず。こんな奴、好きになるほうがおかしいじゃない。真琴はおかしくないから祐一を好きなんじゃない。
「なにぶつぶつ言ってんだよ?」
「ぶつぶつなんて言ってないわよ!」
「言ってただろ」
「言ってないっ!」
やっぱり嫌い。そうやってさりげなく真琴の手をつなぐのも嫌いっ、嫌いなんだからー。
「どうかしら?」
テレビで見たモデルのポーズを真似して祐一の前に立つ。きっとこれで真琴にメロメロ……になっている様子はない、おかしいわね?
「お前がそんなポーズとっても似合わないぞ」
「なんでよー」
漫画ではこういう場面で必ず鼻血がどぱーっと出るもんじゃない。
「せめてビキニくらい着てくれないとな」
「あう、ビキニ?」
「ほら、そこのおねーさんが着ているような水着のことだよ」
見ると、胸とお尻をぎりぎり隠しているだけのきわどい真っ赤な水着が目に入った。自分がそれを身につけているところを想像してみる。一瞬にして自分の顔が赤くなった。
「ゆ、祐一のすけべっ!!」
だけど、祐一が喜んでくれるんだったら考えてもいいかな。今度美汐と買い物に出かけた時にお店を覗いてみようかなとちょっぴり考えたり考えなかったり。
「はっ?! どうして祐一の言うとおりにしないといけないのよ……」
「……は? まあ、さっさと水の中に入ろうぜ」
「う、うん」
ばしゃばしゃと自分の体に水をかけてから祐一が勢いよくプールに入っていった。そうすると当然水しぶきがあがって真琴にかかるわけで。
「み、水がー?」
「すまんすまん」
ちっとも謝ってるようには見えないわよ。
「うー、覚えてなさいよ」
「早く入れよ、冷たくて気持ちいいぞ」
真琴も祐一の真似をして自分の水をかけるとプールに足をそっと入れてみる。
「……深くない?」
「そうか? 顔くらい出るだろ?」
顔くらいって、保育園のプールはあんなに浅いのに……。
「いいからさっさとこいよ」
なんとなく入りづらくて、足で水面をばしゃばしゃやっているといきなり祐一に腕を掴まれた。
「あうーっ?!」
あっという間もなく水の中に引きずりこまれる。呼吸ができなくて苦しくなって、すぐそばの祐一らしきものに慌ててしがみついた。
「お、おい、慌てるなよっ」
「だ、だって」
そう言ってるのに、水の中ではぶくぶくぶくとしか聞こえない。足をばたつかせてなんとか地面に触ろうとするけど、全然届かない。
「こんなところで死にたくないよっ」
恐怖感で意識が遠くなり、ぎゅっと目をつぶった時、耳元でさばあっと大きな音がたった。しばらくしておそるおそる目を開けてみると、視界には青空が広がっている。
「いや〜、失敗失敗」
いつのまにか祐一に抱き上げられていた。それに気づいたとたん、頬がかーっとなる。
「笑ってる場合じゃないでしょっ! 死ぬかって思ったじゃないっ!!」
「真琴が泳げないとは知らなかったんだよ」
「な、なによ?! 悪いっ!」
「キツネだった頃を思い出してだな。野性の力でなんとかならないものか?」
「ならないっ! なれないっ! なれるかっ!」
「はて……キツネって泳げたっけ?」
「知らないっ! 知れないっ! 知るかっ!」
「ははは、しょうがないから浅いプールにいくか」
「最初っからそっちに連れてけー!!!」
……今日の夜は覚えてなさいよー。絶対に眠らせないんだからっ!
なのに……。
「あうーっ、背中がー、背中がー」
仕返しどころじゃない。色々考えていられたのもご飯を食べていたころまで、お風呂に入った瞬間、あまりの激痛にお風呂から飛び出していた。
それからずっと肩の辺りがひりひりして動くことさえできないでいる。
「あらあら、日焼け止めを塗るのを忘れてしまったのね」
「祐一のばかー!!」
「俺のせいかよ」
「覚えてなさいよー!! 絶対に許さないんだからー!!! あいたたたた……」
その夜、眠れなかったのは真琴の方だった……。