夏祭り

 

 

 買い物を終えて商店街を抜けると、遠くから祭囃子が聞こえてくるのに気づきました。

「あら」

 そういえば隣り町でお祭のある日でしたね。夕焼け空の向こうを望むと、風に乗ってきた郷愁を呼び覚ます旋律が、さらにはっきりしてきたように思われました。ついつい足を止めて聞き惚れてしまいます。買い物袋を持ち直しながら耳を傾けているうちに、なんだか昔に戻ったような気分になりました。

 そう、先を歩いている女の子くらいの時です。履き慣れない下駄に苦労しながらも、姉に引かれた手を放さないように必死に後を着いていきました。それでいて左右に並んだ屋台を憧れの眼差しで眺めたものでしたね。そのたびに立ち止まるなって姉に叱られましたけど。踊りの輪に加わって見様見真似で手足を動かしては、顔も知らないおばさんたちに頭を撫でられましたっけ。

「ふふふ」

 思わず笑みがこぼれてきました。いい機会ですから足を伸ばしてみるのも悪くありませんね。早速名雪たちにも教えてあげましょう、私はそう考えると、足を速めて帰宅の途に着きました。

 

 

「そうなんですか……」

 ところが、家には祐一さんだけしか残っていませんでした。

 少しがっかりです。確かに今は夏休みですから、羽を伸ばして遠出してみたいという気も起こるでしょう。それはしかたのないことですし、私が口を挟むことではないです。ただこの頃なにかと物騒ですから、遅くまで女の子たちだけでいるっていうのは心配ですね。

 ……いけません、つい愚痴っぽくなってしまいました。遅くならないうちに夕食の準備をすることにしましょう。そのうちあの子たちも帰ってくるでしょうし。

「祐一さん、悪いですけど、荷物をキッチンに運んでくれませんか?」

「はい、分かりました」

「そうそう祐一さん、今晩のリクエ……はっ」

 とここで、重大なことに気がつきました。そうです、つまり私は、現在祐一さんとふたりっきりという状況にあるわけなのです。よくよく考えてみれば祐一さんとふたりっきりになる機会なんてめったにありません。

 どうしようかしら、迷うそぶりを見せながらも心ははっきりと傾いていました。

「ど、どうしたんですか、急に笑い出して?」

 なんだか祐一さんが落ち着かない様子です。もしかすると祐一さんも緊張しているのでしょうか?

「あの……今からお出かけしませんか?」

 そうです、そうしましょう……ここにいない名雪たちがいけないんですよ? 自分に言い訳をしながら誘いをかけます。

「へ、今からですか?」

「はい」

 私は自然に微笑むことができたでしょうか?

 

 

 化粧に思いのほか時間を取られ、ようやく準備を済ませて急いで家の外に出ると、祐一さんがぽかんとした顔で私を見ていました。他愛もないいたずらが成功したことに喜びを感じながらも、待たせてしまって申し訳ないという気持ちも湧き起こります。私がそれを伝えたら、ものすごい勢いでぶんぶんと首を振っていましたけど。

 思い返してみれば浴衣を着るのはずいぶんと久しぶりです。名雪が幼い頃はお揃いの浴衣を着て祭に出かけたものですが、名雪が大きくなると自然とそのような機会もなくなり、クリーニングにかけたままクローゼットの奥深くにしまいこんでしまっていました。

 おかげで再び陽の目を見る機会を与えられて浴衣もうれしそうです。そして、それを着ている私も昔に帰ったみたいでときめいています。

 そんな浮かれた気分で道を歩いていたらバス停を通り過ぎてしまいました。

 

 

「賑やかですね」

 祭の会場となっている広場に近づくにつれて、だんだんと祭囃子の音が大きくなっていきます。それは高揚していく自分の心とシンクロして、えもいわれぬ幸福感を与えてくれました。

 気がつくと祐一さんが真っ赤な顔をして自分のことを見ています。どうかしたのかしらと小首を傾げたら慌てて目線をそらしてしまいました。

 少し歩くと木々の間から吊るされた提灯が見えてきました。いよいよ目的の広場に到着します。先程より増えた道行く人たちも幸せそうな表情を浮かべているようで、向かうところは皆同じみたいですね。孫とおぼしき男の子に手を引かれるお婆さん、いつかは私もああなるのでしょうか。

 入り口を抜けるとそこは夢の国です。数えるのも馬鹿らしいくらいのたくさんの提灯に囲まれ、中心には大きなやぐらが組まれていました。てっぺんではライトに照らされて、汗を流しながら壮年の男性が太鼓ばちをふるっています。そしてその周りをぐるりと囲むように音頭に乗って踊る大勢の人がいました。

 それらにすっかり気を取られていたのでしょう、正面が疎かになっていた私は向こう側から来た人にぶつかっていました。普段ならそれでも倒れずにすんだのでしょうが、バランスの悪い下駄を履いてきたせいで大きくよろめいてしまいます。

「きゃっ?!」

 地面はコンクリートではなく土、せっかくの浴衣が汚れてしまう、それがとても悲しいできごとのような気持ちを抱いて目を閉じた瞬間、私は抱きとめられていました。

「ゆ、祐一さん?」

「ああ、よかった」

 目を開けた私がまず見たのは心配げな祐一さんの顔でした。自分でも心臓がどきどきしているのが分かります。このままずっと逞しい腕の中に身体を預けていたい、そんな欲求に駆られてしまいます。 

「お姉ちゃん、謝らないとだめだよ」

 そんな可愛らしい女の子の声が聞こえてきて、私ははっと我に返りました。謝らなければいけないのは私の方なのに何を考えているのでしょう。

 自責の念を覚えた私が慌てて向き直るよりも早く、向こうが頭を下げる気配がしました。

「ごめんなさあれえっ?!」

「いえ、悪いのはこち……へ?」

 ぶつかった人とふたり、すっとんきょうな声をあげていました。

 

 

「そうなのよ、栞が連れていけってうるさくてね」

 そのようなことを言う香里さんの手にはしっかりとりんご飴が握られています。

「う、うるさくした覚えなんてありません、事実を歪曲するお姉ちゃんなんて嫌いっ!」

 手にしていたわたあめを振りまわして抗議する栞ちゃん。どちらからも楽しそうな雰囲気が伝わってきて、去年までの影はもうまったく感じられません。

 みんなの邪魔にならないように隅っこに移動した私たちは、軽い驚きを混ぜながら偶然の出会いを喜び合いました。

「手のかかる妹を持つと色々と大変なのよね」

「めんどくさいからって、私にご飯を作らせるようなお姉ちゃんに言われる筋合いはないよっ!」

「まあまあ」

 口論が始まりそうな雰囲気に、祐一さんがとりなすように口を挟みます。それでも気が済まないのか、ふたりはしばらく睨み合ったあと、まったく同じタイミングでそっぽを向いてしまいました。それでもしっかりとお互いの手を握りしめ合うふたりの姿に、思わず昔の自分たちの姿を重ねてしまいます。

「しかし、意外ね」

「なんだよ」

「秋子さんをデートに誘うなんて、どうやって承諾させたのかしら?」

 いつのまにか祐一さんがからかわれていました。

「あ、あのなあ、デートなんかじゃないぞ」

 ……少し傷つきました。

「俺が誘ったんじゃなく、秋子さんのほうから言ってきたんだよ。だいいち秋子さんが俺なんか誘うわけないだろ」

 ……少し複雑です。

「あ、あのっ!」

 ひとり放って置かれるのが嫌なのか、強引に栞ちゃんが会話に加わってきました。

「酷いお姉ちゃんなんかほっといて、私とデートしてください」

 その姿はまるで優しい兄に甘える妹のようです……そう言ったら栞ちゃんに怒られるかしら?

「だめよ、今日の相沢君は秋子さんのものなんだから」

「そうとは限らないよっ! 祐一さんだってデートじゃないって言ってたもん」

 頬をふくらませてわがままを言うのはいつでも妹の特権……私はそんなにわがままではなかった筈ですけど。

「聞き分けのないこと言わないの、恥ずかしいでしょ」

 私にも聞き覚えのある言葉、そうやってため息をつくのもよく姉がやっていた……やはりわがままだったのでしょうか……。

「では、人の恋路を邪魔して馬に蹴られないうちに、あたしたちは退散しましょうか」

「えっ、そんなまだ祐一さんと話していたいのにっ?!!」

「いいから、とっとと来なさい……じゃあ、またね」

「私は諦めません! 絶対に戻ってきますから……お姉ちゃん、手が痛いよおっ!!」

 ずるずる引きずられていく栞ちゃんの姿に笑いをこらえながら、私たちは手を振り返しました。

 

 

 いか焼き、ヨーヨー釣り、輪投げ、射的、かき氷、たこ焼き、ヤキソバ、りんご飴、チョコバナナ、わたあめ。目移りするほど多くの屋台が軒を並べています。

 あちらを見たり、こちらを見たり、私のころにはなかったものまで店に並んでいて感心してしまうことしきりです。

 隣りにいる祐一さんもなんだか物欲しそうに……そういえば夕食もまだでしたね。私もすっかりお腹ぺこぺこです。あの時、同じようにお腹の空いた私は、姉になんて言ってせがみましたっけ?

「お姉ちゃん、お腹ぺこぺこだよ〜」

「……お姉ちゃん?」

「あ、あら?」

 空腹のせいか、とんでもないことを口走ってしまいました。気づいても、もう言葉は飲みこむことはできません。

「あらあらまあまあ」

 祐一さんに聞かれてしまった動揺で、視界がふらついています。

「秋子さん、落ちついてください」

 そ、そうですね、まずは落ちつかないと。

「……ええとですね、昔のことを思い出したんですよ」

「昔のですか?」

「はい、私も栞ちゃんのように手を引かれて歩きながら屋台に目を奪われて……」

「へえ、秋子さんがねえ、とても想像できませんよ」

「……それはどういう意味ですか?」

 棒読みで聞き返すと、祐一さんは急にしどろもどろになってなにやらいいわけを繰り返し始めました。さらに追い詰めるのはかわいそうなので、ここはお祭りという場に免じて許してあげましょう。

「くすくす……おじさん、ヤキソバふたついただけませんか?」

 目についたヤキソバと言う文字に、忘れていた空腹感が蘇りました。早く食べ物を入れてくれとお腹が急かしています。

「あいよ」

 おじさんが景気のいい返事を返しながら素早くパックに詰めてよこしてくれました。

「どうもすいません」

 受け取って代金を払うと、少し移動して今度はかき氷を買い求めます。私はイチゴ味を頼んだのですが、さすが親娘ですねって祐一さんに笑われてしまいました。

 その後は木の根元に並んで腰を下ろして屋台の味と雰囲気をゆっくりと味わいます。普段ならそれほどに感じない食べ物も、不思議とおいしいから驚きです。

 ……いえ、驚くことはありませんでしたね。見渡す限りに人の笑顔があって、みんながみんな少しずつ喜びをおすそ分けしあって、もちろん私もいただいて。だからこそ何もかもが幸せに感じるのでしょう。

 ほら、隣りには赤々と照らされた祐一さんの顔があるじゃないですか。しばらくは幸せな時間を過ごせるみたいですね。

 ……書き置きを残さなかったことに気がついたのは、だいぶ後になってからでした。

 

 

「お母さんが帰ってこないよ〜」

「祐一は一体どこをほっつき歩いてるのよっ!!」

「……お腹空いた〜」

「真琴も……」

 

 

「え〜ん、今日はやけ食いですぅ。それもこれも全部お姉ちゃんせいなんだから。責任を感じてもらうためにお姉ちゃんの奢り!」

「ちょ、ちょっとそれどういうことよっ?!!」

「すいませんっ、あれとこれとそれと、ええとこれもっ!!」

「なに勝手なことしてんのよっ!!!」

「お姉ちゃんに裏切られた悲しみは、こんなものでは癒されないんだからっ!!」

「あたしに妹なんていないわ……」

 

 

 

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