ホタル

 

 

 夏も終わりに近づくと、夜になれば秋の気配を感じることがある。私は一足先にそれを楽しむのが好きになっていた。

 魔物との闘いに追われた生活を続けていた頃には考えられなかったことだ。穏やかな日々が続くなかで生まれる余裕、私はその時間を精一杯享受していた。

 今日もまた、早々に寝てしまった佐祐理を起こさないように、私はそっとアパートを出る。眠気を覚えるにはまだ早い、魔物と戦っていた生活も悪くなかったかな、そう思える自分に驚く。

 街灯が照らす冷えたアスファルトの上、前方に長く伸びる影を追うように進んでいく。時々車が通るほかは私以外に歩行者はなく、虫たちだけがこの時間の住人だ。

 涼しげな風がまとめた髪の先をなびかせた。シャンプーの香りがふんわりと漂う。佐祐理の選ぶシャンプーはとても髪に優しい。それに、綺麗な髪だね、そう言って風呂あがりに佐祐理が梳かしてくれる。その時、鏡に映る自分の眼差しはだいぶ柔らかくなったと思う。だから、ありがとうとそっと呟く、心の中で。

 気まぐれに、私はいつもの角を逆に曲がってみた。細い道が長く伸びて、またさらに右へ折れ曲がっている。私は冒険心をくすぐられながらゆっくりと歩いた。古びた自動販売機の横を通りぬけ、風景に緑が増えていくにしたがって、強くなっていく虫の旋律が拍車をかける。

 そうして、誘われるように歩いた先に、公園があった。

 

 

「…………」

 ぐるりと見回す。思ったより広い、最初に浮かんだ感想がそれだった。まず目についたのが中央にある噴水。この時間になっても絶え間なく吹きあがる水は、きらきらと水銀灯の光を反射して輝いている。

 また、端の方に子供のために設置された遊具がいくつか置かれているが、あまり使われていないのか、まだ鈍い光を放っていた。

 月明かりの下、ややうるさい観客が見守っている舞台に立ち尽くす。役者としては何をするべきか? 

 やがて私はひとつのブランコに目を留めた。私の身長なら手を伸ばさなくても、てっぺんに手が届いてしまう小さなブランコ。椅子に座るためにかかとをあげていた、あの頃の自分とはどれほど違っているのだろう。懐かしさを覚えた私は、引き寄せられるようにブランコに向かっていた。

 まずは座る部分に手を触れて、軽く力を入れてみる。指に砂がつくくらいで座っても大丈夫そうだ。二、三度砂を払って腰掛けると、かすかに金属のこすれあう音が響いた、軽く地面を蹴るとブランコが前後に揺れる。足を伸ばして視界の揺れるままに任せていたら、ふと、幼い頃母が歌ってくれた童謡を思い出していた。

 口ずさみながら軽く目を閉じる。ゆらゆらと揺れる体が軽い眠気をもたらす。

「…………?」

 どのくらい漕いでいたのだろうか、気配を感じてはっと目を開けると、何かを小脇に抱えた女の子が驚いたように立ち尽くしていた。

 

 

「スケッチをしているんです、さすがに昼間は暑くて出歩けませんから」

 私が聞くと、その子はスケッチブックを掲げてぺろっと舌を出した。ワンピースから伸びた腕が頼りないほど細く見えて私を驚かせる。

 その子の名前は、確か美坂栞と言った。祐一に引き合わされたのがきっかけで、何度か会ってはいるが、こうしてふたりっきりになるのは初めてだ。闇に浮かぶ白く透き通った肌は、その子の言う長い病院生活を裏付けている。

 初め怯えていたように見えたその子は、すぐに私だと気がつくと、ほっとした表情を浮かべて、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。佐祐理とも違うその笑顔は、誰もがこの子に好意を抱かずにはいられないだろう。

「私、ここが好きなんです。冬の雪で覆われた白い景色もいいですけど、夏の夜も素敵ですね」

 心に浮かんだのは羨望なのだろうか。素直に自分の感情を表現できない私にとって、その笑顔が眩しすぎる、私は思わず目をそらしかけていた。

「そうだ、川澄先輩には一度聞いておきたいことがあったんですよ」

 ……なんだろう? 再び視線を戻す。

「肩凝るって本当ですか?」

「え?」

 質問の意図が理解できなかった。

「浮くって本当ですか?」

 突然の話題の変化についていくことができなかった。

「あの……鍛えているから……え?」

 その子の大きな瞳がきらきらと輝いている。その目がどこに向けられているのかにようやく気づいた。確かにこの手の視線には慣れてはいるけど、いつになっても気恥ずかしいことには変わらない、だからまた目を背けてしまう。

「……光っている?」

 そこにぼんやりとした光を見つけた。暗闇の中、水銀灯とは違う光がふわりと浮かんでいる。思わずあげた声に、その子も同じところに視線を向けた。

「あ……」

 私たちの前に姿を現したそれは、ホタルだった。ずっと前に畦道で見かけて以来、こんな場所での再会に、視線が釘付けになる。

「わあっ、ホタルです。実際に見るのは初めてなんですよ〜」

 噴水の水に誘われたのだろうか、ふわりふわりと舞い踊るホタルに、その子は興奮を隠しきれない様子だった。歓声をあげながら、わたわたとホタルに近寄っていき、そしてまじまじと観察し始める。

 ほんの指先ほどの大きさなのに、近づくと驚くほど強い光を放っていた。その子の影に隠れたのでそっと移動する。

 ホタルは噴水の縁に留まると、またふわりと舞い上がった。私たちの見ている前で、ゆっくりと茂みの中へ消えていく。

「幸運でしたね」

 その子の言葉に夢心地のままうなずいた。ほんの数分のできごとではあったけど、ここに来てよかったと強く感じる。素晴らしい体験ができて佐祐理にいい土産話ができた。なんのために姿を現したのかは知らないけど、引き合わせてくれた何かに感謝したい気持ちで一杯になる。

「今日はなんだかいい絵が描けそうですっ!」

 興奮したままその子が筆を取り出した。 

 

 

「……うっぷ」

 帰り道、危なっかしい足取りでなんとか自宅へ向かう。何度となく襲い来る嘔吐感を、口元を塞いでなんとか抑えようとする。

 立ち止まり、涙目を空に向けた。

「……どういうこと?」

 ありえないものを見せ付けられたせいで視神経がおかしくなったのか、月が何重にも見えた。

 

 

 

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