とうもろこし
どうしよう、衝動的に家を飛び出した後で私は途方に暮れた。
なんにもやることのない午後の昼下がり、私はテレビから流れるバラエティの再放送をぼんやりと聴きながら、大好きなアイスを食べていたはずだった。
だらけきった私に振りかかるお姉ちゃんのからかうような声。いつもなら軽く聞き流していたはずだった。
でも、その時の私はお姉ちゃんに口答えをしたい気分だった。お姉ちゃんの言っていることは確かに正しい、だけどいつもいつも同じことを言われて気分のいいはずがない。そこには妹の甘えがあったはず。だけどお姉ちゃんは分かってくれない、辛辣な口調で言い返される、さらに私が言葉を返していく。そうしてどんどんとエスカレートしていき、最後にはぬいぐるみや雑誌が飛び交うまでになってしまった。
今ごろお姉ちゃんが呆れ顔で物を片付けているのだろう、そんな家に帰れるわけがない。なにも持たないで飛び出してしまったから、アイスすら買うことができない。どうせならお姉ちゃんが飛び出せばよかったのに。
太陽が私をなじるかのようにじりじりと責め苛む。
「そうですよ、どうせ私が悪いんですっ」
そういえばストールも持ち出せなかった、ため息とともに自分の体を見下ろし、左と右別々のサンダルを履いてきてしまったことに気づく。雪だるま式にふくらんでいく自分の不幸に頭を抱えたくなった。これでパジャマなんか着ていた日には、今すぐコンクリートに頭をぶつけていただろう。
私は落ち着きを取り戻すと、少し考えたのちに、お金もかからずしかも涼しいところ、例えば本屋にでも避難しようかと足を踏み出そうとした。
「大丈夫ですか?」
軸足を中心にくるりと体が回転する。幸運の神様はまだ私を見離してはいなかったらしい。
「助かりました」
出された麦茶を一息に飲み干した後で、私は慌てて頭を下げる。頬にかかった髪を払うと目の前の救世主の顔を見上げた。
「よかったですね」
倉田先輩に微笑みかけられ思わずドキッとする。自分にはそういう趣味はないはずだけれども、目の前の笑顔になぜか頬を染めてしまっていた。
あの時の私はいつのまにか倉田先輩の住むアパートの前に辿りついていたらしい。自分では気がつかなかったけど、今にも倒れそうに見えて慌てて声をかけたら、それが知っている人物だったというわけだ。
「どうかしたんですか?」
倉田先輩の目はあきらかにここに至る経緯を知りたがっていた。
「ええと、ちょっとお姉ちゃんと喧嘩してしまって」
どうしようか、一瞬ごまかそうと思ったけど、ここは正直に打ち明けてみる。
「はあ……」
「アイスばっかり食べていると太るとか、宿題もしないでごろごろして、最終日になって慌ててあたしに泣きついてこないでねとか……それくらい私にも分かっているんですっ」
「優しいお姉さんじゃないですか」
とりなすような倉田先輩の顔も優しいお姉さん、みたいな感じ。妹代表としてはなんとなく面白くない。
「はいそうですよ。優しくて、なんでもできて、私からはなんにも文句のつけようもない姉ですよ」
自分で言っておいて情けない気分になる。それにひきかえ私はなんだろう、わがままで、なんにもできない、迷惑をかけ続けている妹か。
そんな私の暗い雰囲気に気がついたのか、倉田先輩は困ったような笑みを浮かべた。
「ちょっと待ってください」
「え?」
私が答えるより速く倉田先輩がスカートを翻して立ち上がる。数分後、その手には湯気の立ったとうもろこしが二本握られていた。
目にも鮮やかな黄色のつぶがひしめきあっている、私は手渡されたとうもろこしをまじまじと見つめた。つかんだ手のひらが熱いけど我慢できないほどではない。
「いただいた物なんですけど、甘くておいしいですよ。温め直したもので恐縮ですけど」
鼻先をくすぐる甘い香りに食欲を刺激されて、口の中が唾で一杯になる。
「あ、いえ。そんなことは」
私は勧められるまま、ひとつぶ摘み取って口に放りこんだ。
「おいし」
「それじゃだめですよ」
すぐにだめ出しをされる。とうもろこしから目を移して倉田先輩を見ると、珍しいほど大きく口を開けていてびっくりした。
「とうもろこしをもっとおいしく味わうには、もっと豪快にがぶっと食べてください……こういうふうに」
健康的な白い歯が覗いたかと思うと、とうもろこしに口を寄せてかぶりつく。そして口をもごもごさせると、倉田先輩の喉がこくっと動いた。
「こうですよ」
私も真似してみた。口を寄せて一瞬のためらいの後に歯を立てる、噛み締めると自然の甘さが口の中で弾ける。
「こうですか?」
「お上手です」
そう言いながらまた一口、私も負けずに一口。とうもろこしの甘さといっしょに倉田先輩の優しさが身にしみてくる。
「あ〜あ、倉田先輩がお姉ちゃんだったらよかったのに……」
思わず口にしてしまった。
「そんなことありませんっ!」
今まで笑顔だった倉田先輩がさっと顔色を変える。
「……あ」
その過剰な反応に、私はとうもろこしを手にしたまま呆然と眺めた。
「ごめんなさい、急に怒鳴ったりして……」
すぐに取り繕うような笑みを浮かべたけれど、周りから楽しげな空気が消えてしまっている。
「い、いえ……」
まずいことを言ってしまったのだろうか。よく分からないけど、きっと私のせいだ。その暗い表情はさっきまでの自分と同じ。これじゃあ、さっきと立場が逆じゃないか。
「妹だったら……」
「え?」
「女の子だったら……」
「あのう?」
こんなの違う、倉田先輩はこんな虚ろな表情をしていい人間じゃない。いつもの日溜りのような笑顔でないと。
私は焦った、いったいどうすればいいのか。必死で考える……だめだ、なんにも思いつかない、川澄先輩がいてくれたらよかったのに……お姉ちゃんでいいから教えて欲しい……お姉ちゃん?
その時、私の中で閃くものがあった。正しいかどうかは分からないけど、だめもとですがりつくしかない。
「お姉ちゃんっ!」
「……ふえっ?!」
「だめだよっ」
私は勢いよく倉田先輩の体に抱きついた、そしてまるで甘える猫のようにほおずりを繰り返す。
「大丈夫だからっ」
胸元に顔を埋めると、倉田先輩の香りに包まれて陶酔感が広がっていく。こんな時なのに、なんとなく男の人の気持ちが分かったような気がした。
沈黙が怖い、顔をあげることができない。でも自分の体が強ばらないように、背中に回した手で倉田先輩の背中をさする。
不意に、ぽんぽんと頭をたたかれた。はっと顔を上げると、なすがままになっていた倉田先輩がくすりと笑ってくれている。
「……ありがとうございます」
頭を下げられて、今更ながらに自分のしでかしたことに赤くなった。
「栞さんは甘えんぼさんですね」
「妹だから、お姉ちゃんに甘えるんです」
小首を傾げて可愛らしさをアピール。そうしたら倉田先輩がぷっと吹き出した。
「ひどいですっ」
「ごめんなさい、つい」
ようやく空気が軽くなってくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。
「また……また気が向いたらこうしてもいいですか?」
目許をそっと拭いながら倉田先輩が聞いてくる。
「もちろんですっ」
とうもろこしは冷めてしまったけれど、倉田先輩の笑顔を取り戻せて、私の心は暖かくなった。
「……ところで、私を見る川澄先輩の目が怯えていたように感じたのはどうしてなのかなあ?」
帰り道、私はおみやげにもらったとうもろこしの入った袋を手にしていた。ずっしりとした重みが先ほどの味を思い出させて、私の足取りも軽くなる。
「帰ったら、私から謝ろう」
そして、素直にそう思える自分がいた。
「仲直りできるよね」
私の想像した倉田先輩は、私を勇気付けてくれるかのように微笑んでいた。その笑顔をそのままお姉ちゃんに当てはめてみる。
「うわっ、似合わないですっ」
笑いがとまらなくなった私を、見知らぬおばさんが怪訝そうに通りすぎていった。