呼び名
『あたしのことは名前で呼んでくれて構わないわよ』
あたしは確かにそう言った。今思い返してみると、ほとんど初対面に過ぎないクラスメートに、どうしてそんなことを言ったのだろう。
あたしを名前で呼ぶ男性は同学年にはいない。相沢君よりもずっと前からの知りあいだった北川君だって、あたしのことを名字で呼ぶ。
「……どうしてなんだろう?」
そんなこと今まで考えもしなかった。思い返してみれば、幼稚園のころの記憶はほとんど残ってはいないけど、もう既に遠慮がちに名字で呼ばれていたような気がする。
それからも、ちゃん付けがせいぜい、むしろさん付けされていた方が多いかもしれない。呼び捨てにしてはいけない、なんて言った覚えはないのに。
「お姉ちゃん?」
「ひああっ?!」
突然首筋に冷たいものを押し当てられて、あたしは思わず悲鳴をあげてしまった。思考が途切れてしまい、苛立ちを覚えたまま視線をぶつけると、栞が怪訝そうにあたしを見ている。その手にはやはりというかアイスのカップ、もう夏は終わったというのにいつまで離さないつもりなのだろうか。
「さっきから私が話しかけているのに反応すらないなんて、もしかして、ボケが始まっちゃったの? 私とひとつしか違わないっていうのはやっぱり嘘だったんだね」
ぼうっとしていたのは事実だけど、そこまで言われる筋合いはない。
「なによ? あたしが老けているとでも言いたいの?」
「違うよ〜、私もお姉ちゃんのように素敵な大人の女性になりたいって、そう思っているだけ」
「違わないじゃないっ!」
怒鳴り返してから、ふとさっきの事を試してみようかと思った。とりあえず栞を手で招くと、おそるおそる近づいてくる。
「……まあいいわ、ちょっとあたしのことを香里って呼んでみなさい」
「うええっ、そんなだいそれたことなんてできないよっ」
なぜか必要以上に栞の顔が青くなった。別に取って食うわけでもないのに、そこまで怯えられると、どうしてなのか問い詰めたくなる。
「いいから」
その気持ちをぐっとこらえて、押し被せるようにして重ねて言うと、栞は不承不承うなずいた。そして居住まいを正して、わざとらしいほど何度も咳払いをしてみせる。
「う〜……え、ええと、香里……」
よく聞こえない。
「もっと大きな声でお願い」
「香里」
今度は聞こえる、だけどしっくり来ない。
「……これでいいの?」
「う〜ん、やっぱり栞ではよく分からないわね」
それがあたしのだした結論だった。
「だったら最初っから言わないでよ」
どっと疲れたように呟くと、栞は少し溶けかけたアイスを口に運ぶ。とたんに笑顔を浮かべるところは我が妹ながら単純。
「香里〜、栞〜、ご飯よ〜」
そこに母親の呼ぶ声がした。
「あっ、ご飯前に食べるなって言われてなかった?!」
「うっ」
栞がしまったという顔をした。
「お父さんは?」
テーブルの一角には、今夜もぽっかりと空間ができている。
「今日も残業よ」
ご飯をよそりながら、当たり前のように母親が答えた。
「そうなんだ。じゃあ今日も家は平和ね」
うなずいてあたしは自分の席に着いた。栞の病気が治ってからの父親は鬱陶しいほど栞にべったりと張りついている。それは身内の目から見ても、子供に対する愛情を越えている気がするほど。もういいかげん落ち着いてくれてもいいんじゃないかと思う。一応あたしに構う時間も増えたけど、そのついでなんだろう。
「仕事がなかったら、一日中栞とくっついていたいらしいからねえ」
母親もそれを知っているので、少し困ったような顔をした。
「お風呂まで一緒に入ろうとするのは困るなあ」
話に加わってきた栞が、苦笑いを浮かべて箸を伸ばす。
「……スケベ親父」
ん? なんか今父親の顔が誰かとだぶったような……。
「寝る前には帰ってくると思うけど、お父さんに用でもあるの?」
母親に聞かれたあたしは、箸を持った手を振って否定する。
「ん、別に何もないわよ。それにしてもほんと最近忙しいわね。仕事に張りが出てきたのは、やはり栞のおかげかしら」
そう呟くと、母親が咎めるような視線を向けてきた。
「なに他人事みたいに言ってるのよ、今がんばっているのは香里のためなんだから」
「ふえ? な、なんで?」
口の中のご飯のせいで返事が不明瞭になってしまった。
「なんでって、あんたお医者さんを目指してるんじゃなかったの? 知ってると思うけど医学部の学費ってすごく高いのよ」
「ああ〜……」
「昔言ってたじゃない、あたしが大きくなったら絶対にお医者さんになって、栞の病気を治すんだって。お父さん、それ本気にしてるのよ」
「うそっ?」
「嘘じゃないわよ。今は栞もこの通りよくなったけれど、あの頃と変わらないままだと思っているわよ。この前だって、遅く帰って来た時にお酒を飲みながら、俺ががんばらないとなあって言っていたもの。それに、先生に尋ねても、香里の成績なら大丈夫だって太鼓判を押してくれているし」
「あ〜……」
なんでそんなことを覚えてるんだろう。確かに栞が誕生日を越せないと聞いたあの日までは、そう思っていたかもしれない。でも、その日から医者になる決意なんて、遠くに投げ捨てていた。相沢君に救われるまで、あたしは全てに眼を閉じて流されるまま。
「今のあたしは別に……」
口篭もるあたしを見て、黙ってご飯を食べていたとたんに栞がにやにやし始めた。こういう時には大抵ろくなことにならない、だから口を挟まないようにさりげなく話題を変えてやらないといけない。
「しお……」
「お姉ちゃんは好きな人と同じ大学に進みたいんだよ、きっと」
……遅かった。
「へえ?」
母親が目を丸くしている。それを見てますます栞が調子に乗ってしまう。あたしは席を立って手を伸ばしたけど、ひらりとかわされてしまった。
「ちょっ!」
「この前なんか、ふたり仲良く図書室で受験勉強してるのを見かけたしね。顔と顔を近づけちゃってまるでキスする寸前みたいだったよ」
「ち、違うわよっ、そ、そんなのじゃないってばっ! あれはただ分からないところがあるからって聞かれただけなのよっ! それに図書館だと小さな声で話さないと迷惑になるでしょっ! そうよ、そうなのよっ」
やばい、顔が熱い。
「迷惑ねえ、大声なんかよりも、お姉ちゃんたちがいちゃいちゃしているほうが周りに迷惑になると思うんだけどな〜」
「だから、あたしは別に相沢君のことなんかっ……」
「私は祐一さんのことだなんて一言も言ってませんよ」
……やられたっ。
「ふうん、そう……」
気がつけば、母親までもが栞と同じようににやにやとしながらあたしを見ている。ふたりの視線に居たたまれなくなったあたしは乱暴に箸を置いた。
「ごっ、ごちそうさまっ」
「あれえ、ほとんど食べてないよ」
「急に食欲がなくなったのっ!!」
乱暴に椅子を引いて立ちあがると、あたしは自分の部屋に戻ろうとした。すると去り行くあたしの背中に向かって母親が言葉を投げつける。
「そうそう、お母さんは家に連れてこいだなんて無理に言わないからね」
「理解のある母親で、涙が出るほどうれしいわよっ」
ほんとに泣きそうだった。
『あはははははっ!!』
笑われた。
『いきなり俺のことをお父さんって、一体なんの事かと思ったじゃないか』
電話の向こう側にいるのでは、殴ってやめさせることはできない。タイミングが悪い時に、相沢君があたしに電話をかけてきたのが悪いのだ。
「いつまで笑っているつもりなのよっ、いいかげんにしないと怒るわよっ!」
『あ〜、すまんすまん』
相沢君のにやけ声に、あたしの携帯を持つ手に変な力がかかった。
「で、一体なんなのよっ、くだらない用だったら承知しないからねっ」
当然言葉もきつくなる。
『いやあ、間違って香里の参考書まで持ち帰ってしまったからな、どうしようかと思って。明日は休みだし、必要なら明日返しにいこうかと思っているわけなんだが』
「こ、来なくていいわよっ」
あんなことがあったばかりなのに、もしどちらかに見つかったら何を言われるか分かったもんじゃない。
『しっかし、お父さん、か』
顔が熱くなる。これはとんでもない失態をしでかしたに違いない。
「しょ、しょうがないじゃないっ、あたしを名前で呼ぶのは、他に父親くらいしか心当たりがないんだからっ」
『そうなのか?』
電話の向こうで相沢君がびっくりしたような声をあげた。
「それに、声だって似ていたし」
『電話を通しているからだろ?』
そこでひとつの仮定を思いつく。
あたしってもしかしてファザコン?
その代償を相沢君に無意識に求めている?!
で、でも、相沢君と父親の姿はお世辞にも似ているとは思えない、昔見せてもらったアルバムに写っている若いころの姿は相沢君とは似ても似つかなかった。
『お〜い?』
「……はっ?!」
『いきなり黙りこんだりして、何かあったのか?』
「えっ、なんでもないわよ、参考書は貸しててもいいからっ。また今度ねっ、お休みっ!」
『へっ……』
あたしは相沢君の返事も待たずに電話を切った。
「うそでしょ……?」
当然だけど、電源を切ってしまった携帯はなにも答えてはくれない。あたしは気を落ち着かせるために、お風呂に向かうことにした。
「はあ……」
ため息が浴室に響く。考えまいとすればするほど、余計なことがどんどん心に浮かんでくる。
あたしと栞は1年も離れていない。だから栞が生まれるとすぐに、あたしは母親の関心を失った。母親は同じようにふたりの子供の面倒を見ているつもりだったのだろうけど、あたしは独占したものを奪われたような気がした。
その代わり、あたしのことは父親がよく構ってくれた。当時から仕事は忙しかったはずなのに、休みの日には必ずあたしと一緒にいてくれていたと思う。
やがて大きくなったあたしは、しっかりしているから大丈夫、そう言われて放っておかれるようになった。その後、栞が病気になり、あたしは父親までも奪われた……。
「……はっ?!」
って、これじゃまるで自分がファザコンだってことを認めているだけじゃない。
……やはりそうなのかしら?
いや、それが問題じゃなくて、その気持ちを相沢君に重ねているのが、問題なんじゃない。相沢君に対しても失礼だしあたしの気持ちが収まらない。
顔を半分だけ湯船に沈めて、ぶくぶくと目の前で弾ける泡を眺めながら、ぼうっと時間を過ごした。
「うじうじと考えているなんてあたしらしくない……もう、出よう」
急に立ちあがろうとした時、目の前が一瞬真っ暗になる。
「うっ?!」
よろめいたあたしは慌てて縁に手をついた。
「のぼせた……」
あたしは髪をまとめたタオルからぽたぽたと落ちる雫を、なんとなく眺めていた。
「なんだか、1日会わないうちにやつれたね」
よく眠れなかったせいか授業どころではなく、あたしは窓の外を眺めてはあくびばかりしていた。そんなあたしを見てさすがにおかしいと思ったのか、休み時間に入るとすぐに名雪が話しかけてきた。
「ちょっと、悩み事があって、ね」
原因を作った相沢君はトイレにでも行ったのだろうか、教室にその姿は見えない。
「もしよかったら相談に乗るけど……」
そう言ってくれるけど、名雪だからこそ相談しにくいと思う。
「ありがと、ほんといい友人を持ったわ」
そう言ってお引取り願いたかったけど、頭が働かないのかすごく面倒。
「香里にはいつもお世話になっているしね」
「ふふっ、それはあたしの方……ん? 名雪、今なんて言ったっ?!」
妙な引っかかりを覚える。
「へ? いつもお世話になってるって」
「もっと詳しく」
「……ええと、香里にはいつもお世話になってる、かな?」
「香里っ?!」
迂闊なことに、あたしを香里って呼ぶ人間がもうひとりいたことを忘れていた。つまり相沢君を名前で呼ばせたのは父親のせいではないと言うこと。
「よかった、よかった」
心からほっとする。
「よく分からないけどよかったね」
つまり父親ではなく名雪とイメージが被ったせいなわけだ。
「……って、よくないわよっ!!! なにっ?! あたしは名雪が好きでしょうがないけど、女同士じゃ付き合えないから相沢君をだしにしているってわけっ?!! ……はっ?!」
我に返ったときにはもう遅かった。いつのまにか自分を見るクラスメートの視線がまるでテレビのリポーターの目つきになっている。
「かっ、香里っ……気持ちはすごくありがたいけど……」
しかも視線を名雪に戻すと、微妙に距離を置かれていた。
「いっ、今のなしっ!!」
「そうなのか……俺は別に名雪が好きだって言うのなら構わないぞ」
さらにややこしい時にややこしい人物が戻ってきている。
「いつからそこにっ!?」
「もうすぐ授業が始まるから席に戻ってきただけだが……そうか、香里は名雪のことが」
「それはいいのっ! あたしは別に名雪のことが好きなわけじゃないからっ!」
「そうなんだ……」
「ああああっ! なんで暗くなるのっ! そういう意味で言ったわけじゃないくらい分かるでしょっ!!」
「やっぱり美坂さんってそっちの人だったんだね」
「ってことはもしかして修羅場?」
「美坂さんってなんだか愛人っぽい雰囲気持ってるもんねー」
「え、でもこの場合って相沢君が二号なんじゃ?」
「外野は黙ってなさいっ!!!」
ひそひそ話をされる始末、それもこれも……。
「そんなに照れなくてもいいのに」
目の前のにやけ男のせい。
「あんたはもう喋るなっ!! 大体誰のせいでこうなったと思っているのっ!?」
「え? もしかして俺のせい? よく分からないんだけど何かやったっけ? 香里」
「もう名前で呼ぶなあっ!!」
「ああ、そうだな。俺なんかが呼び捨てにしたら、名雪が気を悪くするだろうしな」
「違うって言ってるでしょっ!!!」
「うん……ええとね、よく考えてみたんだけど、確かに香里に対する憧れの気持ちみたいなものは持っていると思う。でもそれが恋に結びつくかどうかって聞かれると……」
「あんたも真面目に考えるなっ!!!」
……泥沼だった。