おはようから

 

 

 かすかな足音と人の気配で祐一がわずかに目覚める。可愛らしい侵入者は人差し指を唇に当てながら微笑んだ。

「おはようございます」

「……おはようございます」

 投げかけられた言葉に対して無意識に返事を返す、9月1日の相沢祐一の朝はこうして始まった。

「あ、起きてしまいましたか。残念です、私が起こしてあげたかったのに……祐一さん、今日から新学期ですね」

 抑えきれない期待感が言葉の端々から漏れてくるようだ。だが夢の世界に半分足を踏み入れている祐一には新学期という言葉だけが反応の対象となったらしい。

「新学期……先生、宿題を忘れたのでもう一度寝ていいですか?」

 しかも文のつながりがめちゃくちゃだった。

「……先生って誰のことですか?」

「ん? 目の前にいるじゃないか、何を言ってるんだ栞……」

「あの、寝ぼけていないで起きてください」

 ここにいたってようやく事態を理解すると栞は苦笑まじりに祐一の体を揺すり始めた。何度か首が左右に振れるうちに祐一の意識が覚醒する。寝起きでぼさぼさになった頭をかきながら祐一はゆっくりと体を起こした。

「おはようございます」

 しきりなおしの挨拶はとびきりの笑顔とはいかなかった。

「おはよう……栞か……なんでこんなところに?」

「祐一さんのことだから学校行くのを忘れるんじゃないかと思いまして、迎えに来てみました」

「そりゃいくらなんでも失礼ってもんだぞ、俺はそこまでボケてはいない」

「え〜、お姉ちゃんが『相沢君ならやりかねない』って言っていましたよ」

「香里のやつ……まったく人をなんだと」

 そのため息にはあくびが混じっていた。

「それとですね……その、好きな人と一緒に学校に行くのって夢だったんです」

「…………」

 まえのめりになって布団に顔を埋めた祐一を見て栞が戸惑いを浮かべる。

「あ、あれ?」

「……朝っぱらから恥ずかしいことを言うなよ」

「あ、ひどいですぅ……子供の夢を馬鹿にしないでください」

 機嫌を損ねたらしく頬を膨らませた栞とりなすように頭をなでてご機嫌取りをする。あんまり調子に乗りすぎると後で倍以上のお返しをされるのは経験済みだ。

 ようやく気持ちが収まった栞は今度は頬を少し赤く染めた。自分の置かれている状況を客観的に捉えることができたらしい。

「今気がつきましたが、幼なじみが起こしに来るのってまるでドラマみたいですよね」

「幼なじみでなければ、ドラマでもない」

「あははは、そうでしたね……もうすぐ朝食が用意できますからすぐに降りてきてくださいね」

 本来の目的を思いだした栞が祐一を急かす。

「……秋子さんの了解は取ったんだろうな」

「そんな礼儀しらずじゃありません。それに『出掛けて来るから後はよろしくお願いしますね』と後を任されちゃいました。責任重大です」

「そ、そうなのか」

「はい、だから急いでくださいね」

 なんだか分からないが祐一は急がないといけない気持ちになった。勢いよくシャツを脱ぎ捨ててワイシャツを取りボタンをつけるところでようやく熱い視線が注がれているのに気がつく。

「祐一さん……」

「いや、急いでるんだぞ?」

 ちょっぴり情けない気分になった祐一であった。が、気を取りなおして栞を部屋から出すとズボンを手に取る。

「相沢流早着替えの術……ここで左から履いていくのがポイントだな」

 誰もいないのにいちいちボケをかまさないといけない性分は健在だった。

 祐一が着替えて部屋を出るとドアの側で栞が待っていた。てっきりキッチンにいるのだろうと思っていた祐一がいきなり手を引かれてびっくりしたような表情をする。さっきまではひよこがプリントされたエプロンなんか装着されてなかったはず。

「エプロンなんかつけてたか?」

「似合いますか」

 端を摘み上げながらポーズを取る栞に祐一の評価は辛い。

「ああ、教育番組で怪しげな生命体と仲良く料理を作るくらいには」

「祐一さんっ!!」

 

 

「……思ったよりまともだな」

 食卓には洋風な朝食がバランスよく並べられていた。いつもの惨状を予想していた祐一がほっとしたように椅子に腰をかける。

「その代わりお弁当にはたっぷりと愛情を込めましたので」

「今日は午前中で終わりだぞ」

 こんがりと焼けたトーストにマーガリンをつけながら祐一が投げやりに突っ込む。

「えうぅ〜、そんな意地悪なことをいう祐一さんは嫌いです。これから朝も夜も私のお弁当を食べていただきますっ。朝は三段、夜は四段です、これがほんとの朝三暮四ですね」

「意味が激しく違っているし、他人様の家計に口を挟む気はないが食費を使いこむのはあまり誉められたものではないぞ」

「大丈夫です、お母さんも応援してくれています」

「……まじか?」

「はい、なんなら今日から家で暮らしても構いませんよ」

「いや、それはさすがに……」

 栞の後ろに鬼と化した姉の姿が見えたような気がしてさすがの祐一も首を振る。

「残念です、婚姻届の準備はばっちりでしたのに……ここに祐一さんの印鑑もしっかりと」

「やめいっ!」

 身を乗り出してひったくる腕をすっとかわして紙を素早くポケットにしまうと、栞はすまし顔でパンをかじった。

「あ、遊んでいる場合ではありませんね、早く食べないと遅刻しちゃいますよ」

「誰のせいだと思ってるんだ……」

 祐一はやり場のない怒りをサラダにかけるドレッシングに込める。

「あ……」

「残さないでくださいね」

 サラダ汁になってしまった皿に祐一は泣く泣くフォークを突っ込んだ。

 

 

 片づけを終えた頃にはさすがに急がないといけない時間になっていた。再び自分の部屋に戻ってかばんを手にすると階段を勢いよく降りる。玄関先には靴を履き終えた栞が待っていた。

「……何か大事なことを忘れていたような気がするんだが、そのストールを見てすべて吹き飛んでしまった」

「ストールのせいにしないでください」

 栞の頬が膨らむのを見て思わず祐一はふぐを連想していた。そういえば、栞の体内にも大量の致死毒が含まれている気がする。

「毒なんてありませんっ」

「いつも身につけてるだけあってほんと似合ってるぞ」

「はい、お気に入りですから」

 ころっと機嫌がよくなる。

 祐一は靴紐を結びながら頭の片隅に引っかかることを考えていたが、ついに思い出すことはなかった。

「早くしないと遅刻してしまいますよ」

「そうだな……思い出さないってことはたいしたことじゃないんだろ」

 うなずくと祐一は玄関の扉を開けた。朝とはいえ日差しは強く、まだまだ暑さは衰えないように感じられる。

「暑いなあ」

「そうですね」

 自然とふたりの手は繋がれていた。さすがの太陽でもふたりを引き離すのは無理のようである。

 

 

 そして日も高く昇ったころに、忘れ去られた眠り姫は目を覚ました。

「う〜ん、今日から新学期だし頑張らないと……わ〜っ?!! 10時過ぎてるっ?!」

 

 

 

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