頭痛が痛い

 

 

「どういうことだ?」

「どういうことだ、って……それはあたしの方こそ相応しい台詞だと思うんだけど?」

 不思議そうな表情を浮かべたまま香里が聞き返す。いつもとは違い、教室にひとりだけ姿を現したうえ、祐一の顔には大きなばんそうこうが貼られていた。

 あまりにも目立つそれは、教室に入る前も注目の的だったようで、祐一が姿を現す直前まで廊下がざわついていて、なにごとかと思っていたところだった。

「ああ、これか……」

 香里の問いにその時のことを思い出したのか、祐一は顔をしかめてばんそうこうを押さえる。

「俺が呼んでいるのに、イチゴサンデーに夢中になっていやがるから、魚沼産コシヒカリの詰まったエチゴサンデーとすりかえる天誅を加えてやっただけだが……自分の非を棚に上げて逆切れとは醜いものだな」

 余りの馬鹿馬鹿しさに、香里はその場でこけた。

「逆切れって……そんなことしたら名雪が怒るに決まってるじゃない」

 呆れ声で返事をすると、同情を得られなかったのが不満なのか、祐一が手をオーバーアクション気味に広げて天を仰ぐ。

「なぜだ? 俺と名雪は付き合っているはずだぞ? 俺の言葉と880円の代物では普通俺の方が優先されるんじゃないのか? それなのにあのイチゴボケが」

「相沢君はもう少し女心について考えたほうがよさそうね……」

 くだらないことを聞いてしまった、香里の顔はそう物語っていた。

「ふん、他人を踏み台としか考えてないインテリヤクザに聞いたのが間違いか」

「……あんたねえ、言っておくけど売られた喧嘩は買うわよ?」

 香里のこめかみが引きつる。不穏な空気を感じた近くのクラスメートが、さり気なくふたりから距離を取り始めた。

「足手まといの妹をあっさり切り捨てたくせに」

 そんな空気にこれっぽちも気がつかず、祐一はさらなる爆弾を投下する。

「……うぐっ?! それはち、違うのよ……そう、あたしの心が弱くて耐えられなかっただけなのっ。だってこの世にたったひとりだけのかわいい妹が助からないって知ってしまったのよ……あの時のあたしは普通じゃなかったもの……」

「その割りにはぴんぴんしてるよな」

 香里の脳裏に溶けきった笑みでアイスを口にする妹のだらしない姿が浮かぶ。越えられない筈の誕生日を迎えた辺りから急速に回復しだした栞は、その後あっさりと健康を取り戻していた。

「あたしに分かるわけないじゃない……」

 思わず頭を抱える香里。その様子を見ながら祐一がノートを取り出す。

「美坂家の生き物はゴキブリ並みの生命力を所持している模様」

 ノートに書きこまれた文字を見て今度は額に青筋が浮かぶ。自制心を総動員してなんとか怒りを収めると、香里は大きく息を吐いた。

「……それで、名雪を起こさなかったわけね」

「いや、ちゃんと起こしてやったぞ、おそらく今ごろは慌ててシャワーを浴びているんじゃないか?」

 祐一の言葉に思わず咳き込む。

「シャ、シャワーって一体なにをやらかしたのよっ?!」

 叫ぶ香里の顔は真っ赤になっていた。

「しょうがないから、寝ている名雪にジャムを塗ったパンを食べさせたら、くしゃみをして盛大にぶちまけただけだが……」

 そう答えながら祐一の口元が次第とにやけていく。

「おやー? 美坂さんは一体なにを想像していらっしゃったのかなー? まさか品行方正で通っているお方がふしだらなっ……あ〜、まさかね〜」

「うるさいっ! うるさいっ!! うるさいっ!!!」

 無意識にくりだした強烈なアッパーが、綺麗に祐一の顎を捕らえていた。

 

 

「おはよう」

 とてつもなく不機嫌な顔で名雪が登校してきたのは二時間目が始まる直前のことだった。

「……ご機嫌斜めね」

 あまり声をかけたい気分ではなかったけれど、今の名雪と相手ができるのは自分だけなのだと強く言い聞かせる。そう思いこまないと挫けてしまいそうだった。

「わたしと祐一って付き合っているんだよね?」

 まるで秋子を思わせるような静かな迫力に、さすがの香里もたじろぐ。

「そうね、付き合っているどころか、実は結婚していたって言われても、あたしは驚かないと思うわよ」

 確かに血の繋がっている実の娘だ、香里は頭のどこかで感心していた。

「どうして意地悪するのかな?」

「理由が知りたかったら、そこで寝たふりをしている人に聞いたらどうかしら?」

 香里が指差す先には、全身に俺に話しかけるんじゃねえオーラを纏わせて祐一が机に突っ伏している。ご丁寧にわざとらしいいびきまでかいてみせて自分をアピールしていた。

「祐一が謝るまで話したくないもん、香里が聞いてよ。それで香里がわたしに話してくれれば問題なしだよ」

 名雪はそんな祐一にちらっと目を向けて、すぐに顔を背ける。

「あんたねえ……」

「親友の頼みくらいきいてくれてもいいんじゃない?」

 その言葉に対しては、どこまでも厚かましいお願いを聞いてやる義理なんてない、香里の顔がそう物語っていた。

「あたしに親友なんていないわ」

 それでも通じなさそうな名雪に言葉ではっきりと伝える。

「うわ、ひっどいよ、さすが平然と妹を見捨てるだけのことはあるよね」

「……あんたたちの一族は喧嘩を売るのが好きみたいね」

 名雪の言葉に、再びクラスメートが机をさり気なくずらしていく。

「まあ、元気になったみたいだからいいんじゃないかな。よくよく考えてみれば、栞ちゃんって香里と血が繋がっているんだもん、そう簡単に死ぬわけないよね」

 瞬間、ぎぎぎっと床が嫌な音を立てた。その机の持ち主が青ざめた表情のままその場に凍りつく。助けを求めるかのように辺りを見回すが、薄情にも一斉に目を背けられ、その生徒の目に涙が湧き出してきた。

「……今からあんたたちの一族を敵とみなすわ」

 幸い香里には聞こえなかったようだった。その生徒はほっと胸を撫で下ろすと、猛スピードで机を動かして、泣きじゃくりながら親しい生徒の胸に顔を埋める。受けとめた生徒はよしよしと頭を撫でながらも、少しずつ後ろに下がっていた。

「わわわ、冗談だよ」

 そうして三人の周りにぽっかりと空間ができあがる。

「悪いけど、あたしは仏よりも寛大にはなれないから、残念だけど三度目はないの」

「えっ? わたしは初めて……ちょっと、落ち着こうよ、気を悪くしたのなら、この前もらってきた化粧品の試供品あげるから。ほら、なんとなく目もとの小じわが気になるお年頃だしね」

 その瞬間、窓ガラスにひびが入った。

 この後に及んでさすがに寝たふりを続けられなくなったのか、起き上がった祐一が声をあげて香里を必死になだめようとする。

「そっ、そうだぞっ! 天野だって胸を張って生きているのにだなっ」

 クラスメートたちは皆一様に心の中で十字を切った。

「……あれ? どうして拳を振り上げているのかな?」

 そんななか、名雪だけは最後まで理解していなかった。

「うっさいわ!! このボケガエルがああっ!!!!」

「で、殿中でござる! 松の廊下でござるっ!!」

 恐慌状態に陥った祐一がわけの分からない言葉を発しながら香里を止めようとする。

「相沢と名雪を殺してあたしも死ぬーーっ!!」

 さらに、切れた香里を止めようと近くにいた女生徒が加勢したおかげでなんとか抑えつけることができた。思わずほっと汗を拭うクラス一同。

「ちっ痴話喧嘩はよくないと思うよっ、確かに美坂さんって愛人って立場がぴったりだと思ったりするけど、それは別に美坂さんが悪いわけではないと思うしっ!」

 だが、抑えているのが精一杯で言葉を選ぶ余裕がなかった。

「ちょ、ちょお、今の言葉は完璧に逆効果っ!」

 別の女生徒が悲鳴をあげる。

「しまった、つい本音がっ?!」

「うがーーーーーっ!!!」

 その日教室は1匹の修羅が荒れ狂った。

 

 

「もうしませんから許してください」

「ごめんなさい」

 仁王立ちの香里の前で床に這いつくばって土下座をする相沢一族。そして、その様子を遠巻きにして見守るクラスメートと、授業をしに来たはずの教師。

 罪もない哀れなこの教師は、本来するべき教科を道徳の時間に変更せざるをえなかった。教室の隅で窓枠に肘を乗せながら頬杖を付くその姿が哀愁を誘う。

「この通りっ!」

「香里の言うことはなんでもきくからっ、ねっ?」

 その間にもふたりの必死の懇願は続く。

「もういいわよ……」

 ぶすっとしながらも、香里がようやく腕組みを解く。

「おおっ、許してくれるのかっ!」

「さすがわたしの大親友だよっ!」

「やっぱ、やめようかしら」

「「けち」」

 ふたりの声が綺麗にはもった瞬間、鈍い音が二回続いた。

「…………」

「うう〜〜っ……」

 殴られた場所を押さえてのたうちまわるふたりを、冷たい目で見下ろしながら香里が呟く。

「あんたたち、ほんとに申し訳ないと思っているの?」

「うん、そんなに年齢のことを気にしていたなんて知らなかったから」

「気になんかしてないわよっ!!」

 反射的に叫ぶその姿は、言葉とはうらはらに悲痛な叫びを発しているように思えた。

「思いっきり気にしているじゃないか」

「気にしてないって言ってるでしょっ!!」

「別に栞ちゃんと足して2で割ると、ちょうどよくなるなんて思ってないから」

「……死にたいの?」

 据わりまくった香里の視線に名雪は口をつぐんだ。わざわざ口にチャックするジェスチャーまで追加する念の入れよう。

「はあ……すみません、少し頭痛がしてきたので保健室に行ってきてよろしいですか?」

 こめかみを揉み解しながら香里は教師に許可を求めると、その教師はわずかに顎を引いた。

「あの……もしかしてこのまま?」

 祐一がおそるおそる声をかける。

「もう、勝手にしなさい」

 言い捨てると、疲れの色を濃く滲ませながら香里は教室を出て行った。

 

 

「あ、お姉ちゃんだ〜」

 ドアをあけた香里は思わず顎を落とす。保健室では栞がベッドを占領していた。

「あんた、なにやってんのよ……」

「見て分からないの? 気分が悪くなったからここで休んでいるんだよ」

「ようするにサボりでしょ……テストで泣きつかれてもあたしは知らないからね」

「お姉ちゃん、ひどい〜……あれ? そういえばお姉ちゃんはなにしにここに来たの? サボり?」

「違うわよっ……休みに来たのに、ますます頭痛がひどくなりそうだわ」

「ええっ、お姉ちゃん頭が痛いんだ、じゃあ私がいい薬「いらない」を……なにか私に恨みでもあるのかな?」

「信用できないもの」

「実の姉に信用されていない妹に生きる資格はないみたい……お父さん、お母さん、先立つ不幸をお許しください……」

 はらはらと涙を流す栞に、それが嘘泣きと分かっていても降参するしかない。

「ああもう、どうせあたしが悪いのよっ!」

「わ、ずいぶんと荒れてるね……こういう時はどくたー栞ちゃんにお任せあれ」

 笑顔でポケットをごそごそと探り始める。その様子を香里はため息をつきながら見ているしかなかった。

「はい」

 取り出したのは、ピンクの小粒。

「違うわよっ!」

 真っ赤にして叫ぶ香里。

「あれ? そうなの?」

 それをしまうと、再びポケットを探り始める。

「はい」

 今度は正露丸。

「そっちから離れなさいっ」

「あれ?」

 人差し指を唇に当てながら、栞が首を傾げる。

「はあっ……もうこんな生活いや」

「お姉ちゃんが言うと説得力あるね」

「やかましい」

 香里はそのままベッドに倒れこんだ。

 

 

 

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